運命の日
「か…………ッ」
イルゲルムの口から血があふれる。
奴の胸からは一本の手が生えていた。腕は海から伸び、数百メテル上空にいるイルゲルムを狙い過たず貫いていた。心臓のほかには枯れ枝のようなものが共に握られていた。
《蒼眼》、駆動。
腕の元をたどっていく。青空を、岩礁を越えて透かした視界にはいやらしい顔の男。
リューリュがいた。
「イルゲルム!」
【天璽聖劍】へ気魄を回す。聖劍が霊魂のエネルギーを啜り、それを維持するための膨大な魔力が吸い上げられていく。
何かわからないが、嫌な予感だけは走っている。リューリュがイルゲルムを使って何かを企んでいるってことは自明の理だった。
イルゲルムを貫く腕に微細な動き。腕が収縮し、回収しようとするのが視えた。
黄金の光波が集った刃を振りかぶる。
狙いは腕。それを断ち切り、誉れある戦士に名誉ある死を。
「おっと」
剣を振り下ろす間際、リューリュの腕が跳ねる。
イルゲルムが猛然と引っ張られていった。
抵抗する力が残っていないイルゲルムが風圧に揺らされながら海上へと回収される。
イルゲルムはリューリュに心臓を掴まれている。吐き出す息も絶え絶えで、海の上で虫の息となっていた。
「よっと」
リューリュが片手に握ったランプを振るう。
間髪を入れず、海が立ち上がった。そそり立つような波の壁がリューリュを覆った。
一拍後。赤い爆炎砲が波の壁に直撃する。爆炎は僅かな海水を蒸発させるに留まり、その魔力を海が吸い尽くした。
「海の……退魔……!」
歯が軋む。不快さのあまり、思い切り嚙み締めた。
歯から掠れるような音が耳を震わせた。
海には退魔の力が宿っている。好悪を問わず魔力を際限なく吸い込むタイプの退魔だ。
魔力を過重なほど充填させた<紅蓮砲殲火>も、あれほど厚い海を貫くには至らなかった……!
吶喊できる隙を探るため、《蒼眼》でリューリュたちを覗き込む。一瞬だけ視界にノイズのような砂嵐が映り、イルゲルム達の様子を伺う。
「源流能力」
中では、リューリュの言葉が響き。
「【柔解攪拌】」
黒い虹の光が、リューリュの掌から溢れた。
イルゲルムの心臓と、握られていた枯れ枝――。黒い汚泥のような瘴気よりも尚濃く、世界を汚染するようなナニカが、混ざっていく。
――耐性獲得。『呪力』
閃光のように記憶が巻き戻る。
間違いない。あれは、イルクに見せてもらったアイオーンの心臓から放たれていた冒涜的な波動と同じもの!
「エディン、だめだ!」
前傾姿勢になり、駆けだそうとした一瞬をイルクに捕らえられる。
「なんで!? イルク、あれどう考えても防がなきゃやばいでしょ!」
「海の壁に突っ込んだら死ぬぞ! 奥にあのリューリュとかいうカスがいるのを忘れちゃだめだぞ」
「呪力が発生してるんだ!」
ぴく、とイルクの腕が止まる。
「あの枯れ枝みたいな遺物から呪力が漏れてる! それとイルゲルムの心臓が、源流能力か何かで融合されそうになってる! 止めなきゃ…………」
ふと気になってイルクの方へ振り返る。
修羅の表情だった。
目が大きく開かれ、眉間には深い皺。顔が赤く染まり、口は噛み締められたまま。だが、口の端は歪み、歯茎が見えるほど吊り上がっていた。
「まさか……」
「<獣涜の儀式>か?」
低い、イルクの声が響いた。
背筋も凍りそうなほど、殺気の乗った声だった。
※※※
視界をイルゲルムの方へ戻す。
海の天幕に覆われた空洞の中。源流能力の昏い虹光が光源となり、ぼんやりと中を照らしていた。
「アルフェウスを……復活させるため……では、なかったのか……。
貴様の……組織は……。<アリウスの梯子>の教祖は、それを願っていたはず……」
イルゲルムが血でかすれた声の中で問いかけていた。
「はあ? アルフェウスの復活ぅ?」
リューリュは嘲るようにイルゲルムに視線を向ける。
「馬鹿じゃないですかぁ?
あんな人類の極点みたいな存在が蘇って喜ぶのなんて、<アリウスの梯子>ではアレイオス猊下だけですよぉ。
ミーの目的は、最初から一つ」
さらに強く、イルゲルムの心臓に呪力が練り込まれる。
「迷宮都市国家の滅亡。リーリエ・アモンへの。敬愛するわが師の解放と復讐ですよ」
低く、粘度のある声があたりに満ちる。
「この国は師を縛り付けている。あれほどの頂点が一国に縛られているなんてありえない。
だから才あるミー達を処分しようとしたんです。国に縛られているからこうなった。
国に縛られていなければ、あの御人が弟子であるミー達を謀反なんてくだらない罪で殺そうとするはずがない」
甘く、腐ったような声がリューリュの腹の奥から漏れ出ている。
「だから滅ぼすんです。消し去るんです。
この国がなくなれば、あの忌まわしい<銀蛇卿>からの干渉もなくなる。師匠は、自由になるべきなんだ」
リューリュは笑みを浮かべ、融合を加速させる。
「だから、その贄となってくださぁい。イルゲルム閣下ぁ。
二千年前、真霊のまき散らした呪力を飲み干したアルフェウスの遺骸と共に、師匠の道となってくださいよぉ。だって」
にやりとリューリュは笑った。
「二千年前の敗残兵たちには、お似合いでしょぉ?」
「貴様――」
イルゲルムの心臓が、漆黒に染まった。
リューリュの腕を巻き込み、暗黒の渦となる。海が腐り、大気が穢れ、渦中のすべてが死に絶えていく。
「ああ、師匠ぉ! いま、いまから、いまここで! ユーを、あなたの役目を穢し、人類の守護者から解き放ちましょう!」
世界のすべてが、汚染されていく。
「それではエディンくん」
腐り崩れ、汚臭を放ちながらリューリュはこちらを見る。
ランプが怪しく輝き、鉄のはずのそれもまた、泥の中に溶けていく。
狂った笑みのまま、崩れる体を使って一礼し。
「お先に」
暗黒の汚泥の中に溶け消えた。
※※※
世界が真紅に染まった。
空も海も、大地さえも赤一色に染まっていった。
ただ一つ、海の壁だけが黒い汚泥となっていた。
過日の屍の腹のように膨らんだ壁は、腐った風を噴出させている。海の退魔の力でもってなんとか防いでいた蛆の風が、海の中で膨らんでいき。
弾ける。
「……っ!」
腐敗が海に咲いた。
次元に亀裂が入り、裂ける。
空には、天の門が開いていた。穴にしか見えないが、それは確かに門であった。
「……ぐ、う…………!」
放たれる暴力的な瘴気。
魔力で身体を覆うが、張った側から矢継ぎ早に魔力が腐っていく。
腐敗したそれをあふれんばかりの魔力で押し出し、瘴気に触れないように放出し続ける。
「野郎……やりやがった」
イルクが顔を真っ青に、視線を門へと向けていた。
「迷宮を作る工程を、あの野郎は意図的に破綻させやがった。迷宮に封じるはずの真霊を、門から直接吐き出させるために!」
冷たい汗が背筋に滲む。
リモルさんから供給されている魔力がなければ、確実に即死だった。
空中に空けられた天の穴から、腐った液体がこぼれてくる。
海に触れた途端、泥は形を取る。
目だけの怪物。
縦の口を持つ蠢く花。嗤う手肉。胞子まみれの腐った龍。
名状しがたき化け物の群れが地に生まれ、満ちていく。
嗤いながら、それらは進軍を開始した。
「まずいことになった……。
<獣涜の儀式>が、失敗した……! 呼び水で、門まで開けやがったのか!」
イルクの顔色が悪くなっていく。
隣にいるだけで、彼の心臓が早鐘を打つのがわかるほどだ。
「<獣涜の儀式>って……?」
「……迷宮を作り出す、最悪の儀式だ」
イルクが苦苦しい面持ちで語る。
「迷宮は、危険な生物や神格を封殺するための機構。
それを逆手に、危険な生物や邪神を人為的に創りだし、迷宮から産出するための資源に変える。
それが、<獣涜の儀式>」
生唾を飲み込みながら、イルクは語る。
「…………もちろん、失敗すればただじゃ済まない。
大規模な瘴気災害。強烈な魔物の百鬼夜行。だが、今回はそれだけじゃない」
イルクは天の穴を見ながら、眉間にしわを寄せて語る。
「真霊――。歪界に封じられた邪神どもが、現世に降臨しやがった」
視線の先には、名状しがたき化身の群れがまっすぐ【出雲】に向かっていた。
緊急事態となれば、もう何かを待ってる余裕はない。
先手必勝。イルクが説明してくれている裏で<紅蓮砲殲火>の魔力を練り、魔法をぶっぱなす――。
「あれ?」
魔法が不発に終わった。
浮き出るはずの爆炎の砲撃が、完全に使えなくなっていた。
<生命賛歌>の魔法も、全く機能していない。
……そうか! この異常な瘴気で、魔法法則との接触が汚染され、繋がらなくなったのか。
瘴気を払えるのは<荒神祭>の退魔の雨。あれなら瘴気を祓えるはず……!
『あははははっ!無駄無駄! 無為なんですよ! 無意味なんですよぉ!』
リューリュの不快な声が響く。
堕ちた邪神の一角。顔のない白いナマズに、やつの顔が浮かんだ。
『もう、<荒神祭>なんかできませぇん!
空を見てくださぁい! きれいな晴れでしょぉ? 辛うじて雲を維持していた護摩壇が、余波で消えたからぁ!
頼みの魔法も使えませぇん! ユーたちにできることなんか、もうないんですよぉ!』
……………………!
掌に、爪が食い込む。法力なら、《蒼霆》ならあいつらの防御を正面からぶち抜けるのか?
いや、倒せはする。むしろ特効があるといっていい。だけど、数が多すぎる。
一柱仕留めている間に、百柱降臨する調子。焼け石に水にすらならない。
『エディンくん。こちらはログマ君とコレトー氏を連れて、アイテールに撤退する。
魔力線はつないでおく。ここはもうだめだ。貴公も早く撤退したたまえ』
魔力線からリモルさんの声が聞こえた。
海にはもう、リモルさんの姿はない。武士たちも海浜に撤退していた。
<神鉄結界>は、いまも維持されたままだ。
瘴気の余波が市街地には届いていないのは、残った結界のおかげ。
リーリエさんも動けない。頼りになる【魔神】も撤退した。
後ろに巨大な赤い戦艦が空に浮かんでいた。
「エディン。リリアちゃんは回収した。はやく、【赤戦神艦】に退避するぞ」
「でも、それじゃ……」
「もう、この国は無理だ。俺らじゃ、どうしようもない」
イルクが強引に僕の手を引き、艦へと戻そうとしてくる。
もう、手がないのか。あいつに、リューリュに負けたままなのか。
イルゲルムは。あの栄誉ある戦士は、僕の獲物は逃したままなのか。
「いいや?」
傲岸不遜な声が響いた。
海浜から。かき分けて出てきたのは、モノクルをかけた少年。
石上モーリス。いや、違う。この魔力反応は……!
「どんでん返しは、ここからだろ」
迷宮都市国家が誇る最強の冒険者。
リーリエ・アモンその人が、モーリス君の身体に憑依していた。
※※※
時は遡り、【出雲】内部。
<神鉄結界>を維持するリーリエのそばに、彼の弟子たるモーリスの姿があった。
「おい、モーリス」
リーリエが刀印を組み、眼を閉じて集中しながらモーリスに語り掛けた。
「出番ですか」
モーリスはリーリエの方を向いた。
彼の手には念珠。モノクルを指で持ち上げ、茶髪の少年は己が師に跪く。
「ああ。修行の成果を見せる時だ」
「はい」
モーリスは大きく息を吸った。
意識を底へ。懐から符を取り出し、魔力で符を焼き切る。
陰陽道とは即ち、魔導具術。魔導具を効率的に使い、性能を極端に引き上げるもの。
魔導具とは魔力が通い、特殊な術を発揮しうるもの。
肉体とは魔力経絡が通い、魔法を扱う器。
では、どこからが魔導具なのか。
どこからが肉体なのか。
「<存思>」
その答えを今、モーリスが飛び越える。
肉体に刻まれた魔力経絡が光り輝く。
魔力経絡を通して精神を過ぎ、魔力の源流へ。
霊魂からあふれ出る強固なエネルギー体。気魄へと干渉する。
気魄が分解され、膨大な魔力がモーリスの身体に宿った。
<存思>。またの名を、魔力回復術。
すべての魔力は気魄から生まれるもの。魔力が足らぬならば、より強い魔力を欲するならば、気魄をばらせばいい。
代償は、魂の希薄化。
使いすぎれば魂が弱まり、自我が希薄化する。
モーリスの身体がふらついた。
四年といえど、彼の霊魂そのものは凡庸。一度の使用で、霊魂という器そのものに、大きな隙間が生まれる。
ゆえに――。
「<生霊降臨>」
「<鴉門凛々絵>」
生霊を降ろす術を使うには、都合がよい。
念珠が淡く光った。
モーリスの魂に、念珠に封じられていたリーリエの分霊が降りる。
瞳の色が変わる。淡い水色であった彼の瞳が、リーリエの持つ濃い緑へ。
生真面目な一文字で結ばれた彼の唇は、強者ゆえの余裕に満ちたものに変わった。
「――ん。及第点。ここまでよく頑張ったな、モーリス」
手を翳し、モーリス……。リーリエは肩を軽く回し、<神鉄結界>を維持する本体に振り返る。
「じゃ、任せたよ。此。こっちは手始めに」
少年は不敵に笑い、<神鉄結界>の外へと足を進める。
「運命をねじ伏せにいってくるわ」




