1. 百回目の求婚
「お前に求婚する物好きなんて、広場の石像くらいのもんだ」
十八時の鐘に、ジョアシャンの声が重なる。時計塔の影に沈んだ広場の北の隅。屋台を片付ける私の頭上で、像の肩から飛び立った鳩が羽を鳴らした。
ジョアシャンが撫でつけた亜麻色の髪を指で直す。尖った顎を上げ、口の端で笑う。その腕に寄りかかった娘の白金の巻き髪が揺れた。
彼は組合長の息子で、私の元婚約者。商会の娘パスカリーヌは、噴水の前のレースの出店の主で、いまの婚約者だ。
百日前の夜、噴水の前で紙一枚で婚約を破棄したときも、同じ台詞。翌朝は組合長の札一枚で、屋台を日陰へ移された。それから毎夕、花を一輪供え、私は像に求婚している。
栗色の三つ編みを背中へ払う。私はミレッテ、二十一、祖母の屋台を継いだ花売り。本日の売上、銅貨十二枚。本日の冷やかし、二名様。ジョアシャンが薄い水色の目で、棚の売れ残りを眺めた。
「百日だぞ。返事はあったか? 石の旦那は花を買ってもくれないだろ?」
「ただいま保留中です。お返事をお待ちするあいだも、お店は毎日開けております。ご心配は、お財布を開いてお願いいたします」
「はっ。俺に振られた腹いせに、百日も続けてるだけだろ? そんなに悔しかったか?」
「悔しくても、お花は売ります。逃げる方のご都合に、私のお店を合わせるつもりはございません。お買い物でしたら、承ります」
「買うかよ。隅の売れ残りなんか、石の旦那にでも供えとけ。俺の前で強がるなよ」
レースの手袋の小さな手で売れ残りの花を一本つまみ上げ、パスカリーヌが言う。
「石の旦那様なんて、お安く済んでよろしいですわね」
「ええ。よそ見もなさいませんし、持参金の額もお尋ねになりません」
葡萄色の目が丸くなる。その隣で、前髪に指を置いたまま、ジョアシャンが声を裏返した。
「なんだと! 持参金の話はしてないだろ! 俺たちの祝いに、そんな口を利くのか!?」
「お花はいかがですか? ご婚約のお祝いに、一割お引きします。お祝いの言葉も、付けておりますよ」
花をつまんだまま、パスカリーヌが唇をとがらせる。
「まあ。お祝いを値引きされてしまいましたわ、ジョアシャン様。わたくしたちに安い花で済ませろとおっしゃいますの?」
ジョアシャンは、揃っている前髪をまた撫でた。
「いらん! 花なんか、表通りで買う! 値引きなんか頼んでない!」
桶の水が、戻された花に揺れる。腹の底は波立っても、商売の声は乱さない。祖母仕込みの技だ。
桶から勿忘草を一輪取った。小柄な体で花桶を運ぶせいか、腕だけはたくましい。恋より先に、腕っぷしが育つ。隣の果物売りが言う。
「また始まったよ。今日は冷やかし付きだ」
石の騎士は剣を地に立て、両手を柄に置いている。台座の銘板には〈騎士エルキュール〉。百年前、川を下ってきた竜を古い橋で食い止め、石になった騎士だ。
子どもの数え歌、〈石の騎士さま 目をさます 真心ひとつの 求婚で〉を本気にする人はいない。最初の三十回は当てつけ。そのあとは愚痴も、売れ残りの数も、好きな人としたいことも話した。昨日の九十九回目には、余計なことまで。
〈英雄様。私、たぶん、あなたのことが好きです。お返事をなさらない方にしか、言えませんけど〉
返事をしない相手にだけ、本当のことが言えた。鼻をすすっても、笑顔に戻るのを急がなくていい。石の靴先がはっきり見えるまで、私はここにいられる。
冷たい石段に花を置く。背中で笑う声に、今日は冗談の顔を作れない。私は石の顔を見上げた。
「英雄様。百回目の求婚です。私と、結婚してください」
私の背へ、ジョアシャンが鼻で笑う。
「やってろ。ほら、今日も黙ったままだ。お前、恥ずかしくないのか?」
「お返事が無いのは、いつものことでございます。冷やかしより、静かなお相手のほうがありがたいものです」
切り花の青い匂いのする指を前掛けで拭い、私はいつもの声で締める。
「今日もお返事は保留ですか。では、また明日、求婚します」
背を向けた瞬間、石の足もとで音がした。
鳩がいっせいに飛び立つ。ぴしり、と乾いた音が響き、石の粉が夕日の中へこぼれる。
振り返ると、空になった台座の前で、青年が私に膝をついていた。
足もとから、石の灰色が抜けていく。首の後ろで束ねた麦穂色の髪から、後れ毛が夕風にほどける。頬に、人の血の色が差した。
見上げるほどの長身で、肩幅も広い。膝をついていても、顔が私の目の高さにある。……ずるい。深い青の目に、青林檎色の目を見開いた私が映る。
手には、さっきの勿忘草。彫りの深い、まじめくさった顔に太い眉を寄せ、青年は口を開いた。
「昨日の返事も、その前の返事も、全部、はいだ」
広場が静まる。果物売りの籠から林檎が一つ落ち、私は前掛けを握る。
「き、聞こえていたんですか? 店じまいのあと、ここで話していたことも、全部? あんなことまで?」
「全部。愚痴も、求婚も。ミレッテが私に話しかけた言葉は、全部だ」
「全部って……売れ残りの数を数えていたのも、ですか? あれ、お話ではなくて、ただの勘定ですよ?」
「全部だ。雨の日に、ほとんど売れなかった分も」
私は笑おうとして、声だけを裏返した。
「そんなところまで、覚えていらっしゃらなくて結構です! 売れ残りの報告まで、真顔でなさらないでください!」
「覚えている。ミレッテの声だった」
百日分の独り言が、頭の中で帳付けの束になって崩れる。三十七回目、五十二回目、九十九回目。……破いて捨てたい。
「昨日の愚痴は忘れてください! その、ここだけのお話ということで!」
「いくつかあったが、どの男の分だ?」
「そこは全部です! 忘れる分まで品定めしないでください!」
商売の笑顔が、音を立てて剥がれた。英雄様は一拍黙り、それからまっすぐに私を見る。
「では、九十九回目の告白も、忘れたほうがいいか?」
「それは一番忘れてください! 思い出していただくと、私が明日お店を開けられません! お客様の顔を見られませんから!」
「忘れられない。聞いた言葉だ。求婚への返事も変わらない」
「か、変わらないって……そんな、お店の看板みたいにおっしゃらないでください!」
大きな手が私の手を取り、甲に口づける。真顔のまま、耳だけが赤い。指に戻された勿忘草が震えていた。英雄様が目を上げる。
「明日も、ミレッテの声を聞きたい」
喉がひくりと鳴る。百日、石の前で待っていた言葉が、こんな近くにある。前掛けで拭ったはずの指が、また湿った。
横から声が飛んでくる。前髪を直すジョアシャンだ。
「芝居だ! どこの役者を雇った!? 俺を笑い者にするために、こんな仕掛けまで作ったのか!?」
ひょろりとした体を台座へ引き上げ、なで肩をいからせて、ジョアシャンが石を叩いた。隣の果物売りが身を乗り出す。
「台座が空っぽだよ! さっきまで、確かにそこに立ってたじゃないか!?」
広場の子どもが跳ねる。
「英雄様だ! 石の英雄様が、花売りのお姉ちゃんにお返事した!」
立ち上がったエルキュールが、台座の上を見上げる。
「その台詞は、百日前にも聞いた。物好きなら、ここに居る」
ジョアシャンの顔から、薄笑いが抜け落ちる。
「お、お前……本当に、石だったのか!?」
「百年、石だった」
足が滑る。ジョアシャンが石段に尻もちをついた。広場じゅうの笑い声の中、つんと上を向いた鼻の先を赤くして、パスカリーヌが顔をそむける。
「ジョアシャン様、行きましょう! わたくしまで恥ずかしいですわ!」
立ち上がったジョアシャンが、私を指さした。
「待て、ミレッテ! まさか本気で、こんな石くれの返事を受ける気か!?」
保留にすれば、明日には全部冗談にできる。指の間で、青い花が揺れた。でも、百回保留にしてきたのは、本当は私のほうだ。今日は、この広場で受け取る。前掛けを払い、丸い頬の右だけにえくぼの出る笑顔を作る。
「百日分のお返事、確かに承りました。では英雄様、明朝六時、まずは鉢運びからお願いします」




