第二章 ③
その沈黙を真っ先に破ったのは、他ならぬアリシア自身だった。
「なんだこれは!?」
驚愕して、剣を持った右手を凝視する。
「どういうことだ、カイル。私の力が……こんな……」
それは魔法の威力があまりに小さすぎることへの驚きだった。
(魔力を押さえすぎた? ……いや、だとしてもこんなのはあり得ない……!)
正直なところ、彼女は副官に言われるがままに全力を出してはいなかった。普通に考えて、民間人と部下めがけてそんな事できるはずがない。それでも、あの青年を何メートルか転がして、マーヤから引き離すくらいの力は込めたつもりだった。
だというのに。彼は髪を乱して啞然としているだけで、マーヤから離れるどころか、その上から一ミリも動いていなかった。
滅茶苦茶な室内というのも、飾り棚の写真立てが倒れたとか、カレンダーが落ちたとか、そういうレベルだ。覚悟していた食器棚のガラス戸でさえ、すべて無事だった。
「……隊長。せーりっすか?」
ふたたび顔を上げたマーヤが、デリカシーの欠片もない一言。もちろん彼も傷ひとつない。
「違う!」
我に返ったアリシアがぴしゃりと否定する。
それぞれの人間がそれぞれの戸惑いを見せるなか、カイルは泣き止んだ優子を優しく床に降ろし、言った。
「この世界に魔法を使える人間はいない。魔法が無いんだ」
「なっ……」
想定外の告白に、アリシアは言葉を失う。
「そして我々が魔法を使っても、この世界では激しく減衰してほとんど使い物にならない」
「……そんな」
「黙っていてすまなかった、隊長。だが以前の勤め先で知ったことだ。守秘義務がある」
「この期に及んで……」
アリシアは怒りを通り越して、呆れてしまった。
自分の世界とこの世界、これほど重大な違いがあるなどと想像も出来なかったし、この男もよくもまあ、それを顔色一つ変えずに黙っていられたものである。
「不実なるアルビオンの、忠実なるアルビオン人だからな」
カイルは彼女の心情を察して自虐的にコメントすると、京介に視線を移した。
「驚かせたな。だがくだらんトリックの類でないのは分かったはずだ」
「…………なんなんだ。なんなんだ一体……」
放心状態のまま、キーンという耳鳴りを聞いていた京介は、どうにかうわずった声を絞り出した。彼にとっては魔法の威力など問題では無かった。目の前で剣が瞬き、空気砲になったのだ。
「俺たちは隣の世界からやってきた。剣と魔法の世界だ」
「…………」
なんとロマンあふれる台詞だろう。
でもどうせなら迷彩服のマッチョマンではなく、いかにもな格好をした女のほうから聞きたかった。
「……そんなとこから、いったい何しに?」
「ちょっとした探検。それと――閂を掛けに」
カイルはにやりと笑って答えた。
――一〇分後。一階の寝室。
「起きてくれ、母さん」
ベッドの上に片膝をつき、京介は乱暴に母親の身体を揺すった。
「母さんってば」
「んにゃ……」
息子と同じ髪色、くしゃくしゃのセミロングを枕に広げた母親は……一向に起きる気配がない。
「……ったく」
あれだけの騒ぎにも動じず、よくここまで眠れるものである。頼もしいやら呆れるやら。とはいえ、いい加減起きてもらわねばならない。
「母さん、なんか冷たくない?」
京介が耳元でそう囁いたとたん、母親の目がかっぴらいた。
「優子は? お風呂場?」
言いながら、彼女は掛け布団の下でせわしなく手を動かす。
「いや嘘。おねしょじゃない」
「んもぉぉ……びっくりしたぁ……」
心からの安堵の声。濡れた個所を探っていた手が止まり――目も速やかに閉じる。
「寝るなっつの! 来客だよ! 来客!」
「ん~……らいきゃくぅ?」
「ああ。飛び切りぶっ飛んだ奴らだ。危うく殺されるとこだったよ」
「んぅ? なに言って――」
『余計なことは言わんでいい!』
寝室の外で聞き耳を立てていたアリシアが声を張った。
これにはさすがに驚いたのか、京介の母――佐倉千代美は目を開けて、
「だれ?」
「知らない」
「んう?」
「それを二人で聞こうっての。だから起きて顔洗って着替えて席について。あ、服はフォーマルか、無理ならカジュアルエレガントぐらいな感じで」
「?」
「注文が多いんだよ。勝手に入ってきたくせして」
「……そうなの。じゃ、悪いけどよろしく」
「おいコラ」
またも寝ようとした千代美の布団を、京介は容赦なく剝ぎ取った。
――さらに一五分して。
ようやくダイニングの四人掛けテーブルに、両者の代表が二人ずつ、向かい合って座った。
アリシアとカイル――制服姿の京介と、結局カジュアルなパンツルックの千代美。
下士官のマーヤは会談からはじかれて、炬燵で優子の相手をしていた。彼は相変わらず緊張感ゼロで、少女の持つピンクのポータブルゲーム機に目を輝かせ、『すっげー』だの『えっ、えっ、貸して貸して!』だのとはしゃいでいる。
「――お茶、入れますね」
「お構いなく」
立ち上がる千代美に、カイルが社交辞令で言った。
なんとも日本的な場面だが、この男の容姿でやられると違和感しかない。
「……それで、全部説明してもらえるんだろうな」
正面に座るアリシアに、京介が険しい視線を向けた。
彼女は胸甲と剣をはずして脇に置き、詰襟の軍服姿だった(ちなみに胸甲の張り出しの中身は、これでもかと言わんばかりにたっぷり詰まっていた。この状況ではどうでもいいことだが)。そしてその詰襟には階級を表す襟章だけが付いており、えらくさっぱりとしている。装飾をできる限りはずした、野戦装だ。
「まずはお茶を一杯いただこう。緊張の連続でのどがカラカラだ」
「そりゃそうだ。人ンちで初陣飾ったからな。言い忘れてたけど、おめでとう」
「……言うんじゃなかった」
きつい皮肉に、アリシアはほんのり頬を染めた。
そんなやり取りをしていると、千代美が漆塗りのお盆を手に、食卓に戻ってくる。彼女はお盆に伏せてあった家族の湯飲みと、来客用の湯飲みを卓上に並べ、急須から少しずつ順番に、おなじ濃さになるように緑茶を注いでいった。
そうして最後の一滴を客人の湯飲みに落とし、
「優子、お茶持ちにきて」
「はーい」
少女が炬燵から出て、『てててっ』と母のもとに来た。
「はいこれ。あのお兄さんにあげて。こぼさないようにゆっくりね」
「あーい」
茶托に載った湯飲み茶碗を受け取り、優子は慎重な足取りで炬燵へと戻っていく。
それを横目で見守りつつ、千代美は『どうぞ』と、食卓の客人にも湯飲みを配った。
「ありがとうございます」
「どうも」
アリシアとカイルが、それぞれ礼を述べる。
自分ふくめ、全員分の茶を出し終えると、千代美は優子の湯飲みを手に炬燵へ向かった。そして娘と三つ編み頭の青年の『お茶どーぞ』『わーありがとー』というやり取りを見届けてから、
「はい、優子のお茶」
子供用の小さな湯飲みを置いてやる。
「ありがと」
「熱いからふーふーしてね」
「はーい」
「わざわざありがとうございます」
優子から茶をもらったマーヤが、千代美にも礼を言った。
「ふふ、ごゆっくり。……って言っても、優子の相手をしてたら落ち着かないわね」
「いやいや、僕が子供のころより、よっぽどしっかりしてますよ」
「あらまあ、どんなお転婆さんだったのかしら」
「えへへ。って、ぼく男ですよぉ」
「ああそうだったわね。ごめんなさい」
『うふふふふ』『あはははは』と、和やかな雰囲気。とても初対面の――しかも家に押し入った側と、そこの住人同士のやり取りには見えなかった。
アリシアは年若い部下の言動に粗相がないかを見ながら、千代美にすっかり感心する。娘に対するいまのワンシーンだけでも、普段から良い躾をしているのがうかがえた。
そしてそれをやっている状況を考えれば――
「とてつもなく肝の据わったお母さまだな。……ちょっと異常なくらい」
「…………」
返す言葉もなく、京介はうつむき加減で閉眼し、眉間を揉んだ。
千代美が席に戻るのを待ってから、アリシアは『いただきます』と湯飲みに口を付け、ほっと一息ついた。
それからようやく、話しはじめる。
「さきほど簡単にご挨拶しましたが、まず改めて自己紹介を。ベルジア王立特殊作戦軍少佐、アリシア・ランバートです。となりが副官兼副隊長のカイル・ガルブレイズ大尉」
カイルが会釈する。
「そして娘さんに面倒見てもらっているのがマーヤ・スリリャオナン伍長です」
テーブルで自分の名前が出ても、炬燵のマーヤはゲーム機に夢中で気付かない。
「まったく……」
ため息をつくアリシアに、千代美が微笑んだ。
「まあまあ、優子も楽しそうですし。ええっと、私は佐倉千代美です。主婦と、いちおう植物の育種家をしています」
「ほう。育種家を」
意外な事実に、アリシアが反応した。
「と言ってもチームでやっていますから、育てるのは仲間が。私は交配に使う希少な原種を手に入れる担当なんです。蘭とかバラとか」
「それはすごい。いわゆるプラントハンターですか」
「あらよくご存じで」
「いえ、じつは私の家にも原種のバラがありまして――」
激しく脱線しかけた会話を、京介が咳払いで食い止める。
「ああ、すまない。ええと、きみは京介くんだったな。それに優子ちゃん」
まるで名前を覚えられたのが気に食わないかのように、京介は不愛想に頷いた。
「……改めてよろしく。では本題に入りましょう。なぜ皆さんが日曜の早朝からこんな目に遭っているのか、なぜ我々がこんな迷惑な真似をしているのか、少々複雑な事情があります」
アリシアは腰のポーチから四つ折りの紙を取り出して、テーブルに広げた。
「……地図」
京介がつぶやいた。
和紙のような風合いの紙に、時代を感じさせる古風なタッチ。だが測量は正確そうだ。
それなりに広い地域を扱ったもののようで、大きな都市や山の名前、国境らしき境界線だけが記されている。右下には方位記号と、英語で〈Northern Argelia 2〉〈Galley sea countries〉の文字。
「北アルギリア、ガレー海沿岸諸国の地図です」
「……と、言われてもね」
「当然ピンとはこないだろうな。これは我々の世界の地図だ」
アリシアは軍人の自分が、『我々の世界』などという、空想めいた言葉を口にしている事におかしさを感じつつ、
「簡単に説明します。まずこの真ん中の海、これがガレー海です」
地図の中心――陸地に囲まれた複雑なかたちの海を、指でくるりと囲った。
「ご覧のとおり大きな内海でして――」
つづけて白い指は地図の北側へすべり、いかにも狭そうな海峡をポイントする。
「――唯一このトルホー海峡で、北海に通じています。ガレー海沿岸には七つの国があり、うち六か国にとってはこのガレー海だけが、領土に面する海です」
「ってことはその六か国からすれば、そのなんちゃら海峡だけが外洋への出口ってわけか」
「そういうことだ」
「……ほーお」
あまりに分かり易い“海上の要衝”を見て、京介は思わず感心してしまった。もしこの海峡がこの世界にあったら、間違いなく社会科の各科目で引っ張りダコだろう。
そしてその海峡の外は――“北海”だという。
こちらにも同じ名前の海があるが、もちろん別の場所だ。しかしその名がつくということは、地図の場所はかなり緯度が高いらしい。実際いま喋っている女の白い肌も、どこか北欧系を思わせた。
そして地図上、その北海よりもさらに北側には陸地が見切れていた。かなり大きな島か、もしかすると南極大陸ならぬ北極大陸があるのかもしれない。
「そしてその内のひとつがベルジア。私の国です」
アリシアの指が、地図上でガレー海の左側にある、一つの国をさした。
〈BERSIA〉――縮尺や図法が分からないので何とも言えないが、それほど大きな国では無さそうだ。
「そっから来たってのか?」
アリシアは頷いて、続けた。
「ベルジアは――自分で言うのもなんですが、風光明媚な良い国です。美しい街並みに牧歌的な田園風景、雄大な自然と山々。平らな土地が少ないのが玉に瑕ですが、その起伏に富んだ大地こそが、地域ごとの多種多様な文化の醸成と、安全保障に寄与してきました」
「いいとこそうねぇ」
説明が始まってから静かだった千代美が、ようやくそれだけ口にした。
「美容にいい温泉もあります」
「まあ」
「観光アピールはいいから。はやく肝心なことを教えてくれ」
「む、そうだな」
うんざり顔の京介に乞われ、アリシアはベルジア領内の、ガレー海に面した一点を指差した。そこは巨大な三角州なのだが、この地図の縮尺ではほとんど見て取れない。
「ここがベルジア首都、グランツィヒです。ここで――〈門〉が見つかった」
「……門」
京介がぼそりと復唱する。なんとなく、どんなものか想像がつくネーミングだ。
「そう。そこを通って――ここに出た。正確にはこの家の裏庭に」
「っ! 裏庭ァ? 裏庭ってっ……」
「あそこだ」
アリシアが言って、リビングに面する掃き出し窓――ごく普通のアルミサッシを目線で示す。
新鮮な朝日に照らされた窓の外は、きらきらと輝いて、どこか幻想的だった。
「…………」
「まあ、そういうわけだ。手荒な真似をして済まなかったが、未知の事態にこちらもどうしていいか分からなかったのでな。とりあえず大ごとにならないよう、この家を速やかに制圧。のち、全力で無礼を詫びるという作戦になった」
「勇ましいんだか情けないんだか」
「なんとでも言え。これしか手はなかった。……まさか一家全員口封じ、というわけにもいくまい」
とくに含みを持たせたような言い方ではなかったが、京介は言外に『可能・不可能で言えば、もちろん可能ではあるが……』と付け足されたように感じた。
「……じゃあ、そこは感謝しとくよ。エライ迷惑に違いはないけど」
「ん。重ね重ね、こちらも申し訳ない」
ぺこりと頭を下げて、彼女は『ふぅ』と息をついた。それからまた茶をひとくち。
いっぽうの京介は何を言うか考えるように、唇や眉をあれこれ動かし、
「……ま、素直に感想を言えば、信じろという方が無理なホラ話に聞こえる。全部な」
まず前置きした。
そう言われても仕方がないのは百も承知だったので、アリシアは黙して二の句を待つ。
「だが、あんたらがこの世界でいう“普通”じゃないのも、身をもって体験した。だからとりあえず、いま聞いたことにイチャモンは付けない」
信じる、とは言ってもらえなかったが、アリシアはそれでも安堵したように、
「それで充分だ。ありがとう」
と応じた。
続けてカイルが口を開く。
「これが我々の正体であり、今ここに居る理由だ。なにか質問はあるかな。もちろん少し落ち着けば、いくらでも出てくるだろうが」
「質問ね……」
考える素振りを見せつつ。京介は、どうやらこの連中は母親ではなく、自分を話し合いの主な相手に定めたらしいな……と思った。まあ無理もない。母親の方はいまいち反応が薄いし、それほど驚いている様子すらない。身内にこんなことを言いたくはないが、これはもう奇人変人のカテゴリーに片足を突っ込んでいる。
それはさておき、彼はせっかくなので、先ほど地図を見たときに浮かんだ疑問をぶつけることにした。それは意思の疎通に関するあまりに根本的な疑問で――じつを言えば気付くのがここまで遅れたことに、ひそかな羞恥さえ感じていた。
「じゃあ訊くけど、なんで俺たちの言葉を話しているんだ? ここは日本といって、この言語はそのまま日本語と呼んでいる。この国独自の言語だからだ。ベルジアでは日本語を話すのか?」
アリシアとカイル――白人同士が顔を見合わせる。そんなにおかしな質問だったのだろうかと、京介は少し不安になった。
「俺が答えよう」
カイルが言い、アリシアが頷いた。
「信じられないだろうが、我々の世界では、誰もがあらゆる言語を自由に話す」
「!」
「そして職業や立場、時には気分や話し相手によって、使用言語をころころ変えるんだ。地域や性別、身分によってある程度の傾向はあるし、流行り廃りもあるが――それでも世界全体が言語のるつぼと言っていい。特にベルジアはな」
「……はっ。さすがに冗談だろ」
引きつった笑いを浮かべる京介に、アリシアが追い打ちをかける。
「それはこちらの台詞でもある。この国ではほぼ日本語しか通じないらしいが、それこそ冗談のような話だ。どうやって生きているのか見当もつかん」
「……ああ、そう。そういう感覚なわけ……」
京介は自分の世界がひとつ崩れたように感じた。それも魔法を見た時より大きく。
こんなことを考えている場合ではないと思いつつ、彼の頭はあることで一杯になる。
そう――自分たち学生があれほど時間を割いてきた英語の勉強とは、いったい何だったのだろう。