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「天の王」学園の中央に位置する聖堂は、異次元空間への門としての機能がある。聖堂以外にも「天の王」の構内には同じような門が幾つかあるが、季節によって空間の路幅が変わる。
夏の始まりを匂わせるこの時期の早朝には、聖堂の魔方陣が一等宜しい…とは、アーシュの勝手次第。
朝焼けが東の空をうっすらと染める頃、ステンドグラスから差し込む光に、大理石の床に描かれた銀の魔方陣が仄かに輝き出す。
「別に朝じゃなくても、日がな一日、光射し込んでるじゃん」と、アーシュはにべもなく。
確かにステンドグラスからの光は、季節、時刻、天候に関係なく、始終床の魔方陣に射し込み続ける。「天の王」七不思議のひとつ。
魔方陣の中心に傲岸と佇むアーシュに気づき、聖堂の扉を開けたスバルは慌てて神也の手を掴み、急いで駆け寄った。
「時間通りだな」と、睨むアーシュはいつもの伊達眼鏡も無く。
「君が時間通りに待ってるとは思わなかった」
「俺は時間を守る男だ!」
嘘を吐け!と、喉まで出かかったスバルだが、面倒臭いのでやめた。
「しかし…なんなの?その恰好?」
黒のタキシードに黒のロングマント、頭にはシルクハットを乗せ、いつものステッキを降り回すアーシュに、スバルは思わず口走った。
「これ?いやね、先日、吸血鬼の映画を観てさ。結構面白かったから、イールに見せようと思ってコスプレしてみた。まあ、このスーツは、パリで有名ななんちゃらデザイナーの新作で、モデルになってくれって言うんで、タダで頂いたのさ。似合うだろ?…と、言うか、一体なんだ? 」
「何が?」
「神也は何で制服なんぞ着てる?修学旅行じゃねえぞ?バカンスだぜ?」
「イールは神様だから、最低の礼儀は必要だろうと思ったのだ」
「馬鹿馬鹿、んなもんやめとけ。どうせあっちに行ったらあちらの民族衣装的な服を着せられちまうんだからさ。普段着でいい。それに背中のリュックも全部置いてけ。一体何を入れたら、そんな馬鹿でけえ荷物になるんだ」
「神也くんの着替え一式、運動靴に歯ブラシやら常備薬、あとは勉強道具と神也くんの好きな小説とお菓子…」
「いい加減にしろ。そんなもん持っていくなら、クナーアン行きは止めだ」
「な!」
「神也、いいから、さっさと着替えて、こちらへ来い。朝日が昇っちまう」
「わかった」
ここでアーシュの機嫌を損ねては、本当にクナーアンに行けなくなってしまう…と、いつもは鈍い神也も全速力で制服を脱ぎ、いちいちとスバルがリュックから差し出す服に着替え。それを手伝うスバルの目にはいつしか涙が溢れ…
「馬鹿スバル。永久の別れじゃなるまいし。ひと月ばかり離れるからって、泣くもんじゃねえよ。神也の成長を願って、笑って送ってやるのが、年上の恋人の責務って奴」
「わかってる」
Tシャツにジーンズ、薄青のパーカーを羽織る神也の足元のスニーカーの紐を結ぶのは、鼻を啜るスバル。
その姿に神也も後ろ髪を引かれる想いだが。
「さあ、神也、おいで」
差し伸べるアーシュの両腕には逆らい難い。
素直にそれに抱かれ、広げた黒マントが神也を覆い尽くす。
二人の姿は、まるで少年をさらう魔王の如く。
戦慄を覚えつつも、スバルはアーシュに「神也くんをよろしく」と、何度も頼む。
その姿に哀れを覚えた魔王は、手招きし、耳元に囁く。
「おまえねえ、俺がイールと離れて暮らしている寂しさを、おまえも少しは味わった方がいいぜ。しばらく会えないでいると、再会した時の嬉しさたるや、だ。その夜はこの上なく燃え上がる事間違いなし…。つうか、おまえらはもう昨夜燃えちまっているか」
こうなると恐怖の魔王も天下の魔術師も無い。
ただのスケベ親父だ…と、肩を抱くアーシュから逃げる様に身を引くスバルは、どうか神也くんだけはアーシュの毒牙に犯されぬようにと、心から祈りながら…
「神也くん、身体だけは気を付けてね。元気で楽しんでおいで」
「うん、心配はいらない。スバルも、あんまり寂しがらないでね。行ってきます」
マントの影から少し寂しげに手を振る少年の健気さに、再び瞼が熱くなる。
「じゃあ、行ってくるわ」
右手に持ったステッキ、即ち魔法のバクルスを掲げると、ヘッドに嵌め込まれた鏡からふたりの頭上に光の円が輝き出し、ふたりの身体はゆっくりと宙を浮き、頭から順に光の中に吸い込まれていく。
元はスバルが発明した「携帯魔方陣」を、イールとアーシュで色々と改良したひとつが、この空間移動ステッキ。
クナーアンの神木、マナの枝に魔力を注いだ反射板をヘッドに嵌め込み、何重にも複雑な魔方陣を刻み込んだ特注品。
念はほとんどイールが仕込んだもので、アーシュしか発動しない仕組みになっている。
「これがあれば、イールの元へ行くのはすげえ簡単なんだ。まあ、戻ってくるのが些か面倒なんだけどね。俺を返したくないイールの怨念がそうさせる。裏を返せば、それだけ俺が愛されてるって事ね。…聞いてる?神也」
「…なんか…フワフワして足元がおぼつかないけれど…、これは、一体…どうなっているのだ?」
瀕死の形相のスバルが、手を振っている所まではわかったが、身体が上昇した後、目の前が真っ暗。
しばらく慣れたその目に映るのは、神也の想像を遥かに、心細く。
紫がかったモーブの霧、一寸先も定かではない。身体全体が浮かんだように取り留めなく、今アーシュの腕を離したら、どこかへ飛んで行ってしまいそうな心元無さに、神也は夢中でアーシュの腕にしがみつく。
「そう力を入れなくたって大丈夫だよ、神也。ほら、足元にうっすら白く浮かんでいるだろ?あれが次元の路って奴なんだ。杖に仕込まれた鏡が羅針盤になって、ちゃんと俺達をクナーアンに導いてくれる。着くまでに一時間もかからない。これでも最初の頃は、何時間もかかっていたんだぜ。でもさ、こちらも慣れて要領良くなるし、何しろ、この魔力の杖と天才的な俺さまの魔術によって、最短距離を発見してな…つうか、聞いてる?」
「ねえ、アーシュ。スバル、寂しそうだった。大丈夫かな?」
「…」
自分が十六の頃は、こんなにも純粋だったろうか…と、別れた恋人の心情を慮る神也を愛しみ。
「スバルは神也が思うよりずっと強い男さ。あいつは…すげえ苦労してきたからね。昔から泣き虫で、女装好きと、色々と変だったけど、心根はまっすぐで強くて、優しいんだ。誰にも媚びない。そして、自分の出来る事を精一杯やる。そういうスバルが俺は大好きさ」
「…」
神也はアーシュを見上げ、嬉しそうに笑い、そして、真面目な顔で。
「夜、一緒に寝てると…時々スバルは、『伸弥さん』って寝言を言う。とても悲しそうに。『伸弥さん』はスバルが初めて好きになった人で、スバルが十四歳の頃、病気で亡くなってしまったんだ。私は…何も知らなかったから勝手に『山野神也』って、自分の名前を決めてしまったけれど、もしかしたらスバルは私の名前を呼ぶたびに、『伸弥さん』を思い出して、悲しい想いをしたのではないだろうか…って、思う時があるのだ」
「無いね」あっさりと言い切るアーシュに、神也はパチパチと瞬き「どうして?」と。
「だって、おまえの名前を呼ぶ時、あいつ、いつも嬉しそうだもの。それに伸弥…死んだ方ね。死んだ伸弥の亡霊を呼んで、俺がスバルと会わせたんだが、確かに良い男で。そりゃ、スバルを残して死んじまった事は悔しいけれど、スバルの幸せを祈るから、って約束したのさ。それから、ずっと守護霊としてスバルを見守っている」
「ホントに?」
「ああ、神也の事も気に入ってるそうだ。しかし、セックスはほどほどにしろってさ」
「…」
嘘つきのアーシュの事だ。どこまでが嘘か真か、甚だ怪しい。
けれど、神也の心はさっきとは比べられない程に、軽い。
それもアーシュの魔法なのかもしれない。
「スバルはね、最初は伸弥の事は誰にも話さなかったんだ。心に留めておきたかったんだろうね。初めて俺に話してくれたのは、小さな『山の神』に会った頃だ。名前も持たぬ『山の神』が可愛くてたまらないって。自分もあの年の頃に伸弥と出会ったから、尚の事、心配で仕方がない。今度は絶対守って見せる…って」
「本当?」
「帰ったらスバルに伸弥の事を聞いてみるといいさ」
「でも…」
「大切な思い出を大切な恋人と分かち合えるのは、幸福の印。スバルはもう過去の悲しみに囚われてはいない。思い出して泣くのは、弱いからでも悲しいからでも無く。懐かしさが心に沁みるのさ」
「うん…」
胸が熱く、そして、その想いがじんわりと身体の隅まで沁み入る。神也の瞼も熱く…
「アーシュ」
「ん?」
「ありがとう」
アーシュの胸に頭を寄せる神也の心地良い重みに、アーシュもまた優しく沁みて。
可愛い愛し子は、特別に。
「間もなく到着だ」
「ね、アーシュ」
「なに?」
「クナーアンの言葉って…私は知らないけれど、大丈夫なのかな?」
「言葉?」
「そう」
「馬鹿、御伽話に言葉で苦労させられた話があったかい?竜宮へ行くにも、天上へ行くにも言葉で困った事なんでありはしない。メルヘンやファンタジーはいつだって不可思議で残酷で曖昧で、ご都合主義だ。心配に及ばず…ほら、クナーアンの光が俺達をお待ちかねだ!」
バクルスが指し示す光が段々と広がり、ぼやけた景色が次第にくっきりと色づき…
アーシュに抱かれた神也は、ゆっくりと見たこともない薄青色の絨毯の上に降り立った。
「やあ、イール。待っててくれたのかい?びっくりさせようと連絡もしなかったのにさ」
「残念だね、アーシュ。君の気配を、先程から感じていた。だからって私の部屋にゲートを仕込むなんて。全くもって、君は、私を困らせることばかり思いつくのだから」
「だって、イールを驚かせるのが俺の趣味だもの。ね、この服似合ってる?」
惜しみなく神也をあっさり手離したアーシュは、黒マントを華麗にヒラリと靡かせ、軽やかにクルリと一回転。
「言いにくい事だが…随分前に、アスタロトが同じ格好をして、アースから戻ったことがあったよ。今の君の様に得意満面の顔でさ」
「…」
「それより紹介してくれないのかい?かわいいお客さまを」
「前に話した神也だよ。神也、これがクナーアンの神様で俺の最愛の恋人のイールだ」
「……は…」
「こんにちは、神也。よくクナーアンにきてくれたね」
「は、はい。あの…よろしくお願いします。イールさま」
「こちらこそ、よろしく」
緊張で固まった神也を和ませるように、少し屈んだイールは神也との初対面を楽しんだ。
「ちょっと待てよ」
「なに?」
「なんで俺が呼び捨てで、イールには様が付く?レイの時と同じじゃねえか!」
「君に神としての重みが無いからだろう」
「そりゃ、イールは千年以上生きてて、俺はまだ三十年もたたねえけど、頑張ってるじゃん!」
「それはそうだけど…」
「アーシュは、家族みたいだからだと思う。イールとは今初めて会ったのだもの。様を付けるのは礼儀だ」
「だそうだよ、アーシュ」
「わかりました。じゃあ、腹減ったからなんか頼んでくる。神也、そこで待ってろ!」
行儀も悪くふたりを指差し、アーシュはドカドカと足音を立てて、部屋を出ていく。
「怒らせたかな?」
「照れてるんだよ。それより、神也」
「はい」
「私の事も呼び捨てで構わない。これ以上アーシュの機嫌を損ねても、つまらないからね。元より私はおまえの神でも、導師でもない」
「わかりました、イール。よろしくお願いします」
神也は目の前の御伽話のような麗人に、深く、深くお辞儀をする。




