未練⑤
私はカノンに連れられて階段を上がった。
カノンが上がってすぐの扉を開ける。
「ここが脱衣所。その扉を開けたらお風呂だから、先に入っていて。私は着替えを持ってきます……持ってくる、わ」
「あ、ありがとう。ってことは、二人で入るってこと……だよね?」
「ええ。その……一人にするわけにはいかなくて」
監視、ということだろう。
でもなんだか、見張られるっていうよりは……保護者つき、みたいな。
「全然気にしないで! 私もカノンと一緒だと安心できるし!」
そう言うとカノンは、少しほっとしたような表情を浮かべ、脱衣所を出た。
それを見届けてから衣服を脱ぎ、風呂へと続く扉を開ける。
「わぁ……」
扉を開けた途端、湯けむりの向こうに見えたのは、石造りの大きな浴槽。
大人が二人で入っても、十分に手足を伸ばせそうな広さだ。
灰色の縁はあふれた湯に濡れ、艶やかに光っていた。
壁際には、体を洗うためのものだろう木製の椅子と桶が並べられていた。
壁に取りつけられた暖色の灯りが、浴室を照らしている。
柔らかな光は立ちのぼる湯けむりを淡く染め、波打つ湯面に反射して揺れるように煌めいていた。
ふと見上げると、天井近くの壁に四角い窓がある。
その向こうには夜空が広がり、流れる雲の隙間から満月に近い月が顔を覗かせていた。
浴槽には絶え間なく湯が注がれて、湯面に波紋を広げている。
湯の落ちる音が石造りの室内に反響していて心地いい。
かすかに鼻をくすぐるのは、火山地帯に湧く温泉特有の硫黄の香り。
わずかに癖はあるけれど、不快ではない。
「すごい……」
まさか、見知らぬ世界でこんなに立派なお風呂に入れるとは思っていなかった。
はやる気持ちを抑えつつ、木桶で湯をすくう。
肩からゆっくりと湯をかけると、ほどよい温かさが肌を伝い、汗を洗い流していった。
何度か掛け湯をしてから、浴槽の縁に手をつく。
片足ずつ慎重に湯の中へ沈め、底に足をつける。
そのままゆっくりと腰を下ろし、肩まで体を沈めた。
「はぁぁ……生き返る……」
自然に長い息が漏れた。
ぬるめのお湯が、疲れ切った体を優しく包み込む。
湯船に背中を預け、天井を仰ぐ。
目を閉じ、もう一度深く息を吐く。
全身から力が抜け、一日の疲れが癒されていく。
やはり風呂は良い。
命の洗濯とはよく言ったものだ。
ゆらゆらと揺れる湯面を眺めていると、ようやく一息つけたような気がした。
そのとき、扉を叩く音が聞こえた。
「入るわね」
扉が開き、カノンが白い湯けむりを押し分けるように浴室へ入ってきた。
思わず、その体に目がいく。
ほどよく鍛えられた筋肉。
細身に見えていたけれど、服の下に隠れていた体は思っていた以上に引き締まっていた。
肩周りは丸みを帯びながらも余計な脂肪がなく、手足はしなやかに伸びている。
特に目を引いたのは、腰から脚にかけての流れるような曲線美だった。
しっかりと盛り上がりの見える大腿四頭筋。
大きくしようとして大きくしたわけではない、実戦の中で鍛えられた形。
ふくらはぎも細いだけではなく、足首に向かって締まった形をしている。
瞬発力だけでなく、長時間動き続けるための筋肉がそこにはあった。
鍛えてきた人の体には、その人が積み重ねてきた時間が表れる。
そういう体を見ると、つい細かいところまで確かめたくなってしまう。
そして、女性的なラインや膨らみもちゃんとあって……羨ましい。
引き締まっているのに、胸元には私にはない存在感がある。
鍛えれば鍛えるほど、そういうものから遠ざかっていった気がする私とは大違いだ。
思わず自分の胸元へ視線を落とし、すぐに小さく息を吐いた。
「湯加減はどうかしら?」
「熱すぎなくてちょうどいいよ。こうやって湯船に浸かれて幸せ……」
「それならよかった」
カノンも体を流し、湯船に入ってきた。
肩まで浸かると、波が立って湯があふれた。
「フォティアの人はみんなお風呂が好きなのよ。火山の国だから温泉が湧いていて、足湯や公衆浴場もあるわ。実はこのお湯も温泉から引いているものなのよ」
「やっぱりそうなんだ!」
城の後ろにそびえていた、赤茶けた山はやはり火山だったのか。
そのふもとに湧く温泉や公衆浴場……つまり銭湯。
この風呂も十分気持ちいいが、広大な銭湯や露天温泉はまた別の気持ちよさがある。
機会があれば行ってみたいものだ。
「——そうだ。まだちゃんと自己紹介をしていなかったわ。カノン・レクティオよ。改めてよろしくね……アカネ」
「私は、アカネ・マツモト。プロレスラーです。こちらこそよろしくね、カノン」
「その、プロレスラーって、昼間も言ってたわよね。どういうことをしていたの?」
「うーん……。ファイター? 兵士? 戦ってみんなを楽しませる仕事、かな」
「楽しませる、か。アカネの国は平和なのね」
「……そう、なのかも」
短い沈黙。
温かい蒸気が天井に結露し、水滴の落ちる音がした。
「じゃあ、あのスキルもそこで?」
「そう! プロレスラーは三年くらいかな。その前も十年近く色々やって鍛えてたよ」
「十年!? すごいわね」
「カノンは、リベラブレイズに入って長いの?」
「私も三年くらいよ。その前にリトルファイヤーで一年」
「そっか。ちょっと似てるね」
私は湯面に指先で小さく円を描いた。
「……クララさんもブルーノさんもほんとに優しいね。エルダくんにチエリちゃんもとってもかわいい」
「ええ、自慢の家族よ」
カノンも同じように湯面へ円を描く。
二つの波紋が重なった。
「小さいころからずっと支えてくれているの」
カノンは湯面に視線を落とした。
「いい家族だね。ちょっと懐かしいな」
「懐かしい?」
「私の家族も仲はいいんだけど、今は一人暮らしだから……。だから今日はノクティオ家で過ごせて、すごく楽しかった」
「……そうだったのね」
揺れた水紋が、やがて静かに消えた。
「でも、リトルファイヤーになれば寮生活よ」
「あっ、そうだった! じゃあ、ここで過ごせるのは今だけかぁ」
「また来てくれたらみんなも喜ぶわ」
「やったー! そのまま泊まっちゃおうかなー」
「まずは合格してからね。私がみっちり鍛えるわ」
「ひえっ、スパルタだ……! けど、頼りにしてます。絶対受かってみせるよ」
私は両手を胸の前で握りしめた。
「のぼせる前に、上がりましょうか」
「うん、そうだね」
風呂から出ると、カノンが寝間着を渡してくれた。
シンプルな白地のワンピースだ。
「わぁ……これ、ふわふわだ」
「私のだからちょっと大きいかもしれないわ」
袖を通すと柔らかな布地が肌を撫でる。
確かに大きめだが、ゆったりしていて気持ちがいい。
「ううん、いい感じ! どう? 似合うかな?」
「ええ、似合ってるわ」
二人で階段を上がり、再びカノンの部屋に向かった。
部屋の床には、夕食前にはなかった布団が敷かれている。
「わっ! お布団!」
「ママが用意してくれたのね。アカネはベッドを使って」
「いやいや、私はこっちの布団でいいよ」
「明日からの特訓に備えるなら、ちゃんと休まないと。だからベッドを使って」
「……そっか。じゃあ、お言葉に甘えます」
ベッドの端に腰を下ろす。
……ふう。
まったく、息つく暇もなかった。
事故に遭って、戦って、縛られて、尋問されて、試合をして、未来を問われて——。
元の世界でも一日にこんな濃いイベントを詰め込んだことはない。
「とりあえず髪を乾かすわね」
「あっ、うん。ありがとう」
乾かす? ドライヤー?
振り返ると、私の頭にカノンがすっと手をかざした。
すると、手のひらからふわりと温風が吹き出す。
「えっ……!」
髪がふわりと持ち上がり、温風が通り抜ける。
「すごい! これもスペル!?」
「簡単なスペルよ。訓練すれば、アカネもできるようになる」
「ほんと? やりたいやりたい!」
「ええ、そのためにも明日から頑張りましょう」
温風は一定の強さで吹き続け、濡れた黒髪を優しく乾かしていく。
カノンの指先が髪をすくい、温風がそこを通るたび水気がさらわれていった。
熱と風。
ゆるやかな指の感触が私の頭を撫でる。
気持ちよさと安心感に目を細めた瞬間、頬に雫が伝った。
視界がじんわり滲み、身体の中心に小さな震えが走る。
目の奥が、涙腺が崩壊する前触れのように揺れる。
「あれ……」
気付いたときには、もう一粒が頬を伝って落ちていた。
それを皮切りに、雫は次々とあとを追い、頬を濡らし、寝間着へとしみ込んでいく。
しまいこんだ感情が、温風に溶かされるように崩れていった。
カノンは一言も発さず、ただ私の肩を抱き寄せた。
声を上げて泣いた。
嗚咽が喉を震わせ、呼吸が乱れる。
子どものように、ただ泣きじゃくった。
しだいに泣き疲れ、カノンの胸に顔を埋めたまま震えが落ち着いていく。
カノンは最後まで何も言わず、ただ包み込んでいた。
部屋には、温風の名残と静けさだけが残っていた。




