序章
その日は、プロレスの歴史に私の名前を刻む、最高の一日になる——はずだった。
——私の名前は松本朱音。
親元を離れ、豆柴の「がんも」と暮らしている。
趣味はカラオケで、特撮ソングやアイドル曲を熱唱してストレス発散するのが休日の定番だ。
特に『魔導戦隊マギレンジャー』の主題歌は欠かせない。
好きなものは焼肉とスイーツ。
そんな、どこにでもいそうな二十二歳。
ただ一つ、人と違うのは、職業がプロレスラーであること。
三年前、日本最大級の女子プロレス団体『シャイニングプロレス』でデビューした。
リングネームは『アカネ』。ニックネームは『ハートブレイカー』。
悪役プロレスラーのみで結成されたヒールユニット『ラブデビルズ』のメンバーとしてリングに上がっている。
身長百四十九センチと小柄ながら、持ち前の身軽さとハートの強さで、少しずつキャリアを積み上げてきた。
そして今日。女子プロレスラー全員の憧れである『WWGPシングルベルト』に挑戦する。
この試合に勝てば、史上最年少での戴冠となり、名実ともに団体の顔になれる。
対戦相手は、デビュー前の練習生時代から面倒を見てくれている先輩。
尊敬するレスラーであり、誰よりも超えたい壁でもある。
体格も経験も向こうのほうが上。
けれど、負ける気はしない。
あの人に勝つこと、ベルトを獲得することが、私にできる一番の恩返しなのだ。
試合開始のゴングは十八時。準備のため、昼前には会場入りしておきたい。
まずは、いつもトレーニングをしている道場まで三十分のランニング。
このランニングは、どんなに天気が悪かろうと欠かさない日課だ。
胸元まで伸びた黒髪を後ろで一つに結んで気合を入れる。
試合に必要な荷物はすべて道場に置いてあるため、身一つで家を出る。
「がんも、行ってくるよー! チャンピオンベルト獲ってくるからな! 帰ったら記念の高級ジャーキーだぞー!」
「わんっ!」
嬉しそうに尻尾を振るがんもの頭を撫でる。
その温もりに背を押されるように、私は笑顔で家を出た。
梅雨の時期だが、今日は快晴だ。
朝まで降っていた雨で濡れたアスファルトを踏みしめると、靴底が小さく鳴った。
軽いストレッチで股関節、太もも、足首などを伸ばす。
筋肉が引っ張られ、血が巡る感覚が気持ち良い。
「よっし……今日もやりますか!」
一歩目から速いペースで走り出す。
湿った空気の中で、額から流れる汗が心地良い。
少し走ったところで、川沿いのランニングコースへ合流した。
ここからは信号もなく、道場まで一本道だ。
日曜の午前中ということもあり、人が多い。
ギアを一段階上げ、ペースを速める。
試合のプレッシャーを吹き飛ばすように一気に走り抜けた。
「ふう、到着!」
倉庫のような建物の前で足を止めた。
その外壁には『シャイニングプロレス』のロゴのほか、試合告知や練習生募集のポスターが貼られている。
息を軽く整えてから引き戸を開けた。
「「「おはようございます!!」」」
先に来ていた仲間たちの元気な声が響き渡る。
私も負けじと声を張って挨拶を返す。
そんな中、シルバーのインナーカラーを入れた派手髪の子が、タオルを手に駆け寄ってきた。
「アカネさん、おはようございます!」
「おはよう、ハルナ!」
元気よく挨拶しながらタオルを差し出してくれたこの子は、新人プロレスラーのハルナ。
『ラブデビルズ』のメンバーとして昨年デビューしたばかりの、明るく真っ直ぐなかわいい後輩だ。
「タオルありがとう。……にしてもあっつーい!」
「ほんと暑くなりましたね! けど、晴れてくれてよかったです。最高の試合日和ですよ!」
「ね! 昨日まであんなに降ってたのが嘘みたい!」
「そろそろ梅雨明けですかね」
「なのかなー」
そんな話をしながら呼吸を整える。
「さて、と……。ちょっとだけリングで体あっためるね」
「わかりました! お相手しますか?」
「ううん、軽くストレッチとかロープワークするだけだから大丈夫! ありがとうね」
タオルをコーナーに掛け、ロープの張られた四角いリングに足を踏み入れた。
青いマットの上で全身をまんべんなく伸ばしてからロープを握る。
直径三センチ弱の黒いロープ。
ゴムのような外見だが、内側にはスチールワイヤーが通っており、見た目よりずっと硬い。
試しにロープワークをした素人が、あばらを折ったなんていうのは有名な話だ。
ロープに背中を落とし、その反動で走る。
一歩、二歩、三歩——。
体勢を入れ替え、逆サイドのロープの反動を使い、また三歩。
それを何度か繰り返す。
マットを蹴る音、ロープの軋む音が重なり、眠っていた筋肉が次々と目を覚ましていく。
最後に受け身。
今日の試合相手の技を想像しながら、前後左右に繰り返す。
そのたびに背中に鈍い衝撃が伝わり、汗が散った。
「……よしっ。コンディション完璧!」
三十分のランニングに、二十分のロープワーク。
体の芯まで熱が通った。
「お待たせ、ハルナ。そろそろ行こうか!」
「はい! アカネさん、絶対勝ってベルト獲りましょうね!」
「もっちろん! セコンド任せたよ!」
そばのベンチには、コスチュームやリングシューズを詰めたキャリーケースと、ガウンを収めたテーラーバッグが置かれている。
どれもハルナが前日に用意してくれたものだ。
いつも「自分でやるからいいよ」と言っているのに、こうして全部整えてくれる。
後輩力の塊みたいな子で、その優しさについ甘えてしまう。
上着を羽織り、ソール十一センチの厚底ブーツに履き替える。
これは、自分なりの勝負靴だ。
視線が少し高くなるだけで、気分がアガるし気も引き締まる。
……もちろん、試合では専用のリングシューズを履くわけだが。
「それじゃあ、会場に向かいましょう!」
「うん、今日も運転よろしくね」
道場に残った仲間たちに見送られ、ハルナの車に乗り込む。
試合会場までの移動には電車を使うのが一般的だが、運転好きなハルナがこうして車を出してくれることも多い。
目的地は、プロレスの聖地——天楽園。
高速を使えば三十分ほどで着く。
私は助手席に深く腰を預け、スマホを取り出した。
SNSには「アカネがんばれー!」「最年少ベルト期待してる!」といった応援メッセージがずらり。
胸が熱くなり、全身に力が湧き上がる。
近年はSNSでの発信も、プロレスラーとして大事な仕事のひとつだ。
自分を魅せる場所はリング上でありたいが、これも時代。
試合の告知やライバルプロレスラーとの舌戦にくわえ、何気ない日常も発信する。
はじめは慣れなかった自撮りも、今やお手のものだ。
……まあ、私だって推しのアイドルの投稿通知をオンにしているくらいだ。
誰かを推す気持ちは、私自身がよく知っている。
プロレスだって、今や推し活みたいなもの。
そう考えるとSNSは別に苦ではない。
何より、ファンの声が直接届くのはやっぱり嬉しい。
SNSを閉じ、今度はブックマークしていた焼肉店の一覧を開く。
その中から一軒を選び、メニューを確認する。
名物は、厚切りの牛タン。
……よし、ここに決定。
「ハルナ、勝ったら焼肉ね! お店予約しとくから!」
「いいですねー! ごちそうさまです!」
「もー、奢られる気満々じゃん!」
「かわいい後輩ですからね。えっへん!」
「まったく……食べすぎないでよね!」
他愛もないやりとりに心が弾む。
そのとき、ハルナがゆっくりとブレーキを踏んだ。
「あちゃー、渋滞しちゃってますね。事故っぽいですよ」
見れば、前方の車列が急に減速し、渋滞を知らせるハザードランプを点滅させている。
ハルナもそれに続きハザードボタンを押した。
「まあ、時間に余裕あるから大丈夫だよ。焦らず行こ!」
「相変わらずポジティブですね。そういうところ、尊敬します」
「何事もピンチはチャンス、だよ!」
「そうですね! あ、何か音楽でも流しましょうか。今日リリースのアルバム、あるって言ってましたよね」
「そうそう! 昨日は早く寝ちゃったからまだ聴けてないんだよね!」
そう言って私は、ペアリング済みの自分のスマホを操作した。
「今回のアルバムさ、推しのソロパートが——」
——その瞬間、世界が跳ねた。
背後から叩きつけられる、凄まじい衝撃。
何が起きたのかを理解するより早く、私の意識は途切れた。




