銀蛇卿の茶会
湖の底から、城が生えている。
ディオメス連峰に囲まれた盆地は、丸ごと水に沈んでいる。連峰の全域から集まる雪解け水が、四方の山から盆地へ注がれ、巨大な水鏡を作っていた。
透き通るような空を映した湖面を、白亜の尖塔が幾本も突き破っていた。円錐の屋根と小塔を無数に従えた石造りの城は、遠目には湖に戴く銀の冠だった。
【天動宮 ステラ】。<叡智の学堂>の頭脳にして心臓。
その中庭に、場違いなほど穏やかな光景があった。
パラソル、円卓。銀のティーセットと、三段に積まれたケーキスタンド。そこへ、柔らかいつららのような指先が伸びた。
「ふう」
マドレーヌを一口かじり、少女が息をついた。
淡い青銀の髪が、風に一筋なびく。頭には白いヴェール。肩を出した法衣は聖女の装いそのもので、肌もまた、陽のひかりを透かす白皙。
ヴェールの下から覗く耳は長く、先がとがっていた。
切れ長の瞳は氷のような青。
誰かが彼女を絵にかけば、聖女と題をつけるだろう。
政敵が聖女の題を知れば、その題を火にかけるだろう。
リヴェータ・ロット・アイネイアス。
<叡智の学堂>の創設者にして学園長。アルメ=ガファ聖教第一【枢機卿】。西方連合初代執政官。
二千年を生きる魔導師。
通称——<銀蛇卿>。
その瞳が、いま、角砂糖を捉えている。
白い陶器のシュガーポットより、角砂糖が空に浮かんだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
「——はっはは。さすがに五つは入れすぎじゃないか、リヴェータ」
覇気に満ちた女性の声が響く。
「さすがに歯が溶けよう。あとで歯磨きを嫌がっても我は知らんぞ」
「そんなことしてない。エリスはいつも適当ばかり言うんだから」
五つ目が落ちた。六つ目も落ちた。紅茶の液面に波紋が落ち、渦を巻いて混ぜていく。
たしなめた女は、それを見て喉の奥で笑った。
襟足だけを長く残した、軽やかな黒髪の内側から金糸めいた髪が揺れる。身の丈は六尺に届く。黒軍服を着崩し、外した釦の間から鎖骨と豊満な肉体が覗かせている。黄金の瞳には縦の瞳孔があり、笑えば覇王、黙れば妖艶であった。
——執行機関第一位“世界竜”エリス・アヌマティ。
「私生活で適当なのはお前だろう、リヴェータ」
「服を脱ぎ散らかしたままのあなたには言われたくない。エリス」
少女——リヴェータ・ロット・アイネイアスは、ようやく満足した顔で紅茶に口を運んだ。
「ほっほ。変わンねぇな、テメェらは」
その向かいで、ボロ布の塊が動いた。
塊は人の形をしていた。頭から足まで襤褸をまとい、顔は布の奥の闇に沈んでいる。
墓場から這い出た亡霊が席に居ついているようで、ティーカップを持つ骨ばった指だけが、妙に人間らしい。
「時によ、リヴェータ。テメェ、今週は【聖都】にいるンじゃなかったのかい。ンな噂を帝国の情報部が垂れてたぜ」
しわがれた老人の声が、フードの内から漏れる。
「仕事はすぐに終わらせた。今流しているのは誤情報。身内なら、視ればすぐにわかったでしょう?」
「ちげぇねえ」
襤褸の翁——クロウは、布の奥で喉を鳴らして笑った。
帝国十二神傑、第三席。剣の頂きたる唯一の”剣聖”は、リヴェータの流した誤情報をかぎ分けることなど、容易い話であった。
「それで、コレトーの件はどうなったの」
リヴェータが微笑を浮かべて流したのち、クロウの隣に腰かけるもう一人へ瞳を向ける。
「ローグ」
影が濃くなった。
大気と一体になるほどの隠形の中から現れたのは、壮年の男性だった。茶髪に無精髭。鳶色の瞳。柿色のトレンチコートを椅子の背にかけたまま、男は紅茶を口に含んだ。
——執行機関第三位“鉄山血河” ローグ。
「コレトーは無事だ。問題なく帰ってくるだろう」
「……わたしは、あなたに連れ戻してくるように言ったのだけれど」
「たまのお遊びくらいいいだろう。それに、問題はあるまい」
「根拠は」
「身内がいたから、そいつが連れてくる」
リヴェータは眉間を揉んだ。
ローグという男は、必要のないことしか言わない。必要なことは黙って済ませる。普通は逆のはずの行為を二千年見てきてなお、この物言いには慣れていなかった。
「はーっはっはっはっはっ!! 本当に面白いやつだな! よほど我が怖くないと見える!」
エリスが大声で笑い飛ばし、捕食者の目つきのまま頬杖をつく。
「なあに。帰ってきたら我が面倒を見てやる。イーラも入学するし、この際だ。泣いたり笑ったりできなくなる、楽しい楽しいブートキャンプへご招待だ。あの阿呆にはちょうどいい」
「錬金科の祭主を阿呆だなんて言わないで」
「阿呆だろう。リヴェータ、お前の足をみてよだれを垂らしていたんだぞ?」
「…………………………まだ、面に出してくれるだけましです」
リヴェータは静かに紅茶で唇を濡らした。
「<アリウスの梯子>が出たそうね」
空気の温度が、半度だけ下がった。
「ああ」
「ずいぶんと、懐かしい名前も出ていたわね」
「イルゲルムのことじゃの。二千年も前によ、あれだけ痛ぇ手傷をおわせてやったってぇのに、まだ生きてやがったのかい。はンッ。
ヨボヨボに老いさらばえちまっても裏でコソコソ暗躍なンざ。ずいぶんとお元気なこって」
ローグは鳶色の目をリヴェータへ向けた。
「新しい【勇者】が、両方の息の根を止めた」
リヴェータは、答えなかった。
ほかの誰も、何も言わない。ただ、わずかに鋭くなった空気が、その場を揺らしている。
そうして、五分ほど。
円卓の端に置かれた呼び鈴が、ひとりでに鳴った。
澄んだ音が、中庭に響く。同時に、四人の上に影が差した。
空を、艦が泳いでいた。
赤い。血のように赤い装甲を持つ戦艦が、城の上に停泊する。錨も帆もない、赤い鋼の船が浮いていた。その船底から、一条の光が中庭に降りた。
光から現れる、一人の青年。地に足をつけると、そのまま片膝をついた。
何も言わない。彼は芝生の上に膝をついたまま、しばらく固まっていた。
リヴェータが立ち上がり、彼の元へ歩く。そして、跪いた青年の前に、自らも両膝を突いた。白い法衣が芝に触れることを気にするそぶりも見せない。
目線が、同じ高さになった。
「おかえり、フレドリクス」
それは、青年が捨てた名だった。
彼の今の名は、イルク。最愛の師より贈られた、彼だけの名。捨てた名で呼ばれることを、彼は好まない。
ただ、家族に等しい相手にだけは——。この場に集まる、彼を育てた人々には読んでほしいと、心のどこかで思っていた。
「ただいま、戻りました。リヴェータ様」
「様なんてつけなくていいの」
イルクの頬を、白い手が覆う。
彼女の氷のような面に、ほんの少しだけ、柔らかさが生まれていた。
「よく帰ってきてくれた」
それは、母親の顔であった。
※※※
円卓に椅子がひとつ増えた。
イルクは目の前に注がれた紅茶へ手をつけず、膝の上で拳を握っていた。
「おうおう! フレ坊もでかくなりやがって! 元気そうじゃねえか」
「はっはっは! 久しぶりだなあ、フレドリクス! こうして会うのは三十年ぶりか? たまには顔を見せよ! リヴェータも寂しがる!」
「わたしは寂しがって……ないわ」
紅茶に口をつけ、リヴェータはそっぽを向いた。
「なかなか顔を出せず、申し訳ございません」
イルク——フレドリクスは、頭を深く下げた。
「いいの。休暇中にごめんなさいね。単刀直入に言う」
彼女の声は、先と変わらず淡々としていた。政治家でも、【枢機卿】でも、学園長でもない素の彼女は、いつもこうだった。
「——十三代目の【魔王】が就任した。魔王軍が前線で活発になっている。至急、月華樹の森に戻って、魔王軍の艦隊航路を抑えてほしい」
イルクの目が、わずかに見開かれた。
【魔王】。
魔族の絶対権力者にして、第四の王冠。
わかっていることは少ない。ただ一つ確かなのは、【魔王】が現れれば魔族の侵攻が激しくなる。
月華樹の森は。魔界と人界を繋ぐ雲外の海。そこへ、【月王】ノアが双方の被害を減らすために植えた森であり、異次元への海峡へ通じる数少ない航路。
そこを抑えられれば、魔王軍は大きく迂回するしかない。
その門番を務めることこそが、イルクの使命。
「承知しました」
彼の脳裏を、ひとりの少年の姿がよぎる。
よく笑い、よく懐き、闘争に喜悦を見出す、不安定な弟分。
彼の行く末は、彼の守り手は、できるのだろうか。
イルクは拳をわずかに握りしめ、感情を押し殺して返した。
声は揺れなかった。表情も、眉1つも動かなかった。それが、イルクの生き方であり、隠した感情を見抜かれる愚を犯さない。
リヴェータに手間をかけさせたくない。これは、隠さなければならないと判断した、情であった。
だが。
「それで」
リヴェータは、薄笑いを浮かべたまま首を傾げた。
「それは、リヴェータ・ロット・アイネイアスの名で解決できること?」
イルクの肩が震えた。
見抜かれている。いつもそうだ。この人相手に、隠し事ができたためしがない。
かなわない。
その気持ちと一緒くたにこみあげてくるものと、情。腹をあぶるような感情。
「……俺の、弟分が」
何もしてやれない自分へのふがいなさを、イルクは絞り出した。
「【勇者】になる資格を、得ました」
リヴェータの顔色は変わらず、慈母のそれのまま。
しかし、イルクには、彼女の纏う雰囲気が、僅かに固まるのを感じ取れた。
「本当に、いい子なんです」
それでも、止まれなかった。
「本当に、やさしい子なんです。あの塔で——リステリアの東塔で、あいつはひとりで魔物を喰って、生きてきた。それでも、誰も恨まなかった。俺が連れ出したら、ほんとうにうれしそうに笑って。
……俺なんかを慕って、俺みたいに強くなって、魔界まで追いかけてくるって。わざわざ、俺を助けに行くって、指切りまでして」
拳が、白くなる。
「でも——危ういんです。あの子は、あまりにもやさしすぎる。あまりにも、視えすぎる。あまりにも、強すぎるんです。自分がどれだけ人と離れてるか、あの子は知らない。
あれは、一人で戦うしか知らないんです」
彼は、リヴェータを見た。
「あなたにとって、【勇者】の名が、どれほど重い意味を持つか。重々承知しています。それでも、どうか」
額が、地面に向かう。
「どうか、あの子を——」
「やめて」
イルクの肩が、やさしく掴まれた。
リヴェータの両手だった。小さな、しかしぜったに振りほどけない力で、彼女はイルクの身体を自分の方に向かせた。
「我が子にも等しいあなたが頼むのに、どうして頭を地面にこすり付ける必要があるの」
氷青の瞳が揺れていた。
「あなたは普段から、わたしの無理を聞いてくれている。月華樹の森の門番もそう。誰にも頼めない仕事を、いつだって黙って引き受けてくれる」
彼女の指に力がこもる。
「今度はわたしが返す番。そのくらいのこと、わけはない」
イルクは何も言えない。
リヴェータは立ち上がり、法衣の裾を払った。そして、宙に向けて手招きをする。
それが、魔法となった。
空気が撚れ、光の糸が編まれる。空に穴が開き、円卓の上に数枚の手紙と羽ペンが、どこからともなく滑り落ちてくる。
「公平性は守る。この日のために努力を重ねた受験者が何千人といるのを、踏みにじるわけにはいかない。
でも、その最初の関門を抜けるくらいなら、できる」
<叡智の学堂>の受験は、本来なら二段階。各地の衛星施設で行われる一次試験に合格し、初めて本試験の受験資格を得る。
一次試験の合格率は、およそ0.02%。
彼女の手紙、即ち推薦はその門を開けることができる。
特別本試験受験資格。
これと見込んだ学生に学科の支配者たる教授陣が送れる、智慧の祝福だ。
空に腰かけ、彼女は質のいい羊皮紙にペンを滑らせる。
「人数は」
「四人です」
「四人ね」
さらさら、と羽ペンが走った。
エディン・イラ・リステリア。
リリア・ヴェセル・アガレイド。
アルター。
ログマ。
迷いのない筆致で、名前を記す。二千年、署名だけで国を動かしてきた千本の剣にも勝る手であった。
翼をもつ蛇の封蝋を押す。碧い封蠟が刻まれ、いつの間にやら彼女が召喚した小鬼にそれを差し出した。
小鬼は恭しく受け取り、中庭から消える。
そして、リヴェータは微笑んだ。
イルクは安堵したように、本当に肩の力が抜けたように笑った。
「……ありがとう、ございます」
「いいの。それより」
「はい」
「まだ考え事があるの?」
「——ええ、まあ」
イルクは、少しだけ目をそらして苦笑する。
それから、気を取り直したように背筋を伸ばして、船を仰いだ。
「実は——拾い物が、ありまして」
【赤戦神艦】の腹から、何かが釣り下ろされてきた。
ぐるぐる巻き。
太いオレンジ色の縄で、足以外の全身を隙間なく縛り上げられた、人間台の物体。上から下まで一部の隙もなく巻かれ、両足だけがぴょこんと突き出している。
地面に下ろされたとたん、それはじたばたと跳ね始めた。
衣揚げで包んだ、巨大なエビフライのように見えた。
「んーッ! んんーッ!」
白衣の端が、縄の隙間から覗いている。
錬金・練成科祭主。人類の叡智。<叡智の学堂>の最重要人物。
小鳥遊惟任。通常、コレトー。
「拾い物です」
イルクは真顔で言った。
羽ペンが、手から滑り落ちる。氷青の瞳が、二度、三度、ぱちぱちと瞬きをした。首を大きく傾げ、眉間に寄せられた深いしわをもみほぐしている。
それから、ぎこちなくゆっくりとした動作で、ローグを見た。
ぎぎぎ、と油をさしていない歯車のような動作で振り返る。
根拠なく「無事だ」と言い、「問題なく帰ってくる」と言った男は、新聞に目を落として知らん顔をしていた。
その肩が、僅かに揺れている。頬をコの字に歪め、必死に笑いをかみ殺そうと明後日の方向を見ていた。
「………………………………」
「………………………………」
その横で。
「ぷっ——」
エリスが、噴き出した。
「ははははははっはっはっはっは! 拾い物! 拾い物……っ、くくくくははははっ! お前、我を笑い殺そうとしているのか……っ、く。 ダメだ、笑い死ぬはははははははっ……!」
「がははははは! いいぞ小僧! 最高のつまみだ! がはははは!」
クロウがぼろきれの内側で、腹を抱えている。
中庭に、二つの笑い声がしばらく響いた。
ひとしきり笑った後。
エリスが、笑ったまま目を据わらせた。
黄金の縦長瞳孔が、すう、と細くなる。深まった笑顔のまま、彼女は立ち上がる。地面ではねているエビフライを片手でつかみ、軽々と持ち上げた。
「では、引き取る。コレトー、お前、まさか笑わせたからおとがめなしだとかナメたこと、思っちゃいないだろうな?」
「んんんーッッッ!?」
瞬き1つ。
その後には、彼女はいなかった。
エビフライもまた、然り。
中庭には、彼女の椅子だけが、少し斜めになって残されていた。
「…………………………」
リヴェータはまだ停止したままだった。
イルクはなんとなく、居心地が悪くなった。
この場にい続けたら、次に何か起きた時、エビフライになるのは自分だ。何となく、そんな予感がした。
「では、おれはこれで」
「——え、ええ。行ってらっしゃい。フレドリクス。頑張ってね」
「はい。いってきます」
彼は一礼し、船腹から伸びた光の柱に足を乗せる。
光の中にイルクは消え、空中戦艦に青い光が灯る。
赤い戦艦が、ゆっくりと高度を上げていく。翼のような船縁が陽光を切り、影が中庭から滑り落ちた。
春の陽気が、また円卓に戻ってきた。
「——さて。儂も帰るとするか」
クロウが腰を上げた。
「帝国の連中がうるせぇンだ。第三席が茶を飲みに大陸を渡ったなンぞ知られたら、また大目玉だ」
「そう。気を付けて」
「気を付けるのはテメェだ、リヴェータ」
ぼろ布の塊が、ふわりと浮いた。
「あんまり抱え込みすぎンじゃねぇぞ。イフィゲネイアと西方連合の復興。両方を同時にこなすなンざ、土台無茶なんだ。いざとなりゃ、儂も出向くからな」
そして、風に紛れて消えた。
ローグも、新聞を丸めて立ち上がる。
「行くの?」
「ああ。【聖都】の調査に戻る。あと一、二年もすれば大掃除だろう? それまでに幾つかの情報収集と始末をつける」
「そう。なら、学堂はエリスに任せましょう。わたし達もしばらくしたら発ちます」
「ああ」
トレンチコートを肩にかけ、彼は中庭を出ていった。
白いパラソル。円卓。冷めた紅茶が五つ。
「……せっかく、この日のためにいい茶葉を仕入れたのに」
リヴェータ・ロット・アイネイアスは、大きな、大きなため息をついた。
※※※
虚空に指が這う。
空間が薄く割れ、そこから紙束が滑り落ちてきた。魔法で圧縮された資料だ。リヴェータはそれを空に浮かべ、一斉に目を通し始める。
——新たに現れた【勇者】。
エディン・イラ・リステリア。十三歳。
「——蒼輝王国、リステリア。ですか。懐かしい名前です」
リヴェータは瞳を閉じ、過去に思いを馳せ、並行してレポートを読み進める。
蒼輝王国リステリア第三王子。王族専用の生贄場である東塔にて幼少期を過ごす。三週間前、フレドリクス・アイネイアスの手引きによって塔より出奔。
以後、迷宮都市国家にて活動。
迷宮都市国家での騒動においては、その中心に立った。
<アリウスの梯子>の妨害。
二千年前の魔族大将軍、イルゲルムの討伐。
それに伴う、迷宮都市国家の救世。
——功績、と一言でいうには重すぎる。
資料の中の少年は、蒼い瞳で笑っている。
「……なるほど。これが、ブルー・カーネーション、ということですか」
わずかに資料を浮かす魔力に波紋が生まれた。
彼女は一言つぶやいた後、その資料すべてに火をつけた。
燃え盛る資料の山をぼおっと見つめている最中。
赤い警報が、学堂の全土に響き渡った。
「赤の警報。ということは、外部からの侵入者ね」
リヴェータは【天動宮】に干渉し、そこから学堂全土の地図を浮かばせる。
円卓の上に地図が投影される。浮かび上がった大陸。その東の海上にひとつ、あってはならない点が灯っている。
異常。
あらゆる魔道具。あらゆる理論。あらゆる遺跡。あらゆる知恵をかすめ取り、奪いつくす、空飛ぶ【魔神】の島。
アイテール。
リモルという名の全世界指名手配犯が繰る、浮遊する略奪国家。それが今、錬金科の上空に向かって、まっすぐに進んでいる。
ねらいは、錬金科の大装置。コレトーの誇る、三大発明品のひとつだろう。
「ずいぶん物騒な母校訪問ですこと。わたしが留守だと思ってらっしゃるのですね」
リヴェータは薄笑いを浮かべ、ティーカップに手を伸ばし——止めた。
冷めている。
その代わりにティーポットを浮かべ。カップへそそぎ入れる。
あくまでも余裕の態度。緊急事態とは思えぬほど、泰然とした様子であった。
一言、口にした。
「——執行機関」
影が、動いた。
中庭の三隅。パラソルの影、円柱の影、尖塔の影。そこから、3つの人影が立ち上がった。
一人は、神父服の男。長身に、生気の薄い顔立ちの青年が、煙草をくわえている。
——執行機関第二位、<聖餐者>。
一人は、金髪の少女。背筋を伸ばし、顎を引き、どこか誇り高い貴族の所作で佇んでいる。
——執行機関第五位、<後追い星>。
そして、もう一人は——小さな影。
黒ずくめの装束。首から上と手首だけを覗かせた、華奢な少女。感情の彩を宿さない、昏い赤の瞳。
——執行機関第四位、<最弱無敵>。
「エリスは」
リヴェータが問うた。
「【魔神】の迎撃に向かわれましたわ」
<後追い星>が、お嬢様然とした口調で答える。
「先ほど、エビフライ——失礼、小鳥遊教授をお持ちになったまま、飛び立たれました」
「ならよろしい」
リヴェータは、ようやくティーカップを置いた。
指を振る。円卓の上に浮かんでいた世界地図が、拡大された。大陸の東端。そこから中央へ向けて広がる、砂の海。
<嘆きの大砂漠>。
その砂漠を、一本の線が横断している。
砂漠鉄道。彼女が敷いた、九万八千キロの鉄の道。その路線は中央を横断せず、北へ向かって楕円の孤を描くように走っていた。
「今回の任務は、【勇者】の護衛です」
口調が、変わっていた。
淡々とした素の声ではない。丁寧で、ゆるぎなく、聞くものに有無を言わせず、安堵を齎す——【枢機卿】の声。
「ごえい」
舌ったらずな声が、そう繰り返した。
それは、<最弱無敵>のものだった。彼女は昏い赤の瞳を、ゆっくりと地図に向けている。
「ごえい、ということは、てきがいる?」
「ええ。一、二割ほどの確率になりますが」
リヴェータがうなずいた。
「敵は、【月睨派】の下請けです」
白い指が、砂漠を横断する鉄道を指した。
「【勇者】の名が持つ意味は大きい。【月睨派】も、まだ卵だからこそ【勇者】を確保したがっています。
彼らにとっても、【勇者】は旗頭であり、広告塔であり、何より——派閥を正当化できる戦力になります」
——遠く。
東の空、湖の彼方に、島の影が浮かんでいた。
海を覆うほどの巨大な岩塊が、空を飛んでいる。その底面から伸びた光が、まっすぐに錬金科領へ降りている。
そこへ、一条の黒い光。島よりも小さく、しかして島をはるかに凌駕するほどの膨大な魔力をまき散らしながら、黒い竜が一直線に突っ込んでいる。
「ですが、彼ら【勇者】はいま、迷宮都市国家にいる。出国にはしばらく時間がかかるうえ、迷宮都市国家から聖教へ向かう船は、アシュドット教区しかない。
そこから【聖都】までを繋ぐのは、砂漠鉄道。どちらも、わたしが権限を握っているものです」
黒い光の先端に、金が混ざった。
黒と金の魔力が、限界を超えて膨れ上がり、大気のきしむ音が響く。本来、魔力を肉眼で見ることは極めて困難。
そんな常識など笑うかのように、可視領域まで濃度を上げた魔力が、空に膨れ上がる。
「情勢的に、彼らは手をこまねいてはいられない。わたしの勢力である【叡神派】を削ろうと躍起になっている。
けれど、アシュドットも鉄道も、わたしの支配下にあります。それに表立って喧嘩を売ることは、【月睨派】にはできません。正当性がありませんもの。
ゆえに——聖騎士は動かせない」
地上に、第二の太陽が生まれた。
黒と金の球体が、空の彼方で膨張し、春の陽光を塗りつぶす。【天動宮】の白い城壁が、金色に照らされる。パラソルの影が、西へ伸びた。
竜の振りかぶった拳に、その魔力を一点に集める。
誰も、そちらを見なかった。
「しかし、どうしてもわたし達より先に、確実に【勇者】を確保したい。ただ、わたしと表立って争いたくはない。
となれば、彼らが動かせるのは強力でかつ——罪を擦り付けられる非合法の戦力だけです」
リヴェータは、地図から目を離さない。
「何度も言いますが、【月睨派】が仕掛けてくる可能性は三割に満たない。ただ、それでもかまいません。さきに接触してしまえば、こちらの大義名分に持ち込めます。
仕掛けてきた場合。どのような戦力かはわかりません。ただ、生半可な相手ではないことは確かです。そして、生半可でない相手ほど——」
彼女は、そこで初めて顔を上げた。
「【月睨派】の大きな尻尾になる」
くすり、と。
氷青の瞳が、笑みを浮かべた。
白い法衣の袖が翻り、両手が、湖を抱くように広げられる。
その瞬間——世界が、白に染まった。
第二の太陽たる拳が、振り下ろされたのだ。光は音より先に届き、色を奪い、輪郭を消し、雲を払った。パラソルも、円卓も、三つの人影も、少女の青銀の髪も。
すべてが、白に返った。
「みなさん」
その中心で。
銀蛇卿が、言った。
「——大捕り物を、はじめましょうか」
白が褪せ、色のすべてが戻った東の果て。
湖の向こうで。
空飛ぶ大陸が、真っ二つに割られていた。
新章開幕です。




