第1話
第一章 闇金融編
第1話 百万円を返さない男
「……お前、俺たちを舐めてんのか?」
男の低い声が、薄暗い事務所に響いた。
東京都内の雑居ビル、その五階。
窓には厚手のブラインドが下ろされ、昼間だというのに室内は薄暗い。
部屋には煙草の臭いが染みついていた。
壁際には大きな金庫が置かれ、その隣には何台もの携帯電話が並んでいる。
一見すれば、少々柄の悪い金融会社の事務所。
しかし、ここを訪れる人間の多くは、二度と足を踏み入れたくないと願うことになる。
「聞いてんのか、こら!」
怒号とともに、灰皿がテーブルに叩きつけられた。
怒鳴っている男の名は黒崎剛。
四十二歳。
黒く染めた短髪に、太い首。仕立てのよさそうなスーツを着ているものの、その風貌は堅気の経営者とは程遠い。
彼は表向き、貸金業を営む会社の代表だった。
だが、その実態は違う。
黒狼会。
全国に三千人以上の構成員を抱える、巨大犯罪組織。
違法な貸付によって莫大な利益を上げ、返済が滞った債務者には容赦のない取り立てを行うことで知られていた。
暴行、恐喝、監禁。
時には債務者の家族にまで危害が及ぶ。
組織に逆らった人間が、ある日突然姿を消したという噂もあった。
それが黒狼会だった。
そして黒崎は、その金融部門を取り仕切る幹部の一人である。
「百万円だぞ! 百万円! 借りた金を返せって言ってんだよ!」
黒崎が再び怒鳴る。
ところが、彼の正面に座る男は、困ったような笑みを浮かべるだけだった。
神城蓮司。
三十三歳。
身長は百七十センチ台半ばほど。
短く整えられた黒髪に、特に目立った特徴のない顔立ち。
服装もごく普通だった。
紺色のシャツに黒いズボン。
腕時計も、特別高価なものには見えない。
街ですれ違っても、まず記憶には残らないだろう。
そんな平凡な男が、黒崎の前で静かに座っていた。
「聞いていますよ」
蓮司は穏やかに答えた。
「ただ、七日で五十万円の利息というのは、いくら何でも高すぎませんか?」
「ああ?」
「百万円を借りて、一週間後に百五十万円を返せという話でしょう?」
「それがどうした!」
「随分と乱暴な条件ですね」
黒崎のこめかみに血管が浮かんだ。
「てめえ、最初に説明しただろうが!」
「ええ。そうですね」
「だったら文句言うんじゃねえよ!」
「ただ、説明されたからといって、何でも認められるわけではありませんから」
「……何だと?」
蓮司は少し首を傾げた。
「法律というものがありますからね」
その瞬間、室内の空気が変わった。
黒崎の表情から笑みが消える。
「おい」
「はい?」
「お前、俺に法律の話をする気か?」
「いけませんか?」
黒崎は数秒間、蓮司の顔を見つめた。
そして、突然笑い始めた。
「くっ……はははは!」
周囲にいた男たちも、それにつられて笑う。
「兄貴、こいつ馬鹿なんじゃないですか?」
「闇金相手に法律だってよ!」
「頭がお花畑なんじゃねえの?」
黒崎は目尻の涙を拭いながら、ゆっくりと身を乗り出した。
「いいか、神城」
「はい」
「俺たちの商売に、法律なんてもんは関係ねえんだよ」
「そうなんですか」
「ああ、そうだ」
黒崎は得意げに続けた。
「金を返さねえ奴は徹底的に追い込む。職場にも電話するし、家族にも取り立てる。逃げたらどこまでも追いかける」
「なるほど」
「警察に泣きついたって構わねえぞ。そんなもん、俺たちは何度も経験してる」
蓮司は何も言わなかった。
「どうだ? 少しは怖くなったか?」
「いえ」
即答だった。
黒崎の笑顔が凍りつく。
「……あ?」
「今のお話を聞いて、随分と物騒な組織だとは思いましたけど」
「だったら――」
「怖がる理由にはなりませんね」
一瞬、静寂が訪れた。
黒崎は蓮司を見つめた。
何か聞き間違えたのではないかと思った。
これまで彼の前に座った債務者は、誰もが恐怖に怯えた。
泣き出す者もいた。
土下座する者もいた。
家族だけは見逃してほしいと懇願する者もいた。
それなのに、この男はどうだ。
額に汗一つ浮かべていない。
膝が震える様子もない。
声も、まったく変わらない。
「……お前、本当に自分の立場が分かってねえみたいだな」
黒崎は椅子にもたれかかった。
「おい、佐伯」
「はい、兄貴」
壁際に立っていた大柄な男が返事をした。
佐伯は黒狼会でも腕っぷしの強さで知られる男だった。
身長は百九十センチ近く。
厚い胸板に、太い腕。
その右拳には古い傷痕がいくつも残っている。
「ちょっと教育してやれ」
「分かりました」
佐伯は不気味な笑みを浮かべた。
そして蓮司の背後に回ると、その肩を乱暴に掴んだ。
「兄ちゃん」
「はい?」
「口の利き方には気をつけた方がいいぜ」
「そうですね。お互いに」
「……何?」
「いえ、何でもありません」
佐伯の顔が引きつった。
「てめえ!」
次の瞬間、佐伯は蓮司の胸倉を掴み、椅子から引きずり上げようとした。
しかし。
「……ん?」
佐伯の動きが止まった。
蓮司が動かなかったのである。
正確には、完全に動かなかったわけではない。
ほんの少し、身体の位置を変えただけだった。
それなのに、佐伯は上手く力を伝えられなかった。
「何してんだ、佐伯!」
黒崎が苛立たしげに怒鳴る。
「す、すみません!」
佐伯は改めて蓮司を掴もうとした。
その手が伸びた瞬間、蓮司は静かに立ち上がった。
佐伯の手が空を切る。
「そろそろ失礼してもよろしいでしょうか?」
「あ?」
黒崎は呆気に取られた。
「家で待っている者がいますので」
「……お前、今の状況で帰れると思ってんのか?」
「帰れない理由があるんですか?」
黒崎の顔が真っ赤になった。
「ふざけるな!」
怒声とともに、周囲の男たちが一斉に立ち上がった。
四人。
その全員が、蓮司の退路を塞ぐように移動する。
普通の人間なら、この時点で絶望するだろう。
目の前には凶悪な犯罪組織の幹部。
周囲には屈強な男たち。
逃げ道もない。
しかし、蓮司はただ困ったように微笑むだけだった。
「困りましたね」
「ようやく分かったか!」
「いえ、そうではなくて」
蓮司は腕時計を確認した。
午後四時三十五分。
「娘との約束に遅れてしまいます」
「……娘?」
黒崎の目が細くなった。
「お前、娘がいるのか?」
「ええ」
「何歳だ?」
「四歳です」
「ほう……」
黒崎の口元が歪んだ。
それまでとは違う、嫌な笑みだった。
「そうかそうか。四歳の娘がいるのか」
「それが何か?」
「いや、別に?」
黒崎はゆっくりと煙草に火をつけた。
「奥さんもいるんだよな?」
「ええ」
「幸せな家庭ってやつか」
「おかげさまで」
「そいつは結構なことだ」
黒崎は煙を吐き出した。
「だったら、家族にも協力してもらわねえとな」
その言葉を聞いた瞬間だった。
蓮司の表情から、微笑みが消えた。
「……今、何と?」
「お前が払えねえなら、女房に払ってもらうしかねえだろ」
「妻は関係ありません」
「関係ねえかどうかは、こっちが決めるんだよ」
黒崎は笑った。
「娘の保育園にだって行けるんだぜ?」
蓮司は黙っていた。
「どうした? さっきまで威勢がよかったじゃねえか」
「……黒崎さん」
「あ?」
「妻と娘は、この件には一切関係ありません」
「ああ?」
「ですから、家族には関わらないでいただきたい」
黒崎は大声で笑った。
「はははは! 何だよ、急に真面目な顔になりやがって!」
周囲の男たちも笑い始めた。
「兄貴、ようやく怖くなったんじゃないですか?」
「やっぱり家族の話をすりゃ一発ですね!」
黒崎は得意げに頷いた。
「そういうことだ。最初から素直にしてりゃいいんだよ」
だが、蓮司は怯えていたわけではなかった。
ただ、黒崎の顔をじっと見つめていた。
「……一つだけ、確認してもいいですか?」
「何だ?」
「今のお話は、脅迫と受け取ってよろしいんですね?」
黒崎は一瞬、目を丸くした。
そして再び笑い出した。
「そうだよ! 脅迫だよ! それがどうした!」
「分かりました」
蓮司は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「……は?」
「確認できましたので」
黒崎には意味が分からなかった。
何を確認したというのか。
どうして礼を言うのか。
そして何より、なぜこの男は笑っていられるのか。
「……お前、頭がおかしいんじゃねえのか?」
「よく言われるほどではありませんよ」
「馬鹿にしてんのか!」
「そんなつもりはありません」
蓮司は壁際に立つ男たちを見回した。
「ところで、そろそろ帰していただけませんか?」
黒崎はしばらく考え込んだ。
この場で痛めつけてやりたい。
だが、それだけでは足りない。
この男には、自分たちの恐ろしさを骨の髄まで思い知らせてやる必要がある。
そう考えた黒崎は、ゆっくりと笑った。
「……いいぜ」
「ありがとうございます」
「今日は帰してやる」
黒崎は椅子に深く腰掛けた。
「ただし、明日の正午までだ」
「何がですか?」
「百五十万円、耳を揃えて持ってこい」
「お断りします」
即答だった。
「……何だと?」
「そのような金額を支払うつもりはありません」
黒崎の拳が震えた。
「てめえ……!」
「では、失礼します」
蓮司は軽く頭を下げた。
そして、何事もなかったかのように事務所を出ていった。
その背中を、黒崎は憎悪に満ちた目で見つめていた。
「……殺してやる」
小さな呟きだった。
だが、その声を聞いた部下たちの表情が変わる。
黒崎が本気で怒っている。
それだけは、全員が理解していた。
「佐伯」
「はい」
「明日、あいつの家に行け」
「何人で?」
「五人連れていけ」
「分かりました」
「それから……」
黒崎は煙草を灰皿に押し付けた。
「女房と娘のことも調べとけ」
佐伯は不気味に笑った。
「へへっ。承知しました」
黒崎は知らなかった。
今、自分が下した命令が、組織の運命を大きく変えることになるなど。
ましてや――。
目の前にいた平凡な男が、何者なのかさえ。
◇
午後六時十分。
東京都郊外。
閑静な住宅街に建つ、一軒の家。
神城蓮司は、スーパーの買い物袋を片手に帰宅した。
「ただいまー」
玄関の扉を開けると、ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「パパー!」
「おっと!」
勢いよく飛びついてきた娘を、蓮司は笑顔で抱き上げた。
「ただいま、陽菜」
「パパ、おそい!」
「ごめんね。ちょっと用事が長引いちゃって」
「きょう、こうえん行くって言った!」
「ああ、そうだったね」
蓮司は申し訳なさそうに眉を下げた。
「暗くなっちゃったから、明日でもいいかな?」
「えー!」
陽菜は頬を膨らませた。
「やくそくしたのに!」
「そうだね。パパが悪かった」
「……ほんとに、あした?」
「うん。明日は一緒に行こう」
「ぜったい?」
「絶対」
陽菜は少し考えてから、小さな手を差し出した。
「ゆびきり!」
蓮司は笑った。
「はいはい」
二人の小指が絡まる。
「ゆびきりげんまん、うそついたら……」
陽菜は歌いながら、嬉しそうに笑った。
その姿を見て、蓮司の表情も自然と柔らかくなった。
つい先ほどまで、凶悪な男たちに囲まれていたことなど、微塵も感じさせない。
「おかえりなさい、あなた」
奥から女性の声がした。
妻の美玲だった。
長い黒髪を後ろでまとめ、淡い色のエプロンを身につけている。
整った顔立ちに、穏やかな微笑み。
「ただいま、美玲」
「今日は随分と遅かったのね」
「ああ、少し長引いちゃって」
「そう。お疲れ様」
美玲は蓮司から買い物袋を受け取った。
「牛乳、買ってきてくれた?」
「もちろん。それと卵も」
「ありがとう」
「あとは……」
蓮司は袋の奥から小さな箱を取り出した。
「陽菜の好きなプリン」
「わあ!」
陽菜が歓声を上げる。
美玲は呆れたように笑った。
「もう、あなたったら。また甘やかして」
「一個だけだよ」
「昨日も同じこと言ってたわ」
「そうだったかな?」
「そうよ」
夫婦は顔を見合わせて笑った。
それは、どこにでもある家庭の風景だった。
夕食は、美玲が作ったカレーライス。
陽菜はニンジンを残そうとして、母親に注意されていた。
「陽菜、ニンジンも食べましょうね」
「やだー」
「好き嫌いは駄目よ」
「パパもニンジンきらい?」
「パパは好きだよ」
「ほんと?」
「本当」
蓮司は自分の皿からニンジンを一つ口に運んだ。
「ほら、美味しいよ」
陽菜は疑わしそうに父親を見つめた。
そして、小さなスプーンでニンジンをすくう。
「……おいしい?」
「うん!」
「じゃあ、ひとつだけ……」
陽菜は恐る恐るニンジンを口に入れた。
蓮司と美玲は、思わず顔を見合わせた。
「食べられたね!」
「えらい!」
二人が褒めると、陽菜は得意げに胸を張った。
「ひな、もうおねえちゃんだもん!」
蓮司は笑った。
「そうだね」
彼にとって、こんな時間が何よりも大切だった。
大きな仕事を成し遂げることでもない。
高価な物を手に入れることでもない。
妻と娘が笑っている。
ただ、それだけでよかった。
◇
午後九時三十分。
陽菜を寝かしつけた蓮司は、リビングのソファに腰を下ろしていた。
美玲が温かい紅茶を運んできた。
「はい、あなた」
「ありがとう」
美玲は隣に座った。
テレビでは、海外の政治情勢についてのニュースが流れている。
大国間の緊張。
首脳会談の決裂。
経済制裁。
金融市場の混乱。
キャスターは深刻な表情で、世界情勢の不安定さを伝えていた。
「最近、物騒なニュースが多いわね」
美玲が呟いた。
「そうだね」
「世界中、もう少し平和になればいいのに」
「……そうだね」
蓮司はテレビを眺めながら、静かに答えた。
その表情に、特別な感情は浮かんでいなかった。
美玲は紅茶を一口飲んだ。
「ところで、あなた」
「ん?」
「何か困ったこと、ない?」
蓮司は少し驚いたように妻を見た。
「どうして?」
「何となく。今日はいつもより考え事をしているように見えるから」
「そうかな?」
「うん」
蓮司はしばらく黙っていた。
それから、苦笑した。
「少し厄介な人に会っただけだよ」
「厄介な人?」
「ああ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
蓮司は穏やかに微笑んだ。
「心配しなくていいよ」
美玲はじっと夫を見つめた。
そして、小さく溜息をついた。
「……あなたがそう言うなら、信じるわ」
「ありがとう」
「でも、何かあったら必ず話してね」
「もちろん」
美玲は微笑んだ。
蓮司も微笑み返す。
二人の間には、それ以上の言葉は必要なかった。
しばらくして、美玲は立ち上がった。
「そろそろ寝ましょうか」
「そうだね」
蓮司も立ち上がる。
そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には、見覚えのない番号。
そして一通のメッセージ。
『明日の正午までに150万円用意しろ。逃げたら家族がどうなっても知らねえぞ』
蓮司は画面を見つめた。
数秒後、もう一通届く。
『お前の家も、嫁とガキのことも調べてるからな』
蓮司は静かに息を吐いた。
「……やれやれ」
「あなた?」
美玲が振り返った。
「何でもないよ」
蓮司はスマートフォンを伏せた。
「先に寝てて。ちょっとだけ片付けたいことがあるから」
「分かったわ。あまり遅くならないでね」
「うん」
美玲が寝室へ向かう。
その背中を見送ってから、蓮司は再びスマートフォンを手に取った。
画面には、先ほどの脅迫文。
蓮司は何度か読み返した。
そして、小さく呟いた。
「……本当に、家族に手を出すつもりなのかな」
その声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、純粋に不思議そうな響きがあった。
やがて蓮司は立ち上がり、廊下の奥にある書斎へ向かった。
扉を開ける。
部屋の中は薄暗かった。
机の上にはノートパソコン。
壁際には本棚。
一見すれば、何の変哲もない書斎だった。
蓮司は椅子に腰掛けると、しばらく考え込んだ。
そして、机の上に置かれたスマートフォンを見た。
「……さて」
誰に言うでもなく、呟く。
「どうしたものかな」
それだけだった。
何かを操作することもなく、誰かに電話することもない。
数分後、蓮司は静かに立ち上がった。
部屋の明かりを消す。
そして、何事もなかったように寝室へ戻っていった。
◇
そのころ。
黒狼会の事務所では、黒崎が部下からの報告を受けていた。
「兄貴。神城蓮司の住所、確認できました」
「おう」
「妻と娘の三人暮らしです」
「仕事は?」
「それが……」
部下は言葉を濁した。
黒崎の眉間に皺が寄る。
「何だよ」
「申告では会社員となっています。ただ、勤務先の確認がまだ取れていません」
「会社員なんて、いくらでもいるだろうが」
「それはそうなんですが……」
「何だ?」
部下は資料を見つめた。
「妙なんですよね」
「何がだよ!」
「本人の情報が、思ったより少ないんです」
黒崎は鼻で笑った。
「何だそりゃ。普通の人間ってことだろ」
「……そうですかね」
「そうだよ!」
黒崎は椅子に深く腰掛けた。
「どうせ金に困った貧乏人だ。だから俺たちから百万円も借りたんだろうが」
「確かに……」
「気にするな」
黒崎は煙草をくわえた。
「明日、家に行ってやれ」
「はい」
「女房とガキの前で、少し脅してやればいい」
部下が頷く。
「分かりました」
黒崎は笑った。
「今日みてえに余裕ぶっていられるか、見ものだな」
その笑い声に、周囲の男たちも同調した。
誰も疑問を抱かなかった。
神城蓮司。
三十三歳。
妻と娘の三人暮らし。
どこにでもいそうな、ごく普通の男。
それだけ分かれば十分だった。
少なくとも、彼らはそう信じていた。
◇
翌朝、午前七時十分。
「パパ、おきてー!」
陽菜の元気な声で、蓮司は目を覚ました。
「……ん?」
「きょう、こうえん!」
「そうだったね」
蓮司は眠そうに目をこすった。
「おはよう、陽菜」
「おはよー!」
美玲が寝室の扉から顔を覗かせた。
「あなた、朝ご飯できてるわよ」
「ありがとう。すぐ行く」
蓮司は娘を抱き上げ、リビングへ向かった。
テーブルにはトーストとスクランブルエッグ。
いつもどおりの朝食だった。
「パパ、ジャム!」
「はいはい」
「いっぱい!」
「またいっぱい?」
「うん!」
蓮司は苦笑しながら、娘のパンにいちごジャムを塗った。
美玲がその様子を見て笑う。
「本当に甘いんだから」
「今日くらいいいじゃないか」
「毎日そう言ってるわよ」
「そうだったかな?」
家族の笑い声が、朝のリビングに響いた。
そのころ。
住宅街から数百メートル離れた路上に、一台の黒いワンボックスカーが停車していた。
車内には五人の男。
全員が黒狼会の構成員だった。
「兄貴、本当にここですか?」
「ああ」
佐伯はスマートフォンの画面を確認した。
そこには、神城家の住所が表示されていた。
「何だよ。普通の家じゃねえか」
「こんなところに住んでる奴が、俺たちに喧嘩売ったんですか?」
「そうらしいな」
佐伯は鼻で笑った。
「いいか、お前ら」
「はい」
「今日は徹底的に脅すぞ」
「分かりました」
「女房と娘もいるんだろ? 家族の前なら、あいつも少しは大人しくなるだろうよ」
男たちが下卑た笑い声を上げた。
佐伯は腕時計を見た。
午前七時二十分。
「……よし。行くぞ」
男たちが車を降りようとした、そのときだった。
「おはようございます」
突然、車の外から声がした。
「……あ?」
佐伯が窓の方を見る。
そこには、一人の男が立っていた。
紺色の上着に、黒いズボン。
片手には小さな買い物袋を提げている。
神城蓮司だった。
「あ……お前!」
佐伯は思わず声を上げた。
蓮司は穏やかに微笑んだ。
「昨日はどうも」
「てめえ……何でここに!」
「近所ですから」
「そういうことじゃねえ!」
佐伯は勢いよく車の扉を開けた。
ほかの男たちも慌てて降りてくる。
五人の大男に囲まれながら、蓮司は特に驚いた様子も見せなかった。
「皆さん、朝早くから大変ですね」
「……お前、俺たちが何しに来たか分かってんのか?」
「ええ。大体は」
「だったら話が早え!」
佐伯は蓮司の胸元を指差した。
「昨日の金、どうなってんだ!」
「お支払いするつもりはありませんよ」
「てめえ……!」
佐伯の顔が怒りに染まる。
「だったら家族に払ってもらうしかねえな!」
蓮司は静かに首を横に振った。
「それは困ります」
「ああ?」
「妻も娘も、まだ朝食の途中なんですよ」
「知るか、そんなもん!」
佐伯が一歩踏み出す。
「今からお前の家に行ってやる!」
「……そうですか」
蓮司は少し考え込むような仕草を見せた。
それから、静かに微笑んだ。
「それなら、一つお願いがあるんですが」
「何だ!」
「ここでは、ご近所の迷惑になります」
「……は?」
「少し場所を変えませんか?」
佐伯は呆れた。
この男は本当に、自分が置かれた状況を理解していないのではないか。
五人に囲まれているというのに、まるで散歩の相談でもしているような口調だ。
「お前……俺たちを舐めてんのか?」
「とんでもない」
蓮司は首を横に振った。
「ただ、妻と娘を巻き込みたくないだけですよ」
佐伯はしばらく蓮司を睨みつけていた。
そして、不気味に笑った。
「……いいぜ」
「ありがとうございます」
「お前がそう言うなら、場所を変えてやる」
佐伯は車の扉を開いた。
「乗れよ」
蓮司は車内を覗き込んだ。
狭い車内。
無表情でこちらを見つめる男たち。
普通の人間なら、決して乗りたいとは思わないだろう。
だが、蓮司は少しも躊躇しなかった。
「では、お邪魔します」
そう言って、自ら車に乗り込んだ。
佐伯は思わず笑った。
「ははは! 馬鹿な野郎だ!」
ほかの男たちも笑い始めた。
「兄貴、こいつ本当に馬鹿ですよ!」
「自分から乗ってきやがった!」
「もう逃げられねえぞ!」
蓮司は何も言わなかった。
ただ、窓の外を眺めていた。
朝の住宅街。
通学する子供たち。
犬を散歩させる老人。
自転車で駅へ向かう会社員。
いつもと変わらない、平凡な朝だった。
やがて車が走り出す。
佐伯は助手席から振り返った。
「おい、神城」
「はい?」
「今から連れていく場所がどこか、分かってんのか?」
「分かりませんね」
「俺たちの事務所だよ」
「そうですか」
「二度と帰れると思うなよ」
蓮司は佐伯を見つめた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「そうならないといいですね」
「……あ?」
佐伯は眉をひそめた。
だが、蓮司はそれ以上何も言わなかった。
ただ、腕時計を確認する。
午前七時三十二分。
「……あまり遅くならないといいんですが」
「何だと?」
「娘と約束があるので」
佐伯は再び笑い出した。
「はははは! まだそんなこと言ってやがる!」
車内に男たちの笑い声が響いた。
しかし、その中心にいる蓮司だけは笑っていなかった。
かといって、怯えているわけでもない。
ただ静かに、何かを考えていた。
そして――。
誰も気づかなかった。
この車に乗り込んだ瞬間から、神城蓮司が一度も助けを求めていないことに。
それどころか、彼はまるで自分の意思で目的地へ向かっているかのようだった。
黒狼会の男たちは信じていた。
自分たちが神城蓮司を捕まえたのだと。
自分たちが彼の運命を握っているのだと。
だが、それが正しいのかどうか。
確かめた者は、誰一人としていなかった。
――第1話 完




