第二章 雨の納期
雨は止まなかった。月曜の朝、工場の含水率センサーは赤いランプを点滅させ続け、納品予定の天板は全て反っていた。そして島原は笑った。
朝会の場で、課長の島原は両手を広げて見せた。芝居がかった仕草だった。
「困りましたねえ。郷田くんの工程管理、どうもこのところ精度が落ちてきた」
会議室の長机を囲んだ十数人の社員が、黙って手元を見た。誰も視線を上げなかった。直樹は立ち上がって、ノートパソコンの画面を取引先に向けて広げた。
「先週、湿度の上振れリスクを文書でお知らせしました」
「俺は受け取ってないよ」
「送信記録は残っています」
「サーバの問題かもしれない。とにかく、現実に納期は遅れた。これは生産管理の責任だ」
島原の声は、わざとらしいほど穏やかだった。叱責の体裁を取りながら、実際は責任の押しつけだった。直樹はそれを十一年見てきた。社員の中には、それを分かっている者も、分かっていない者もいた。だが、誰も口を開かなかった。皆、自分の身を守ることに、忙しかった。
直樹自身も、何も言わなかった。十一年間、何百回も繰り返してきた、沈黙の作法だった。反論しても、結局、責任は彼に来る。事実を述べても、それは「言い訳」と呼ばれる。だから、彼は、黙る。黙って、書く。誰にも読まれない日報を、書き続ける。それが彼の十年だった。
会議室の蛍光灯が、じいじいと、鳴っていた。窓の外で、雨の音が、続いていた。
その雨音の中で、彼は自分の指の関節を、机の下で、強く握っていた。誰にも見えない場所で、彼の指は、白く、なっていた。彼の感情を、外に出さないための、長年の作法だった。指の関節が痛むほど握れば、表情が緩まない。十一年の経験で、彼は、それを覚えていた。
取引先の担当者は、机の上に並んだ反った天板の写真を見て、ため息をついた。家具量販の販売計画に組み込まれている品だった。仕入先を一週間ずらすだけで、全国の店頭ポスターを刷り直さねばならない。担当者は丁寧な人だったが、声が低くなった。
「御社内のことは、御社で解決していただけますか」
帰り際、担当者は直樹の名刺を見て、ふと立ち止まった。
「郷田さん、たしか半年前のセミナーで、ロット別の含水率管理の話をされた方ですよね」
「はい」
「あれ、よかったですよ。あの数字の取り方、参考にしてます」
直樹は黙って頭を下げた。横で島原の口元がかすかに歪んだのを、視界の端で見た。一瞬だけだった。そしてすぐに、いつもの穏やかな仮面に戻った。
その仮面を、直樹は、十年以上、見てきた。
そして、その仮面をまた、見続けるのだろうと思った。
担当者が、彼に、もう一言、何かを言いかけて、止めた。たぶん、何か慰めの言葉だったのだろう、と直樹は察した。だが、担当者は、それを言わなかった。仕事の場で、他社の社員に、慰めの言葉を、かけるのは、難しい。直樹はその難しさを、理解した。担当者の沈黙を、感謝した。
彼らは、それぞれ、自分の場所で、見えない誰かを、励ましていた。それで、十分だった。
その日、直樹は休日返上で工場に残った。残業ではない。会社が払う残業代の話ではなく、自分のなかで折り合いをつけるための時間だった。反った天板を一枚ずつ動かして、桟積みの組み替えを行った。湿度を下げ、応力の偏りを抜く。あばれた木は、すぐには戻らない。だが、桟の隙間を変えれば、これ以上ひどくはならない。
厚板は重かった。一枚あたり三十キロ近くある。腰を入れて、両手で持ち上げて、隣の桟の上に置く。それを三十枚以上、繰り返した。
汗が背中を伝った。
工場の中は静かだった。皆、もう帰っていた。蛍光灯の音だけが、天井で、じいじいと鳴っていた。湿度計の赤いランプが、規則的に点滅していた。
直樹は時々、手を止めて、湿度計を見た。
時刻は、もう午後十時を回っていた。
彼は、誰に対してでもなく、こう呟いた。
「ここまでやって、誰も褒めない仕事って、なんだろうな」
答えはなかった。
答えがないことには、慣れていた。
彼はもう一度、厚板を持ち上げた。
次の桟の上に、置いた。
その次の厚板を、また持ち上げた。
単純な作業だった。十一年、彼は、こういう単純な作業の中に、自分の意味を、探し続けてきた。
深夜になって、最後のロットの組み替えを終えた。腰が痛んだ。両手にささくれが入っていた。爪の隙間に、木屑がいくつも挟まっていた。直樹は事務所に戻ろうとして、桟積みエリアの中段で、ふと足を止めた。
桟積みエリアは、薄暗かった。蛍光灯の一本が、また切れかかっていた。湿気の匂いと、樹脂の匂いが、混ざっていた。前世の彼が、最も慣れ親しんだ匂いだった。
彼は、一瞬、その匂いの中に、自分の十年を感じた。
毎日、この匂いの中で、過ごしてきた。新人の頃、最初に出社した日も、同じ匂いだった。十年経って、変わらない匂い。
彼は深く息を吸った。
その時、彼は気づいた。
上の段の桟が、わずかにずれていた。
昼間の作業員が、急いで積み直した跡だった。直樹は手を伸ばして、ずれた桟を戻そうとした。
軋む音がした。
上の段の板が、滑った。
反応できなかった。重さ三十キロの厚板が、ひと束、雪崩のように崩れた。
時間がゆっくりと流れた。
崩れ落ちる板を、彼は見上げた。視界の中で、板の角がはっきりと見えた。木目の方向まで、見えた。これは樺の若材だ、と頭の片隅で考えた。心材の応力が、まだ抜けていない。
彼は、横へ飛びのこうとした。
足が、桟の隙間に、挟まった。
倒れた。
厚板の角が、こめかみを叩いた。
白い光が、視界の中で弾けた。痛みは、最初、感じなかった。次の瞬間、頭の奥が、燃えるように熱くなった。
彼の意識の中で、一瞬、奇妙な感覚が、走った。彼が落ちていく方向と、別の方向に、何かが彼を、引っ張る感覚。重力の方向と、別の方向への、引力。
その引力は、強かった。
彼は、それに、引っ張られた。
体は、コンクリートの床に、倒れていた。だが、意識は、別の場所へ、引っ張られていた。彼の頭は、両方の場所に、同時に、あった。
彼は仰向けに倒れていた。
倒れる時間は、おそらく、二、三秒だった。だが彼の意識の中では何分にも、感じた。十年分の出来事が、頭の中を、駆け巡った。新人の朝、後輩との会話、島原の冷たい笑い、誰にも読まれない日報の山、そして、母の顔。母は、十年前に、亡くなっていた。最後に会った日のことを、彼は思い出した。母は彼の手を握って、こう言っていた。「直樹、ちゃんと、ご飯を食べなさい」。それだけだった。それ以上、何も、言わなかった。
なぜ、今、母を思い出すのか、と彼は思った。
答えは彼自身にも、分からなかった。
最後に見たのは、桟の隙間に半身をはさまれた自分の体だった。湿度計の赤いランプが、視界の隅でゆっくり点滅していた。
雨の音がまだしていた。
俺の仕事は、なんだったのだろう。
その問いの答えを、今夜こそ知らないとと思った。
だが、答えは、ここで、出るはずもなかった。彼の意識は、急速に、薄れていた。最後の数秒、彼は、頭の中で、十年分の数字を、走らせた。湿度、温度、応力、刃物の摩耗、樹種ごとのあばれ発生率。すべての数字が、最後に、走馬灯のように、流れた。
その数字たちは彼を、見守っていた。十年間、彼が書き続けてきた数字たち。彼の十年の、唯一の理解者たち。
彼らは、最後まで、彼の側に、いた。
誰にも読まれなかった十年分の日報の上で、直樹の意識は途切れた。
雨はまだ降っていた。
工場の蛍光灯がまだ彼の上で、青白い光を、降らせていた。湿度計の赤いランプがまだ規則的に、点滅していた。誰も、それに、気づかなかった。誰も、彼の体に、気づかなかった。
雨の音だけが、続いていた。




