第08話 青銀の翼との決別と、100万円の札束
ダンジョン協会での覚醒者登録と実技試験を圧倒的な内容でパスし、正式な手続きを終えたドレイクと結羽。
公式な身分証明となる真新しい探索者ライセンスカードを受け取った結羽は、初夏の眩しい日差しが照りつける協会のエントランス前で、大きく背伸びをした。
「これで、おやっさんも立派な探索者ですね」
「やれやれ。たかが紙切れ一枚もらうために、随分と手間をかけさせられたぜ」
ドレイクは渡されたカードをジャージのポケットに無造作に突っ込み、首に巻いたタオルで額の汗を拭った。
彼らが次に向かったのは、結羽が昨日まで所属していた大手民間ギルド『青銀の翼』の野田支部オフィスだった。
野田市の駅前一等地にそびえ立つ、ガラス張りの近代的なビル。
道行く人々がその煌びやかな外観を見上げる中、結羽の足取りは、ビルのエントランスに近づくにつれてほんの少しだけ重くなった。
かつての結羽は、この華やかな建物の表側を歩くことは許されていなかった。
裏口から入り、空調も効いていない薄暗い倉庫で、誰からも評価されない荷物整理や、先輩探索者たちが使い古した汚れた防具のメンテナンスといった雑用ばかりを押し付けられていたのだ。
万年レベル1の『ハズレ枠』。
そのレッテルが、条件反射のように彼女の肩を少しだけこわばらせた。
だが、今の彼女は一人ではなかった。
彼女のすぐ隣には、隠形を展開することなく、堂々とジャージ姿で腕を組んで歩く巨漢――ドレイクが付き従っていた。
「どうした、結羽。足が止まってるぞ」
「あ……いえ。なんでもないです」
結羽は小さく深呼吸をして、自分の頬を両手でパチンと叩いた。
もう、あの頃の怯えただけの自分ではない。
自分の力でボス素材を解体し、大金を手に入れ、妹の命を繋いだのだ。
結羽は真っ直ぐに前を向き、自動ドアを抜けて大理石の敷き詰められたロビーへと足を踏み入れた。
通されたのは、無機質で冷たい印象を与えるガラス張りの応接室だった。
やがて、分厚い書類の束を手にした、神経質そうな細身の事務局員の男が部屋に入ってきた。
彼は結羽の顔を見るなり、露骨に嫌そうな顔をして、小さくため息を漏らしながら向かいの椅子に腰を下ろした。
「……前山田結羽。生きていたのか。昨日のモンスターパレードに遭遇した部隊から、君が逃げ遅れたという報告は受けていたがね」
「はい。自力で生還しました」
結羽は表情を変えず、淡々と答えた。
「君を置き去りにしたことについては、部隊の壊滅を避けるための緊急判断として、ギルド側は正当なものだと認識している。ダンジョン離脱後に即時報告も行い、救助隊の編成を試みた実績がある以上、それは探索者という自己責任の職業において、仕方のない判断だったと言えるだろう」
事務局員は、手元の書類に目を落としたまま、淀みなく事務的な説明を並べ立てた。
その言葉を聞いても、結羽の心は全く波立たなかった。
怒りや悲しみよりも、「ああ、この人たちはこういう生き物なのだ」という冷めた感情しかなかった。
彼らは決して純粋な悪党ではない。
ただ、命を数字とコストで計算し、切り捨てることを合理的な正義だと信じているだけなのだ。
「……ええ。わかっています。それで、脱退の申請についてですが」
結羽が冷静に切り出すと、事務局員は一枚の書類をテーブルに滑らせた。
そして、結羽の背後に立つドレイクを胡散臭そうに一瞥した。
「……その後ろのガラの悪い男はなんだ? 保護者のつもりか?」
「わたしの、新しいバディです」
結羽が胸を張って答えると、事務局員は鼻で短く笑った。
「そうか。まあいい、君は当ギルドの『育成枠』としての契約期間中だ。規定により、契約残存期間に応じた違約金、およびこれまでの育成費用の返還、さらに支給していた装備の損料として……しめて100万円を支払ってもらう必要がある」
100万円。
昨日までの結羽であれば、一生かかっても払えないような絶望的な金額だ。
だが、これも不当なぼったくりや悪意による請求ではない。
育成枠で所属した探索者が、利益を出す前にギルドを抜ける際に発生する、ダンジョン業界におけるごく標準的な契約ペナルティだった。
「……気の毒だが、これは組織の規約だ。返済の義務がある。なんとかできるのかね?」
事務局員は、探るような目で結羽を見た。
そして、少しだけ声を潜め、いかにも親身になっているかのような恩着せがましい口調で続けた。
「……もし払えないというのであれば、今はまだ下積みでも、我々のもとで探索者を続けた方がいいんじゃないか? 君の妹さんの入院費もかかっているのだろう。ギルドに残り、地道に続ける、それが君にとっても現実的な選択だと思うがね」
その言葉は、善意の皮を被った呪縛だ。
だが、今の結羽にとって、それはもはや何の意味も持たない虚勢でしかなかった。
「お気遣いありがとうございます。……ですが、こちら、全額お支払いします」
結羽は自身の足元に置いたリュックを開け、分厚い紙幣の束を取り出した。
買い取り店で黒田から入金された1000万円の一部を現金化していたのだ。
結羽は震えることのない手で、100万円の札束をテーブルの上にトン、と置いた。
その鈍い音が、無機質な応接室に響き渡る。
「なっ……!?」
事務局員は目を見開き、札束と結羽の顔を交互に見比べた。
万年レベル1の、お荷物扱いだった小間使いの少女。
彼女がこんな大金を持っているはずがない。
その事実が、彼のちっぽけな常識と計算を完全にショートさせていた。
「これで、違約金と育成費用の全額です。手続きをお願いします」
結羽の真っ直ぐで冷ややかな視線に、事務局員は狼狽を隠しきれなかった。
「……ほ、ほう。どこでこれほどの現金を?」
事務局員が疑わしげに尋ねると、結羽の背後に立っていたドレイクが、ゆっくりと一歩前に出た。
「俺たちが迷宮で稼いだ、正当な対価だ。……何か文句があるか?」
ドレイクの炎金の瞳が、静かに、しかし絶対的な圧力で事務局員を射抜く。
ズンッ……!!
ほんのわずかに漏れ出した神話の火龍の気配。
それだけで、応接室の空気が物理的な重さを持ち、事務局員の男は息を詰まらせてソファに背中を押し付けた。
「ひっ……い、いえ……文句など、何も……」
事務局員は滝のような冷や汗を流しながら、札束を引き寄せ、震える手で手続きの完了印を押した。
「これまでお世話になりました」
結羽は深く一度だけ頭を下げると、首から提げていたギルドの認識票を外してテーブルに置き、振り返ることなく、迷いのない足取りでその場を後にした。
出がけに、担当者の男が負け惜しみのように「せいぜい生き延びることだな」と背中に投げかけたが、ドレイクが冷たい視線で殺気を送り威嚇すると、男は完全に腰を抜かして沈黙した。
ギルドのビルを出た結羽は、初夏の青空を見上げて、大きく深呼吸をした。
胸の中にずっと居座っていた、重たく冷たいしこりが、すっと消えていくのを感じる。
「……終わりました」
「おう。ずいぶんとあっさりした別れだったじゃねえか。もう少し、あいつらの顔面に一発くらいお見舞いしてやってもよかったんだぞ?」
ドレイクが、面白そうに問いかける。
「はい。……怒りとか、復讐してやるとか、そういうのはあんまりないんです。ただ、自分の実力不足だったなって。……でも、これでもう、誰の足手まといにもなりません。わたしは、わたしの足で歩きます」
しがらみを完全に断ち切り、自由を手に入れた少女。
過去の清算は終わり、彼女は妹の待つ場所へと歩みを進めた。




