第一章 日報を書く男
今日も俺は、誰にも読まれない日報を書いている。
深夜十一時の工場事務所。蛍光灯が一本だけ切れかかっていて、机の右半分をうす青く照らしていた。郷田直樹はパソコンの画面と紙の作業実績票を交互に見ながら、数値を一行ずつ打ち込んでいた。指先がかすかに乾いている。冬が近い。明日の含水率はきっと上がる。
含水率というのは、木材に含まれる水分の割合のことだ。木は伐ったあとも生きている。湿度が上がれば水を吸って膨らみ、下がれば水を吐いて縮む。膨らんだり縮んだりを繰り返すうちに、反りが出る、ねじれが出る、ひどい場合は割れる。この一連の現象を、業界では「あばれ」と呼ぶ。
直樹の仕事はその「あばれ」を予測することだった。
窓の外で、雨の音が太くなった。アスファルトを叩く音が事務所のシャッターまで届いてくる。直樹は手を止めて、机の隅に貼ってある湿度計をのぞき込んだ。七十八パーセント。よくない数字だ。明日納品予定のオーク材の天板は、もう半分以上が許容範囲を超えるだろう。
オーク材というのは、樫の一種で、家具の天板にもっとも好まれる広葉樹だ。硬く、重く、木目が美しい。だが、その分、湿度の変化に敏感に反応する。三日続けて雨が降れば、表面の含水率は数パーセント跳ね上がる。跳ね上がった含水率は、室内の乾いた空気に晒された途端、急激に下がる。その差が、応力を生む。応力が、あばれを生む。
直樹は十一年、この三段論法を、頭の中で繰り返してきた。
マグカップを取って、ぬるくなった茶を一口飲んだ。残業用に持ち込んでいる安物の煎茶だった。湯気はもう、立っていなかった。喉を通る液体が、わずかに苦かった。
彼は引き出しを開けて、自作の予測表を取り出した。樹種別、月別、湿度帯別のあばれ発生率を、五年かけて整理したものだった。表紙には何も書いていなかった。誰のものとも知れない、ただの紙束。会社のサーバーには上がっていない。
彼以外の誰も、その存在を知らなかった。
メールの送信フォルダを開く。先週、課長の島原に送ったメールがそのまま残っている。
件名「天板ロットの遅延リスクについて(要相談)」。
返信は、ない。
直樹はマウスから手を離し、息を吐いた。十年だ。新卒で入って、もうすぐ十一年になる。最初の三年で覚えた現場感覚。四年目から五年目で身につけた数値の読み方。六年目に作りはじめた独自の予測表は、今では工程設計の基本資料になっている。だが、その資料の名義は、課長になっている。
「郷田。まだいたの」
声がして振り向くと、戸口に島原光紀が立っていた。スーツの袖にはまだ雨粒がついている。会食帰りらしい顔をしているのに、目だけは笑っていなかった。
「ちょっと天板の含水率が」と直樹は言った。
「明日の朝、納品だよ」
「ええ。だから、いま」
「だから何」
短い沈黙。蛍光灯がじりじりと音を立てた。
「先週、メールでお知らせしたんですが」
「届いてないよ。お前の日報なんか誰も読まないって、何度言わせるんだ」
直樹はうなずいた。反論しなかった。胸の奥で、なにかが小さく折れる音がした。けれども、その音はもうずいぶん前から馴染んだものだった。新しい痛みではない。十一年かけて、何度も折られて、何度ももう折れないと思っていた場所が、それでもまだ折れた。
彼はその折れ方を、なるべく音を立てないように、扱う術を覚えていた。表に出さない。声を上げない。次の朝までに、修復しておく。そういう自己管理の作法を、十一年で、彼は、独学した。
誰にも教わらない作法だった。教えてくれる人が彼の周りには、いなかった。
「明日、朝会で説明してくれよな。お前の責任で」
島原は背を向けて出ていった。革靴の音が遠ざかる。
直樹はパソコンに向き直り、最後の一行を打ち込んだ。明日のロット、十二台。あばれの予想発生数、九台。
誰も読まない数字を、彼は今日も、丁寧に並べた。
画面の中の数字をしばらく、見つめた。
数字には、感情が、ない。だが彼の数字には、感情が、染み込んでいた。十年間、毎晩、書き続けてきた数字には彼の徒労感、彼の諦め、彼の小さな矜持、彼の慎ましやかな希望、それらが、すべて、染み込んでいた。
誰にもそれは、読めなかった。
彼自身も、自分の数字に、何が染み込んでいるか、はっきりとは、分かっていなかった。
ただ、書き続けるだけだった。
明日の朝、納期に遅れた天板が彼の責任として、報告される。彼は、いつものように、頭を下げる。誰も、彼を、擁護しない。それは、決まっていた。
でもそれでも、彼は、数字を、書き続ける。
なぜ、と問われれば、彼にも、明確な答えは、ない。
ただ、書き続けるだけだった。
帰り際、工場の桟積みエリアを通り抜けた。桟積みというのは、材木の間に細い棒を挟んで重ねる、伝統的な保管方法のことだ。隙間を作って空気を通すことで、木がゆっくり乾燥していく。隙間が均一でないと、上の段の木だけが先に乾いて、ねじれてしまう。
直樹は端の桟に手を入れて、湿度を確かめた。今夜の雨で、また数字が変わる。明日の朝、ここを誰が見るのだろうと思った。たぶん、誰も。
俺の仕事は、本当に意味があるのか。
その問いを、直樹はもう、何百回も自分に投げかけていた。答えは、いつも同じだった。
ない。
だが、その「ない」という答えに、彼は不思議と、慣れていた。あるいはその「ない」を、毎日噛みしめる作業の中に、彼は、別の何かを、見つけていたのかもしれない。意味がない、と分かっていても、続ける、という行為。それは、不思議な力を、持っていた。続けることそのものが、意味になる、という奇妙な転倒。
その転倒を、彼はまだ言葉にできていなかった。
そう思ったとき、後輩の若手が事務所に顔を出した。来月で辞める予定の二十六歳。彼は直樹に小さく頭を下げ、机の上に書類を置いた。
「郷田さん。これ、最後の引き継ぎです」
「ああ。お疲れさま」
「あの」と若手は言った。「郷田さんの日報、僕、ずっと読んでました」
直樹は顔を上げた。
「数字の入れ方も、コメントの書き方も、教科書みたいで。あれを読んで、現場の見方を覚えたんです」
「……そうか」
「島原課長は、ああ言いますけど。読んでる奴は、ちゃんと読んでます」
若手は頭を下げて、出ていった。
直樹は、しばらく動けなかった。
その若手の声が、頭の中で、しばらく響いていた。読んでいる奴は、ちゃんと読んでいる。本当だろうか、と彼は思った。本当だとしたら、なぜ、ここまで、誰も、それを伝えてくれなかったのだろう。
いや、伝えてくれていたのかもしれない。彼が、聞こえないふりをしていただけかもしれない。誰かに読まれているという可能性を、彼自身が、最初から、否定していたのかもしれない。
彼は、机の引き出しを開けて、十年分の日報を、何枚か、無作為に取り出した。三年前の三月のある日の記録。五年前の九月のある日の記録。八年前の冬のある日の記録。それぞれの紙に、彼の十年が、染み込んでいた。
彼はそれを、引き出しに戻した。
もう一度、若手の言葉を、頭の中で、再生した。
読んでいる奴は、ちゃんと読んでいる。
そうかもしれない、と彼は呟いた。
窓の外で、雨の音はさらに太くなっていた。明日の含水率はたぶん跳ね上がる。
直樹は若手が置いていった書類を、引き出しに、しまった。彼は、いつものように、机の上を、整えた。マウスを、定位置に。湯飲みを、シンクへ。書類を、引き出しに。十年以上、続けてきた、夜の儀式だった。
その儀式が、終わったあと、彼はもう一度、湿度計を、確認した。七十九パーセント。先ほどより、一パーセント、上がっていた。明日の朝までに、八十を、超えるかもしれない。
彼は、ため息を、ついた。
明日また、納期の問題が、来る。
彼はそれを、知っていた。




