↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/3

第3話

第3話 警察官だと?



「座れ」


男の低い声が、倉庫の中に響いた。


神城蓮司は、目の前に置かれたパイプ椅子を見つめた。


古びた椅子だった。


座面には汚れがこびりつき、片方の脚には修理したような痕がある。


「ありがとうございます」


蓮司は軽く会釈すると、椅子に腰を下ろした。


「……お前な」


佐伯が呆れたように呟く。


「自分がどこに連れてこられたのか、本当に分かってんのか?」


「倉庫ですね」


「そういう意味じゃねえ!」


佐伯は苛立たしげに舌打ちした。


周囲には十数人の男たち。


いずれも黒狼会の構成員だった。


扉の前には二人。


窓の近くには三人。


そして、蓮司の正面には高級そうな革張りの椅子が置かれている。


その椅子に腰掛けていたのが、黒崎剛だった。


「よう、神城」


黒崎は煙草をくわえたまま笑った。


「昨日は随分と威勢がよかったじゃねえか」


「おはようございます、黒崎さん」


「……お前、少しは状況を考えろよ」


「考えていますよ」


「だったら何でそんなに落ち着いてんだ?」


蓮司は少し考えた。


「慌てても仕方ありませんから」


黒崎は鼻で笑った。


「そうかい」


そして、机の上に置かれた封筒を指差した。


「じゃあ、さっそく本題に入ろうか」


「はい」


「百万円。利息と合わせて百五十万円だ」


「そのお話でしたら、昨日もしましたね」


「ああ。だが、お前は払わねえと言った」


「ええ」


「だから、こうして来てもらったわけだ」


黒崎は煙草の煙を吐き出した。


「で、どうする?」


「何がでしょう?」


「金だよ、金!」


蓮司は静かに答えた。


「違法な利息を支払うつもりはありません」


黒崎の笑みが消えた。


「……まだそんなこと言ってんのか」


「昨日と考えは変わっていませんから」


「お前さあ」


黒崎はゆっくりと身を乗り出した。


「ここが裁判所か何かだと思ってんのか?」


「いいえ」


「だったら法律の話なんかするんじゃねえよ」


「ですが、金銭の貸し借りについて話す以上、法律を無視するわけにはいかないでしょう」


「……」


「それとも黒崎さんは、ご自分たちの商売が違法だということを認めていらっしゃるんですか?」


佐伯が一歩前に出た。


「てめえ!」


しかし、黒崎が片手を上げて制した。


「待て」


「兄貴!」


「いいから黙ってろ」


黒崎は蓮司を見つめた。


先ほどまでの粗暴な態度とは違っていた。


「……神城さんよ」


「はい」


「随分と法律に詳しいみてえだな」


「人並みですよ」


「人並み、ねえ……」


黒崎は笑った。


「じゃあ、こっちも法律の話をしてやろうか」


蓮司は黙っていた。


「お前、百万円を借りたよな?」


「ええ」


「契約書にも署名した」


「しましたね」


「金も受け取った」


「そのとおりです」


黒崎は机を指で叩いた。


「だったら、借りた事実は消えねえわけだ」


「ええ。受け取った事実は否定しません」


「いいか? 俺たちが違法な金利を取ってるからって、お前が最初から金を返すつもりもなく借りていいことにはならねえんだよ」


蓮司は、ほんの少しだけ目を細めた。


黒崎は続ける。


「最初から踏み倒すつもりだったってんなら、お前の方にも問題があるんじゃねえのか?」


「……なるほど」


「どうだ?」


黒崎は笑った。


「法律を知ってるのは、お前だけじゃねえんだよ」


倉庫の中が静かになった。


佐伯たちは得意げに笑っていた。


しかし、蓮司は感心したように頷いた。


「確かに、おっしゃるとおりですね」


「……あ?」


黒崎は拍子抜けした。


「契約の違法性と、借りる側の行為の問題は別です。その点は区別する必要があります」


「……」


「きちんと理解されているようで、安心しました」


黒崎の眉が動いた。


「てめえ、馬鹿にしてんのか?」


「とんでもありません」


蓮司は穏やかに答えた。


「少し意外だっただけですよ」


黒崎の目が細くなる。


目の前の男は、ただの法律かぶれではない。


こちらの言葉を理解したうえで、あえて平然としている。


そのことが、黒崎には気に入らなかった。


「……佐伯」


「はい」


「こいつ、昨日からずっとこんな調子なのか?」


「そうなんですよ! 何を言ってもヘラヘラしやがって!」


佐伯は蓮司の肩を掴んだ。


「おい、神城!」


「はい?」


「いい加減にしろよ!」


「何をでしょう?」


「ここまで来て、まだ自分が優位だと思ってんのか!?」


蓮司は首を傾げた。


「優位も何も、私は話し合いに来ただけですよ」


「話し合いだと!?」


「ええ」


佐伯は笑った。


「じゃあ教えてやるよ。ここじゃ俺たちの言うことが法律なんだよ!」


その瞬間だった。


「……佐伯さん」


蓮司の声が、わずかに低くなった。


「何だよ!」


「それは違います」


佐伯の表情が歪む。


「何?」


「法律を決めるのは、あなた方ではありません」


「てめえ……!」


佐伯が拳を振り上げた。


しかし。


「やめろ、佐伯!」


黒崎の怒鳴り声が響いた。


佐伯の拳が止まる。


「兄貴! こんな野郎、少し痛い目を見せれば――」


「黙れと言ってんだ!」


黒崎は蓮司を見ていた。


そして、ゆっくりと口を開いた。


「……神城さんよ」


「はい」


「お前、何者だ?」


初めてだった。


黒崎が、蓮司にそんな質問をしたのは。


蓮司は少し考えた。


「神城蓮司です」


「名前は知ってんだよ!」


「そうでしたね」


「職業を聞いてんだ」


「……職業ですか」


「ああ」


黒崎は煙草を灰皿に押し付けた。


「うちの連中が調べても、お前の勤務先がはっきりしねえ。借入申込書には会社員と書いてあるが、どうにも妙だ」


蓮司は黙っていた。


「何の仕事してんだ?」


「それを聞いて、どうするんです?」


「質問してんのは俺だ!」


蓮司は小さく息を吐いた。


そして、静かに口を開いた。


「……警察官です」


一瞬。


倉庫の中が静まり返った。


佐伯が目を丸くする。


「……は?」


黒崎も動かなかった。


「今、何つった?」


「警察官です」


数秒間の沈黙。


そして――。


「ぶははははは!」


佐伯が笑い出した。


「兄貴! 聞きましたか!? こいつ、とうとう警察官だとか言い始めましたよ!」


周囲の男たちも笑った。


「嘘つけよ!」


「警察官が闇金から金借りるわけねえだろ!」


「もう少しマシな嘘をつけ!」


黒崎だけは、笑わなかった。


蓮司の顔をじっと見つめている。


「……証拠は?」


「ありますよ」


蓮司は静かに答えた。


「見せろ」


「構いませんが、その前に一つ確認させてください」


「何だ」


「私が警察官であっても、なくても、あなた方が私をここから帰さないのであれば、それは別の問題になります」


「……」


「その点は、ご理解いただけますか?」


黒崎は黙っていた。


蓮司は続ける。


「私は自分の意思で車に乗りました。しかし、今この場で帰りたいと言っています」


「……だから?」


「それでも帰さないというのであれば、警察への通報を考えます」


佐伯が鼻で笑った。


「警察官なら、自分で何とかしろよ!」


「そういう問題ではありません」


蓮司は静かに答えた。


「私は今、勤務中ではありません。個人的な金銭トラブルの当事者です」


「……」


「警察官だからといって、私的な都合で警察権限を使うことはできません。ですが、犯罪の被害を受けそうになっているのであれば、一般の方と同じように通報できます」


黒崎は目を細めた。


「……随分と律儀な警察官だな」


「そうでしょうか」


「警察官なら、俺たちを逮捕するって言えばいいじゃねえか」


「今ここで、あなた方全員を逮捕する理由はありませんから」


「……」


「それに、私が警察官だというだけで、相手を自由に逮捕できるわけではありません」


黒崎は黙り込んだ。


佐伯は苛立たしげに口を挟んだ。


「兄貴! こんなもん、ただのハッタリですよ!」


「……神城」


黒崎が言った。


「警察手帳、持ってんのか?」


「ええ」


蓮司は鞄に手を伸ばした。


周囲の男たちが身構える。


「ゆっくり出せ!」


佐伯が怒鳴る。


「分かっていますよ」


蓮司はゆっくりと警察手帳を取り出した。


そして、黒崎に見えるように提示した。


黒崎は身を乗り出した。


写真。


氏名。


所属を示す表示。


黒崎の目が、ゆっくりと細くなった。


「……おい」


佐伯が近づく。


「兄貴、どうしました?」


黒崎は答えなかった。


佐伯も手帳を覗き込む。


そして、表情を変えた。


「……え?」


倉庫の空気が変わった。


先ほどまで笑っていた男たちが、互いに顔を見合わせる。


「……本物なんですか?」


誰かが呟いた。


黒崎は手帳と蓮司の顔を交互に見た。


「……偽物って可能性もあるな」


「もちろん、そう考えるのは自由です」


蓮司は手帳をしまった。


「ただ、確認したければ正規の方法で確認してください」


黒崎はしばらく黙っていた。


その後、低い声で尋ねた。


「……お前、本当に警察官なのか?」


「ええ」


「だったら、何でうちから百万円も借りた?」


蓮司は笑わなかった。


「理由は、すでにお話ししたとおりです」


「親友の件か?」


「そうです」


黒崎はゆっくりと立ち上がった。


「……なるほどな」


彼の表情には、先ほどまでの怒りだけではないものが浮かんでいた。


疑念。


警戒。


そして、ある種の苛立ちだった。


「お前、俺たちを試しに来たのか?」


蓮司は答えなかった。


「そうなんだろ?」


黒崎は机を叩いた。


「警察官が、わざわざ闇金から金を借りる。しかも、返済する気がねえと来た」


「……」


「そんなもん、普通じゃねえだろうが!」


蓮司は静かに言った。


「私の行動が普通ではなかったことは認めます」


「だったら!」


「ですが、だからといって、あなた方の脅迫や違法な取り立てが正当化されるわけではありません」


黒崎は言葉を詰まらせた。


蓮司は続ける。


「黒崎さん。私は今日、ここで争うつもりはありません」


「……」


「金銭の問題は、正式な手続きを通じて解決しましょう」


「……正式な手続き?」


「ええ。必要であれば、弁護士を通して対応します」


黒崎は、しばらく黙っていた。


やがて口元に笑みを浮かべた。


「……いいぜ」


「ありがとうございます」


「ただし、一つ教えてやる」


黒崎は蓮司を指差した。


「お前が警察官だってんなら、この件はお前にとっても面倒なことになるんじゃねえのか?」


蓮司は黙っていた。


「警察官が闇金から金を借りた。しかも、最初から返すつもりがなかったかもしれねえ」


「……」


「そんな話が上司に知られたら、どうなるんだろうな?」


佐伯が顔を上げた。


「……兄貴!」


黒崎は笑った。


「そうだよ。こいつが警察官だってんなら、警察官なりの弱みがあるってことだ」


蓮司は黒崎を見つめた。


「……確かに」


黒崎の笑みが深まる。


「お?」


「私の行動について、説明を求められる可能性はあるでしょうね」


「ははは! ようやく分かったか!」


「ええ」


蓮司は頷いた。


「必要な説明はするつもりです」


その返答に、黒崎の笑みが消えた。


「……何?」


「逃げるつもりはありませんから」


「……」


「むしろ、私自身の行動について問題があるなら、きちんと判断してもらうべきでしょう」


黒崎は言葉を失った。


この男は、何を考えているのか。


自分の立場が危うくなるかもしれないと理解している。


それなのに、少しも慌てない。


「……お前、本当に変な野郎だな」


黒崎は小さく呟いた。


「よく言われます」


「褒めてねえよ」


「失礼しました」


黒崎は深く息を吐いた。


そして、佐伯に向かって言った。


「……出口を開けろ」


「兄貴!?」


「いいから開けろ!」


佐伯は目を見開いた。


「でも、こいつ百万円を――」


「分かってる!」


黒崎は怒鳴った。


「ここで警察官かもしれねえ男を監禁して、何の得があるんだよ!」


「……!」


「馬鹿なことして、警察に踏み込まれたらどうすんだ!」


佐伯は歯を食いしばった。


だが、黒崎の判断は変わらなかった。


「……分かりました」


佐伯が部下に合図する。


倉庫の大きな扉が開いた。


外から、朝の光が差し込んできた。


蓮司は立ち上がった。


「ありがとうございます」


黒崎は黙っていた。


蓮司は軽く頭を下げた。


「では、失礼します」


「……神城」


出口に向かって歩き始めた蓮司を、黒崎が呼び止めた。


蓮司が振り返る。


「はい?」


「一つだけ、覚えとけよ」


「何でしょう」


黒崎は、低い声で言った。


「俺たちは、これまで何人も警察官を相手にしてきた」


「……」


「お前が警察官だからって、俺たちが震え上がると思うなよ」


蓮司は静かに頷いた。


「承知しています」


「……」


「だからこそ、これ以上は法律に従って解決したいと思っています」


黒崎は鼻で笑った。


「……随分と立派なことを言うじゃねえか」


「そうでしょうか」


「まあいい」


黒崎は椅子に腰掛けた。


「今日は帰してやる」


「ありがとうございます」


「だが、百万円の件は終わっちゃいねえぞ」


蓮司は少し考えた。


「……そうですね」


「あ?」


「まだ、終わっていませんね」


その言葉の意味を、黒崎は理解できなかった。


蓮司はもう一度頭を下げた。


そして、倉庫を後にした。



     ◇



蓮司が去ってから、数分後。


倉庫の中には重苦しい沈黙が漂っていた。


「……兄貴」


佐伯が口を開いた。


「何だ」


「あいつ、本当に警察官なんですかね?」


「知らねえ」


「だったら、どうして帰したんです?」


黒崎は煙草に火をつけた。


「馬鹿か、お前は」


「……え?」


「本物なら面倒だ。偽物だったとしても、あそこまで堂々と警察官を名乗る奴には、何か考えがあるかもしれねえ」


佐伯は黙り込んだ。


「それに……」


黒崎は目を細めた。


「あいつ、俺たちを怖がってなかったな」


「……そうですね」


「強がりにしちゃ、度が過ぎる」


佐伯は舌打ちした。


「俺は気に入りませんよ。あんな野郎!」


「俺だってそうだ」


黒崎の声が低くなった。


「だがな、佐伯」


「はい」


「相手が警察官だからって、すぐに殺そうとするような馬鹿は、組織を大きくできねえんだよ」


「……」


「感情だけで動いたら、警察に潰される」


佐伯は俯いた。


「……すみません」


黒崎は煙草を吸った。


「まずは、あいつの素性を確かめろ」


「はい」


「本当に警察官なのか。どこの所属なのか。何で闇金から金を借りたのか」


「分かりました」


「それから、借入申込書も契約書も全部整理しておけ」


佐伯が顔を上げた。


「……兄貴?」


黒崎は冷たく笑った。


「あいつが警察官なら、俺たちにとって使い道のある情報かもしれねえだろ」


「……なるほど」


「今すぐ手を出す必要はねえ」


黒崎は机の上に置かれた灰皿を見つめた。


「警察官にだって、家族はいる。仕事もある。守りたいものもある」


佐伯は、にやりと笑った。


「だったら……」


しかし、黒崎は鋭く睨みつけた。


「勝手に動くなよ」


「……!」


「今、あいつの家族に手を出したらどうなるか、少しは考えろ」


「……すみません」


黒崎は再び煙草を吸った。


「焦るな。まだ時間はある」


その目には、静かな憎悪が宿っていた。


これまで、黒崎に逆らった人間は何人もいた。


しかし、ほとんどは最後に頭を下げた。


泣いて謝り、許しを乞うた。


ところが、神城蓮司は違った。


自分たちの本拠地に連れてこられながら、一度も謝らなかった。


一度も怯えなかった。


そして最後には、警察官であることを明かし、堂々と帰っていった。


黒崎にとって、それは耐えがたい屈辱だった。


「……神城蓮司」


黒崎は小さく名前を呟いた。


「警察官だか何だか知らねえが……」


煙草を灰皿に押し付ける。


「俺に恥をかかせたことだけは、忘れねえぞ」


佐伯は黙っていた。


黒崎がここまで静かに怒っている姿を、初めて見たからだ。


やがて黒崎は、ゆっくりと笑った。


「……あいつ、必ず後悔させてやる」


その声には、先ほどまでの怒号よりも、はるかに深い憎悪が込められていた。



     ◇



同日午前十時十五分。


蓮司は、最寄り駅近くの喫茶店にいた。


注文したのはホットコーヒー。


窓際の席で、静かにスマートフォンを眺めている。


画面には、親友の直哉から届いたメッセージが表示されていた。


『蓮司、本当にありがとう。おかげで家族も落ち着いたよ。今度、飯でも奢らせてくれ』


蓮司は小さく微笑んだ。


「……よかった」


短い返事を送る。


『気にするなよ。また何かあったら連絡してくれ』


それだけだった。


蓮司にとって、三百二十万円を肩代わりしたことに後悔はなかった。


百万円の借金を抱えたことにも、特別な焦りはなかった。


ただ一つだけ、気になることがあった。


黒崎剛。


あの男は、簡単に諦めるような人物ではない。


むしろ、自分の正体の一端を知ったことで、余計に執着してくる可能性が高い。


蓮司はコーヒーを一口飲んだ。


「……少し面倒なことになったかな」


口調は穏やかだった。


そこへ、スマートフォンが震えた。


美玲からのメッセージだった。


『あなた、陽菜が公園に行くのを楽しみにしてるわよ』


蓮司は微笑んだ。


『分かってる。もうすぐ帰るよ』


そう返信して、スマートフォンをポケットにしまった。


そして、窓の外を眺めた。


行き交う人々。


駅へ向かう会社員。


買い物帰りの主婦。


自転車に乗った学生。


いつもと変わらない、平凡な街の風景だった。


「……さて」


蓮司は立ち上がった。


「帰ろうか」


会計を済ませ、店を出る。


その背中を、誰かが遠くから見ていた。


だが蓮司は、振り返らなかった。


まるで、何も気づいていないかのように。


ただ、穏やかな表情のまま歩いていった。


この日、黒狼会は一つの事実を知った。


神城蓮司という男は、警察官である。


だが、それ以上のことは、まだ何も知らない。


彼がどのような警察官なのか。


なぜ、あれほど落ち着いていられるのか。


そして、その背後に何が存在しているのか。


黒狼会は、まだ何も知らなかった。


一方、神城蓮司もまた、黒崎が抱いた憎悪の深さを、完全には理解していなかった。


いや。


仮に理解していたとしても、彼の答えは変わらなかっただろう。


親友を助けたことに、後悔はない。


家族を守ることに、迷いはない。


たとえ、そのために凶悪な犯罪組織を敵に回したとしても。


神城蓮司は、そういう男だった。


◇


同日午後十一時四十分。


神城家。


妻と娘が寝静まったあと、蓮司は一人、書斎にいた。


十畳ほどの部屋には、大きな本棚と机が置かれている。


机の上には、ごく一般的なノートパソコンが一台。


蓮司は椅子に腰掛け、画面を静かに眺めていた。


そこには、膨大な数の名前が並んでいた。


黒崎剛。


佐伯隆史。


そして、黒狼会の最高幹部から末端構成員に至るまで、実に三千二百十八名。


氏名。


生年月日。


住所。


家族構成。


金融資産。


勤務先。


交友関係。


過去の犯罪歴。


さらには、表向き存在すら知られていない関連企業や、組織の資金の流れまで。


その情報は、警察の捜査資料などとは比較にならないほど詳細だった。


蓮司はマウスを動かし、黒崎剛の名前を選択した。


画面が切り替わる。


黒崎の顔写真とともに、これまでの経歴が表示された。


「……なるほど」


蓮司は小さく呟いた。


過去に関与したとされる暴力事件。


違法な資金の移動。


秘密裏に所有している不動産。


そして、これまで表沙汰にならなかった数々の疑惑。


その一つひとつに、関連する資料が添えられていた。


「随分と色々やっているんだね」


蓮司は困ったように微笑んだ。


続いて、佐伯の名前を選択する。


そこにも、膨大な情報が並んでいた。


黒崎の知らない佐伯の秘密。


佐伯の知らない黒崎の秘密。


幹部同士ですら把握していない、組織内部の事情。


そのすべてが、画面の中に収められていた。


蓮司はしばらく資料を読み進めた。


そして、画面の端に表示された数字へ目を向ける。


『登録対象者数:3,218名』


『身元情報:照合完了』


『関連組織:照合完了』


『資金関係:照合完了』


『未解明事項:0件』


「……全員分、あるんだね」


誰に聞かせるでもなく、呟いた。


部屋には時計の針が進む音だけが響いている。


やがて蓮司は、椅子の背もたれに身体を預けた。


「黒崎さんたちは、今ごろ俺のことを調べているのかな」


その口調には、怒りも焦りもなかった。


むしろ、どこか楽しそうですらあった。


「まあ、頑張って調べてください」


蓮司は小さく笑った。


「俺も、皆さんのことを少しだけ知ることができましたから」


画面には、黒狼会の全構成員の情報が整然と並んでいた。


彼らの誰一人として、このことを知らない。


自分たちが必死になって素性を探っている男が、すでに自分たちの名前も、住所も、財産も、過去も、すべて把握していることなど。


そして何より――。


この情報が、いったいどこから集められたものなのか。


それを知る者は、黒狼会には一人もいなかった。


蓮司はノートパソコンを閉じた。


「さて……」


立ち上がり、書斎の明かりを消す。


「明日も早いし、そろそろ寝ようかな」


彼は何事もなかったように寝室へ向かった。


廊下の先では、愛する妻と娘が眠っている。


それこそが、彼にとって何よりも大切なものだった。


一方、そのころ。


黒狼会の幹部たちは、神城蓮司という男の身元を調べるため、必死になって動き始めていた。


自分たちが、一歩ずつ彼の秘密に近づいていると信じて。


だが、彼らは知らない。


神城蓮司にとって、黒狼会には、もはや調べるべき秘密など一つも残されていないことを。


――第3話 完


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。