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第75話 深淵の門番と、命への礼儀

 野田ダンジョンの最下層――かつての孵化室のさらに奥底に隠蔽されていた、重厚なゲート。


 未知の、濁った銀色の合金板で縁取られたその巨大な扉を、ドレイクが分厚い両手をかけてゆっくりと押し開けた。


 ズゴゴゴゴォォォォン……ッ!


 地響きのような重低音と共に、どれほど長い間閉ざされていたかわからない空間が、ついによろず屋パーティーの前にその全貌を現した。


「ここから先は、いよいよアストライアの『ゴミ捨て場』の本丸だ。未知のシステムや理不尽な防衛機構が山ほど待ち構えてるはずだ。気ぃ抜くなよ」


 先頭に立つドレイクが、口にくわえたタバコの煙を細く吐き出しながら告げた。


 その言葉に、結羽、ふゆ、そして彩斗美の三人が力強く頷き、暗いゲートの向こう側へと足を踏み入れた。


「なに、ここ……」


 ゲートを越えた瞬間、結羽は思わず息を呑んで立ち尽くした。


 そこは、果てしなく広がる巨大な『すり鉢状(逆円錐状)』の超巨大地下空間だった。


 まるで、世界を丸ごと飲み込むために作られた巨大な砂時計の半分。


 その空間のスケールは、これまで潜ってきた野田ダンジョンのどの階層とも比較にならない。


 見渡す限りの壁面に沿って、果てしなく下へと続く螺旋状の足場が作られており、幾何学的な魔力回路と、高層ビルほどもある超巨大な搬入パイプの残骸が、すべて『一番底』に向けて集束するように伸びている。


 さらに、そのすり鉢の壁面には、信じられないものが無数に突き刺さっていた。


 大断裂の時代にアストライアの大地から墜落してきたと思われる、全長数百メートルに及ぶ鋼鉄の戦艦の残骸。


 神話に登場するような巨大な水棲魔獣の、完全に風化した真っ白な骨格化石。


 高層建築物の残骸のような石柱群。


 地球の歴史上には絶対に存在し得ない、オーバーテクノロジーの遺構と神話の墓標が、この空間の異常なスケール感を物語っていた。


「うわあ……」


 結羽は螺旋状の足場の端まで歩み寄り、恐る恐るすり鉢の『底』を覗き込んだ。


 その瞬間、ゾワリと全身の産毛が逆立った。


 ただ高い場所から下を見下ろした時の、純粋な高所恐怖症による恐怖ではない。


 足元から、文字通り見えない強烈な力で『底の中央へ引き摺り込まれる』ような、異様な感覚に襲われたのだ。


 三半規管が狂い、自分の身体の重心が勝手に前へと傾き、今にも真っ逆さまに落ちてしまいそうになる。


 平衡感覚そのものに、直接的な狂いが生じている。


「……なんか、覗き込むと引っ張られちゃうような錯覚がありますね……」


 慌てて重心を後ろに戻し、一歩後ずさった結羽の言葉に、ドレイクが厳しい声で応えた。


「錯覚じゃねえぞ。気をつけろ結羽。絶対に身を乗り出すな」


「えっ?」


「ミアズマの汚染もそうだが、あの底に廃棄されている大量の兵器から染み出した魔素で、この空間自体の『魔素重量』が完全に歪んでやがるからな。……重力が、底の中央に向かって異常な引力を持っていやがるんだ」


 ドレイクの言葉に、彩斗美もハッと息を呑んで自身の足元を確認した。


 言われてみれば、確かに自らの体重が地球の重力とは違うベクトルで、斜め下へと強く引っ張られている感覚がある。


 元SSランクの研ぎ澄まされた感覚をもってしても、気を抜けばただ立っているだけで平衡感覚が狂わされそうになるほどの重力異常だった。


 これは、ただのダンジョンのギミックなどではない。


 そこに置かれている物質の質量と魔力が強大すぎるがゆえに、空間そのものが物理的に歪んでしまっているのだ。


「階層によって環境が変わるダンジョンでの基本でもあるけれど、もっと強い魔力を身体中にしっかり巡らせて、身体の芯に重心を整えておかないと危険ね……」


 彩斗美が、かつてのトップ探索者としての経験から、即座に結羽とふゆにアドバイスを送る。


「はいッ! 仙気を、丹田に……!」


 結羽は彩斗美の言葉に従い、深く息を吸い込んだ。


 へそ下の丹田に莫大な仙気を集め、それを背骨に沿って全身の経絡へと勢いよく循環させる。


 仙気による内圧が高まることで、外から内臓を押さえつけてこようとする異常な魔素の重圧を物理的に弾き返すのだ。


 さらに、足の裏に『面』の歩法と同じ高密度の気の膜を張り、歪んだ重力に足を取られないよう、自らの重心を地球の引力に対して垂直に固定し直した。


 ふゆもまた、黄龍のサポートを受けながら、自身の魔力回路をフル回転させて環境の負荷に抗っている。


「……よし。さすがに適応が早いな。行くぞ」


 ドレイクを先頭に、よろず屋パーティーは逆円錐状の巨大サイロを、円周に沿って作られた螺旋状の足場を使って慎重に下り始めた。


 下へ降りれば降りるほど、その環境は劣悪さを極めていく。


 魔素重量による、内臓が無理やり下へ引っ張り出されるような重圧はさらに増し、足元の金属板は長年の瘴気によって変質し、まるで底なし沼のようにぐちゃぐちゃになっていた。


 仙気で足裏をコーティングしていてもなお、一歩足を踏み出すたびに泥に吸われるように足が重くなり、通常の数倍の体力を奪っていく。


 そして、底の『宝の山』が肉眼ではっきりと見える距離まで降りてきた時。


 結羽は、自らの身体に起きている『重圧以外の異変』に気づき、口元を押さえた。


「……なんか、軽い吐き気に近いような感じがありますね……」


 ただの疲労ではない。


 胃の腑の底から競り上がってくるような、どす黒く、生々しい生理的な嫌悪感だった。


「それだけじゃないわ。精神が無意識に闘争にかき立てられるような不快感があるわ」


 彩斗美が、眉間を深く寄せて蛇腹剣の柄を強く握りしめる。


 百戦錬磨の彼女でさえ、今の自分は無性に何かに斬りかかりたくなるような、不自然な苛立ちと攻撃衝動に駆られていた。


「うん、あんまり強いものじゃないけれど、精神汚染があるね」


 最後尾でUIゴーグルを展開していたふゆが、冷静に大気中の成分と魔力波形を分析して同意した。


「お姉ちゃん、彩斗美さん。底に積まれているあの兵器の山を見て」


 ふゆの言葉に促され、結羽たちがすり鉢の底を凝視する。


 そこには、濁った銀色の光を放つ未知の合金装甲や、巨大な剣、魔導銃のようなものが、文字通り『山』のようにうず高く積まれていた。


 だが、それはただの無機質な兵器の残骸ではなかった。


 剣の柄の根本や、銃の機関部。


 至る所に、まるで呪いの血液を循環させる心臓のような、ガラス管の『シリンダー』が組み込まれているのだ。


 そのシリンダーの中には、緑色の養液と思われる中になにかが封じ込められており、まるで生き物のようにドクン、ドクンと赤黒く脈動している。


 弾頭や刀身には禍々しい魔術回路が人間の静脈のように彫り込まれ、毒々しい光を放っていた。


 周囲の岩盤は、漏れ出した猛毒と悪意によってドス黒く変色し、完全に死の大地と化している。


「これらはすべて、大断裂の時代に『光華王朝』と『スヴァトゴーラ』が互いにぶつけ合った、大量破壊兵器の廃棄物だ。……それも、ただ物理的に破壊するだけの兵器じゃねえ」


 ドレイクは、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。


「奴らが狙ったのは、最前線の兵士だけじゃねえ。呪いで戦場に出ていない『その縁者』にまで病や死を蔓延させて国力を削ぐこと。つまり、呪殺による民族浄化だ。あのシリンダーの中で脈動してやがるのは、相手を根絶やしにするためだけに練り上げられた、純粋な悪意の結晶さ」


「民族、浄化……。じゃあ、この吐き気と攻撃衝動は……」


 結羽の顔から、スッと血の気が引いた。


 戦争という名目で、無辜の民までをも巻き込むために作られた怨念。


 それが数千年の時を超えて瘴気となり、周囲の空間そのものを精神汚染の領域へと変異させているのだ。


『……さらに悪質なのは、土地の汚染です』


 黄龍が、ドレイクの言葉を引き継ぐように静かに念話を響かせた。


『実効支配の手間を省くため、このミアズマのシリンダーを起爆させ、敵国の領土を人間が住めない不毛の汚染地帯へと変える。難民を大量に発生させ、国家機能を内側から崩壊させるのです。……彼らには「後で高位の魔法使いに浄化・回復させればいい」という、魔法文明特有の傲慢な前提がありました』


 自分たちが汚しても、後で魔法で綺麗にすればいい。


 その人間の底知れない傲慢さが、際限のない呪いの兵器開発を生み、最終的に創造神の逆鱗に触れ、大陸を割る『大断裂』を引き起こしたのだ。


「そんな……。じゃあ、トップギルドが血眼になって探してる『古代遺物』って……」


「ああ。高性能な魔導具程度ならいいが、連中がこの呪いのシリンダーが装填された厄ダネを引き当てることもあるだろうよ」


 ドレイクが忌々しげにタバコの紫煙を吐き出し、重力異常の底へと冷たい視線を落とした。


「連中は、安全装置の扱い方も知らねえまま、この星を汚染する爆弾を掘り起こそうとしていやがるんだ。……だから俺たちが、連中の手に渡る前に、この厄ダネを全部綺麗に掃除してやらなきゃならねえ。それが、よろず屋の仕事だ」


「はいっ!」


 結羽は、重圧と吐き気に耐えながら、ドレイクの言葉に強く頷いた。


 ここは宝の山などではない。


 地球という星の命運を握る、最悪な環境破壊兵器の最終処分場だ。


 そして、自分たちの両親は、このおぞましい兵器の山のさらに奥へと消えたのだ。


 その真実を魂に刻み込んだよろず屋パーティーは、魔素重量の歪みに足を取られないよう慎重に重心を保ちながら、螺旋状の足場をサイロの底へ向けてさらに下り始めた。


 だが、その重圧渦巻く螺旋の足場の途中に、『それ』は立っていた。


「……来ます」


 結羽が如意棍棒を構えて、足を止めた。


 前方から現れたのは、かつて大戦で用いられたであろうボロボロの長剣を握りしめ、未知の合金装甲を全身に癒着させた『重装ワーウルフ』――人型の生体兵器だった。


 眼窩には無機質な赤い魔力の光だけが宿り、完全な殺戮マシーンとして結羽の行く手を阻む。


「いいか結羽、ここから先は野生の魔獣じゃねえ。武器を持ち、軍事データで動く『兵士』だ」


 ドレイクが後方から声をかける。


「相手の武器のリーチ、重心の移動、そして『理』を見極めろ。……全部受け切ってこい!」


「はいッ!」


 結羽は過酷な重力異常の中、精神汚染の吐き気を仙気でねじ伏せ、新たな次元の闘いへと踏み出した。


「シィィィッ!」


 生体兵器が、地を蹴って一直線に跳躍した。


 無機質な赤い眼光と共に、鋭い長剣が上段から結羽の頭蓋めがけて真っ直ぐに振り下ろされる。


 結羽は異常な重力に耐えながら、『面』の歩法で足場の泥濘を滑り、剣の軌道を紙一重で躱そうとした。


 だが、その瞬間。


「結羽! 気をつけて!」


 後方で戦況を見守っていた彩斗美から、コマンダーとしての鋭い警告が飛んだ。


「こいつらの剣の軌道、ただ力任せに振り回す野生の獣じゃないわ! プログラムされた機械ゴーレムとも違う……明確な『型』と『武術体系』が備わっている。相手が長剣を持っている場合、手首の返しによる『円の軌道』を計算に入れないとダメよ!」


 彩斗美の指摘通り、生体兵器の長剣は空を切った直後、手首のスナップを利かせて不自然なほど鋭角に軌道を変え、結羽の胴体めがけて下段から切り上げてきた。


 野生の魔獣には絶対に不可能な、重力と慣性を利用した洗練された二段斬り。


「くっ……!」


 結羽は咄嗟に銀色の如意棍棒を盾にしてギリギリで斬撃を受け流し、けたたましい火花を散らす。


 その高度な剣閃に、彩斗美は息を呑んだ。


「ただのモンスターじゃない……! 完全に訓練された剣士の動きよ……!」


『彩斗美殿の慧眼、お見事です』


 ふゆのスマートフォンから、黄龍のジェントルな声が響いた。


『私のデータバンクと照合した結果、あの動きはアストライアの大戦期に光華王朝で用いられていた、御林軍用剣術のパターンと完全に一致しました。……野生の魔獣ではなく、明確な文化と文明が背後にある証左ですな』


「つまり、ここの深淵はただのゴミ捨て場ってだけじゃなく、光華王朝の軍事技術が背景にある施設の残骸ってことだ」


 ドレイクがタバコを吹かしながら、忌々しげに結論づける。


「ただ倒すだけじゃねえ。対武器戦の実地訓練だ! 結羽、しっかり理を見極めて解体していくぞ!」


「はいッ!!」


 結羽は、弾かれた衝撃をそのまま利用し、相手の長剣の『死角』となる懐へ滑り込むように飛び込んだ。


「はぁッ!」


 如意棍棒の石突きを、相手の膝関節の裏――装甲の隙間めがけて的確に打ち砕く。


 ガキィィッ!


 体勢を崩した生体兵器の延髄めがけて、容赦のない旋風撃を振り下ろし、ついにその動きを止めた。


「ハァッ……ハァッ……」


 たった一体を倒しただけだが、異常な重力と環境のせいで、結羽の息はすでに上がっていた。


 ドスン、と音を立てて、受肉体であったワーウルフの亡骸が足場に転がる。


 いつもなら、すぐに解体用ナイフを取り出して剥ぎ取りを始める結羽だったが、今の彼女はナイフを握ったまま、その場に立ち尽くしていた。


 斃れた魔獣の残骸と自分のナイフを見比べ、躊躇している。


「……おやっさん。このワーウルフ、これまでの野田ダンジョンの魔獣とは全然違いました」


 結羽は、自らのナイフを見つめながら、ぽつりと呟いた。


「すごく『人間』に近い動きというか……明確な武術を使って、兵士として立ち塞がってきた相手です。……これをただの『お肉』として解体して食べるのは、わたし、ちょっと……」


 結羽の口から漏れたのは、ごく真っ当な人間としての忌避感だった。


 どれだけダンジョンの理に染まり、同位同食を受け入れてきた彼女であっても、知性と文明を感じさせる『人間のような相手』を食肉として捌くことには、どうしても生理的な抵抗があったのだ。


 その結羽の真っ直ぐな迷いを聞いて、ドレイクは満足げに、そして優しく鼻を鳴らした。


「……安心しろ、結羽。こんな淀んだ場所で獲れたもんを食う必要はねえ。ミアズマに汚染されすぎた受肉体を浄化するのも手間だしな」


「えっ……?」


 ドレイクは、背負っていた巨大な空間収納袋(マジックバッグ)から、丁寧に包まれた巨大なタッパーを取り出した。


「こういう時のために、極上の『弁当(ストック)』を持参してんだ。(ミノタウロス)肉も(ボア)肉も亀肉も蛇肉もトカゲ肉も、なんでもござれだ。特製のタレでがつがつ喰ってもらうぞ。黒田に頼んだ野菜もある。今日の飯は、極上のミックス焼肉食べ放題だぜ」


「わぁっ……!」


 その言葉に、結羽の顔がパァッと明るくなる。


「ああ。……だがな、結羽」


 ドレイクはそこで言葉を区切り、黄金の龍眼で静かに、けれど厳格に弟子を見据えた。


「斃してお終いってわけにゃいかないのが、冒険者稼業だ。食肉にするしないはともかく、剥ぎ取りとドロップ品の回収は忘れるな。それは生体兵器だろうが仮初のもんだろうが"命"を奪ったもんと奪われたもんの義理であり礼節だ。わかるな?」


 その言葉の重みに、結羽の背筋がピンと伸びた。


 どんなに異質で、狂ったシステムに作られた存在であっても、たった今、自分と命のやり取りをした相手なのだ。


 それをただのゴミとして打ち捨てるのは、戦士として、そして解体を誇りとしてきた『よろず屋』としての矜持に反する。


 食べないからといって、敬意を忘れていいわけではないのだ。


「……はいっ!」


 結羽は深く頷き、迷いの消えた手つきで解体用ナイフを握り直した。


 彼女はワーウルフの残骸の前にしゃがみ込み、その命の痕跡を確かめるように、一つ一つ丁寧にドロップ品を回収していく。


 それは、ただのアイテム収集ではない。


 結羽という一人の人間が、異世界の理不尽なシステムと直面してもなお、自分自身の人間性と「よろず屋の理」を失わないための、厳粛な儀式だった。


「よし。回収が終わったら、少し戻って魔力波形の安定した空間でベースキャンプを張るぞ」


 ドレイクがタバコを吹かしながら、頼もしく宣言する。


「はいっ! おやっさん、焼肉楽しみです!」


 結羽の元気な声が、深淵の重苦しい空気を少しだけ明るく照らした。

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