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S3 小径

 確かめに行こうと決めた翌日から、冷たい雨が一週間続いた。

 十二月に入ってようやく晴れた日の昼休みに、僕は裏庭へ向かった。被験者の住所を訪ねるのは、本来なら一発で懲戒ものだ。ただ、ここは職場の庭で、僕は昼休みに散歩をしているだけだ。

 正面玄関を出て、まっすぐ。車寄せを横切り、病棟の角を左へ。十月に若草色の背中が消えた道を、自分の足でたどるのは初めてだった。

 裏庭は、日が当たっているわりに寒かった。吐く息が白い。花壇の土はまだ黒く湿っていて、ベンチの足元には、雨に打たれた銀杏の葉が貼りついている。その奥で、ツツジとアオキだけが、季節を無視して青々と茂っていた。

 夏にボールを拾ったあたりにしゃがむと、平たい石はちゃんとそこにあった。濡れた落ち葉を指で払う。次の石、その次の石。植え込みの暗がりへ、点々と続いている。

 入口らしきものはなかった。伸び放題の枝が絡み合って、壁になっている。

 僕は両腕で枝を掻き分け、肩から植え込みに分け入った。葉にたまっていた雨粒が、まとめて首筋に落ちてくる。職員証のストラップが枝に引っかかり、首が後ろに引かれた。人に見られたら、説明に困る格好だ。

 枝の壁は、思ったより厚かった。肩で枝を押し分けながら二十歩ほど進んだところで、急に視界が開けた。

 植え込みの内側は、庭よりひときわ冷えていた。日が届かないせいか、雨の名残の湿り気が、土の上にじっと溜まっている。

「藤代《ふじしろ》さん。来てくださったんですね」

 蓬《よもぎ》さんだった。苔むした平たい石に腰かけて、膝の上で手を重ねている。問診ブースの丸椅子にいるときと、そっくり同じ姿勢だった。少し驚いた顔のまま、口元から先に、いつものにこにこへほどけていく。

「……住所に、書いてあったので」

「はい。住所の欄がありましたので、書きました」

 嘘のない、まっすぐな返事だった。それから彼女は、しみじみと付け足した。

「書いておくと、本当に人が来るんですねえ」

 来てほしくて書いたわけではないらしい。庭ヨリ小径《こみち》ヲ入リテ奥。電報みたいな住所は、道案内としては満点だった。

 それから、彼女が座っている石の、隣を見た。

 膝ほどの高さの、石でできた小さな祠があった。苔をかぶった屋根の下に、色のあせた木の扉が二枚。手前には、石の器が一対据えてある。

 神社の境内の隅や、田舎の道端で見かける、あれだ。けれど、ここは病院の敷地の中。何度も通った庭の、植え込み一枚向こうに、こんなものがあったなんて。ロビーの沿革パネルにも、祠の話は一行もなかったはずだ。

 何の祠なのか。何を祀っているのか。僕は何も知らない。

 しばらく、突っ立ったまま見ていた。右の扉は蝶番《ちょうつがい》が外れかけているのか、斜めに垂れて、下の角が土につきそうになっている。石の器は花立《はなたて》らしく、落ち葉がぎっしり詰まっていた。屋根の下には、ちぎれた注連縄《しめなわ》の切れ端がぶら下がっている。

 長いあいだ、誰も手を入れていない場所なのだろう。雨を吸った苔も、黒く湿った落ち葉も、しんと静まり返っている。でもその真ん中で、蓬さんだけが、陽だまりの縁側にでもいるような顔でにこにこしていた。

「藤代さんは、よく見る人ですね」

 蓬さんが感心したように言った。からかう調子ではない。いいものを見つけた、という口ぶりだった。

「……仕事柄、つい」

 扉に伸びかけた手を、僕はポケットに戻した。勝手に触っていいものなのか、分からなかったからだ。

 雨上がりの土と、苔の匂いがする。祠の周りには、白っぽい小さな葉が、地面に張りつくように広がっていた。冬のよもぎだ。薬学部の生薬《しょうやく》の実習で、同じものを摘んだ覚えがある。

「寒くないですか」

 苔の石は、見るからに湿って冷たそうだった。

「はい。カーディガンがありますから」

 彼女は焦げ茶のカーディガンの前を、大事そうに合わせてみせた。その下は相変わらず、薄手の着物一枚に見える。カーディガンへの信頼が厚い。

「この祠は、何の祠なんですか」

「お参りしていただく所です」

「それは、そうですが……何を、というか、誰を――」

 蓬さんが、少しだけ身を乗り出した。

「藤代さんは、いつも聞いてばかりです」

 にこにこしたまま言われた。責める声ではない。質問の止まらない子供に、そろそろ交代ね、と言うときのような声だった。

「私の生年月日は見たのに、藤代さんのは教えてくれないんですか? 不公平です」

 問診は、聞くのが仕事です。そう言いかけて、やめた。被験者には生年月日も住所も書いてもらって、こちらは何ひとつ明かしていない。まあ、言われてみれば、不公平ではあるのかもしれない。聞き返すのは僕の役目のはずが、今日は聞き返されている。

「……五月五日です」

「こどもの日生まれ!」

 蓬さんは、膝の上の手をぎゅっと握った。

「いい日ですねえ。あの日は、子供たちと遊べるんですよ」

 子供たち。十月の問診で、お子さんはいないと聞いている。夜泣きの赤ちゃんは、「この辺りの、皆さんの」だった。

 聞き返すより先に、次の質問が来た。

「藤代さんは、毎年その日に何をなさるんですか?」

「たいてい仕事です。帰りに、柏餅をひとつふたつ買うくらいで」

「よもぎのは、お好みですか?」

「……よもぎの柏餅、ですか」

「はい。緑色の」

 和菓子の売り場では、いつも白かピンクのしか手に取らない。蓬さんは、そんなことを考えている僕を気にした様子もなく、話を続けた。

「よもぎは、体にいいんですよ。お腹を温めてくれますし」

「艾葉《がいよう》ですね。生薬にも使います」

 答えると、蓬さんは嬉しそうに目を細めた。

「ご存じなんですね。同じ名前なので、褒められると嬉しいです」

 褒めたつもりはなかった。国家試験の前に、効能とセットで丸暗記した名前を口にしただけだ。

「では、次の五月五日は、よもぎのにしてください」

「……売り場で、確かめてみます」

 ポケットでスマホが震えた。昼休みの終わりに合わせたアラームだ。

「すみません、戻らないと」

「はい。お見送りします」

 帰りも枝を掻き分けた。また首筋に雨粒が落ちてくる。植え込みを抜けて庭に出ると、冬の日差しが目に痛い。

 横を見ると、蓬さんはもう遊歩道に立っていた。僕のあとから来たはずなのに、枝の鳴る音もしなかった。若草色の着物にも、焦げ茶のカーディガンにも、葉っぱ一枚ついていない。

 ちょうど遊歩道を、車椅子が通りかかるところだった。毛布を膝に掛けたおじいさんと、押している看護師。看護師の目が、僕の肩で止まった。見ると、アオキの葉が一枚乗っている。

 植え込みから職員ががさがさ出てくれば、誰だって見る。

 僕の隣で、蓬さんが二人に丁寧にお辞儀をした。看護師の視線は僕の肩を離れ、彼女のいる辺りを、植え込みを眺めるのと同じ速さで通り過ぎていった。車椅子のおじいさんは、僕と目が合うと、小さく会釈をくれた。

 段ボールを抱えた事務の人が、庭を斜めに横切っていく。ちらりと僕を見て、そのまま病棟の裏口へ消えた。

「では、また。いつでもどうぞ」

 蓬さんはそう言って、植え込みの方へ戻っていき、枝の間にするりと見えなくなった。

 センターに戻る途中、病棟の角を曲がったところで、ふと足が止まった。

 看護師は、僕の肩の葉を見た。おじいさんは、僕に会釈をした。事務の人も、僕を見た。

 蓬さんを見た人は、一人もいなかった。

 十二月の庭に、若草色の着物の女性が立っていたのに。植え込みから出てきたのは、二人だったのに。

 確かめる方法なら、いくらでもある。さっきの看護師を追いかけて、聞けばいい。着物の人がいましたよね、と。それで済む話だ。

 僕は肩の葉をつまんで、足元に落とした。足は、センターの方を向いたままだった。

 聞けば、答えが返ってくる。その答えを、今日はなぜか、知りたくなかった。


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