第一話 名もなき少年
初めて彼女に会った日のことを、昨日のことのように覚えている。
目の前には狼の群れ。
無我夢中で木の棒を振り上げた。
息が切れて、今にも倒れそうだった。
もう腕も足も上がらない。
それでも、大木の根元に追い詰められたまま、
牙を剥く獣たちを前に構えるしかなかった。
汗なのか血なのか、入り混じった臭いがする。
先ほど噛まれた腕が痛い。
意識が飛びそうだ。
それでも、手を止めたら終わりだとわかっていた。
群れのボスのような狼が低く唸る。
次の瞬間、咆哮とともに数匹が一斉に飛びかかってきた。
もう終わりか、とぼんやり思った。
絶望というよりは、諦めだった。
これまでのことが頭をよぎる。
空腹だったこと。
殴られたこと。
働かされたこと。
楽しかった記憶は、ほとんど思い出せない。
もし生まれ変わることができたなら、
今度は少しは笑って過ごせるだろうか。
そう思って目を閉じようとした、その時だった。
視界に、光が差し込む。
よく見ると、それは人影だった。
白に近い金髪をなびかせた少女が、
目にも止まらぬ速さで狼を斬り払っていく。
血飛沫が舞う。
その光景は残酷なはずなのに、
なぜか美しく見えた。
気がつくと、そこに立っていたのは少女だけだった。
彼女は振り返り、こちらへ駆け寄ってくる。
澄んだ蒼い瞳。
その奥に、星のような輝きがあった。
「大丈夫?」
その声を聞いた瞬間、
これが現実なのかもわからなくなった。
天国にはきっと、
こんな綺麗な人がいるのだろう。
迎えが来たのだと思った。
そう考えた途端、
意識がすっと遠のいた。
――暖かい。
体がふわふわしている。
こんな感覚は初めてだった。
これが天国なのだろうか。
ぼんやりと、そう思う。
母が生きていた頃は、まだましだった。
けれど、亡くなってから生活は一変した。
食べるものにも困る日々。
父はよく言っていた。
役立たず、と。
自分には魔力がない。
それだけで、価値がないとされる。
それが、この国だった。
気がつけば、森に置き去りにされていた。
恨んでいないといえば嘘になる。
それでも、もう邪魔者扱いされることはない。
そう思った、はずだった。
不意に、体が引き戻される感覚があった。
まだ、このままでいたいのに。
徐々に意識が浮かび上がっていく。
目を開けると、見慣れない天井があった。
「あ、目が覚めたわね。痛いところはない?」
視界に入ってきたのは、先ほどの少女だった。
思っていたより距離が近くて、息を呑む。
首を横に振るのが精一杯だった。
不思議と、あれほど痛かった腕の痛みはない。
「そう、なら良かった」
手が暖かい。
彼女が、握ってくれているからだと気がつく。
辺りを見渡すと、
見たこともないような立派な部屋だった。
白い壁。
整えられた床。
柔らかなベッド。
すべてが場違いに思えるほど綺麗だ。
「君、一人でどうしてあんなところに? 家族は?」
「……」
「言いたくないなら、無理に言わなくていいわ」
少女は水差しから水を注ぎ、コップを差し出した。
「喉、渇いてるでしょう?」
受け取った水を見つめていると、視界が滲んだ。
ぽた、と雫が落ちる。
「……天国に行けたと思ったのに」
「天国じゃ、なかった……」
戻る場所はもうない。
なら、生きていても仕方がない。
「ええ……そうね」
少女は少し困ったように笑った。
「でも、生きていたら、いいこともあるわよ」
そんなはずはない、と言おうとして、
言葉にならなかった。
代わりに、嗚咽がこぼれる。
少女は何も言わず、
ただ静かに背中を撫でていた。
その手は、驚くほど優しかった。
お読み頂き、ありがとうございます。
ここから少し過去編となります。
ずっと書きたかったアウレリアとリオの出会いです。
お付き合いくださいたせ。




