第71話 決戦前夜の静寂と、後方支援の矜持
群馬県・赤城山ダンジョン。
監視・封印級という超高難易度に指定されたその迷宮の、上層と中層を隔てる広大な安全地帯。
そこには現在、およそダンジョンの中とは思えない、異様にして壮観な光景が広がっていた。
佐修院家が莫大な資本と権力、そして数十台のトラックを駆使して運び込んだ、組み立て式の堅牢なプレハブ施設群。
周囲には、アストライアの遺物である『魔導キューブ』を応用したドレイク特製の防護結界が幾重にも張られ、赤城山特有の肌を焼くような猛毒の瘴気を完全に遮断している。
煌々と魔導ランタンが照らすそのベースキャンプは、さながら最前線に構築された難攻不落の城塞であった。
施設の周囲では、黒田が手配した一流の魔導医師(回復術士)たちや佐修院家の使用人たちが、いつでも結羽たちの治療や物資の補充を行えるよう、万全の態勢で待機を続けている。
なぜ、ダンジョンの最深部でもない「中層の手前」にこれほど強固なベースキャンプを築いたのか。
それは、ここから先――中層から下層、そして深淵へと至る全域が、神話級魔獣『ヒュドラ』とその眷属たちの完全な縄張り(テリトリー)となるからだ。
「……ふぅ」
プレハブ施設内に設けられた、清潔なシャワールームから出てきた結羽は、首にかけたタオルで濡れた髪を拭きながら、小さく息を吐き出した。
明日はついに、因縁の神話級魔獣が潜む死の領域へのアタックが始まる。
結羽は広々とした休憩スペースの革張りのソファに腰を下ろすと、膝の上に新しい相棒である漆黒の『如意棍棒』を静かに置いた。
さいたまと川崎で手に入れた最高純度のアダマンタイトとミスリル合金をベースに、ドレイクの神話級の鍛冶によって生まれ変わった万能の兇器。
その表面には、微かな仙気を流し込むだけで黄金に発光する、アストライアの光華文字――『意體同闘魂』の文字が刻まれ、そして魔術回路の刻印がびっしりと彫り込まれている。
結羽は、柔らかな布でその表面を優しく、丁寧に磨き上げていく。
金属の冷たい感触の中にも、ドレイクが込めた確かな熱と、己の仙気が馴染んでいく心地よい一体感があった。
「……結羽さん、念入りね」
ふと声がかかり、結羽が顔を上げると、同じく手入れ用の布を手にした彩斗美が歩み寄ってきた。
彼女の手には、ドレイクによって修復と魔改造が施されたかつての愛剣である大剣と、中衛指揮官用の蛇腹剣が握られている。
「あ、彩斗美先輩。はい。……この棍が、明日のわたしたちの命綱ですから。仙気の通り具合を、隅々まで確認しておきたくて」
結羽が微笑んで隣のスペースを空けると、彩斗美も静かにソファに腰を下ろし、自身の大剣の刃をゆっくりと拭い始めた。
「そうね。……私も、身体の動きと魔力の巡りは、今のところ完璧よ。ドレイク殿の作ってくれたこの大剣の『重量可変の魔術回路』のおかげで、全盛期以上の剣閃が放てるわ」
彩斗美は、磨き上げられた大剣の刀身に自身の顔を映した。
黒髪に一筋の金色のメッシュが残るその横顔には、かつて病室で酸素マスクに繋がれていた時の死の気配は微塵もない。
あるのは、過去のトラウマを自らの手でねじ伏せようとする、静かで強烈な闘志だけだ。
「結羽さん。……明日は、頼りにしているわ」
「はいッ! 彩斗美先輩の盾になって、絶対に道を作ります。先輩の指示があれば、わたしはどんな猛毒の中でも迷わず踏み込めますから。……一緒に、仇を討ちましょう」
言葉は少なくとも、二人の間には戦士としての確かな信頼と覚悟が交わされていた。
◆◆◆
一方、プレハブ施設の奥に設けられた、即席の『調合室』。
そこでは、むせ返るような薬品の匂いと、微かな魔力の明滅が絶え間なく続いていた。
「よし……これで、ヒュドラの『石化毒』を防ぐための特殊コーティング液は完成! 次は、もし傷口から結晶が入った時に、血液の結晶化を中和・融解する成分の抽出だね。温度をあと三度下げて」
白衣の代わりに、機能的な防護エプロンとゴーグルを身に纏ったふゆが、ピンセットとビーカーを器用に操りながら、額の汗を拭った。
『お見事です、ふゆ殿。抽出のタイミング、温度管理ともに完璧。私の演算シミュレーションと寸分違わぬ精度です。いや、それ以上かもしれませんな』
作業台の上で淡い金色の光を放つ黄龍の宝珠が、称賛の念話を飛ばす。
赤城山・中層以降の空間を支配しているのは、芦ノ湖の九頭竜のような、空気中に紛れて健康被害を起こす硫黄毒(火山ガス)ではない。
高位探索者の生還レポートによって『石化毒』とも呼ばれるそれは、ヒュドラやその眷属の体液が乾いた跡に、美しくも禍々しい結晶となってダンジョンの壁や床をビッシリと覆い尽くしている。
吸い込むのではなく、皮膚に触れたり、戦闘中の傷口から侵入したりすることで、血液そのものを結晶化させ、肉体を内側から破壊し、最終的に石像のように固めてしまうという、極めて物理的で理不尽な劇毒だ。
「ふゆ様、少しお休みになられてはいかがですか? もう何時間も、休憩なしで作業を続けられております。お身体に障りますぞ」
傍らで素材のすり潰し作業を手伝っていた黒田が、心配そうに声をかけた。
市場のすべてを買い占めたほどの膨大なポーションや触媒があるとはいえ、神話級の結晶毒を中和できる純度にまでそれらを精製・調合するには、緻密な計算と魔力操作が不可欠だ。
一流の魔導医師すら舌を巻くほどの複雑な調合を、黄龍のサポートがあるとはいえ、十歳の少女がたった一人で完璧にこなしているのだ。
その疲労と精神的負荷は計り知れないはずだった。
「ううん、大丈夫だよ黒田さん! これくらい、お姉ちゃんたちがいっつもダンジョンで泥だらけになってるのに比べたら、全然平気だもん」
ふゆはビーカーの中身を慎重に確認しながら、ニコッと笑った。
「わたしは、お姉ちゃんみたいに前線で魔獣を殴り飛ばすことはできないし、彩斗美さんみたいにカッコよく指揮を出すこともできない。おやっさんみたいに、無敵でもないから……」
ふゆは、完成した淡い緑色の『防護・融解シリンジ弾』を、一本一本、愛おしそうにミスリル製の専用ケースへと並べていく。
それらは、明日ヒュドラの死の領域を切り裂く、希望の弾丸だ。
「でも、これがあれば、みんなが毒を気にしないで、思いっきり戦えるでしょ? ……わたしも、『よろず屋パーティー』の一員だから。明日は絶対に、誰も石になんてさせないための完璧なサポートをするの」
その真っ直ぐで、健気な言葉に、黒田は思わず言葉を詰まらせた。
(……なんと、強いお心を持った少女か)
かつて、赤城山のヒュドラに挑んだ彩斗美のパーティーは、日本最高峰の精鋭たちだった。
だが、ヒュドラの理不尽な石化毒の前に、彼らは次々と命を落とし、彩斗美だけが生き地獄のような呪いを背負って帰還した。
その絶望の歴史を、この小さな少女は、自らの知恵と努力、そして家族への深い愛情で塗り替えようとしているのだ。
決して前線に立つことのない後方支援であっても、その誇りと覚悟は、特級探索者となんら変わらない。
黒田は、目頭が熱くなるのを堪えきれず、そっと目元をハンカチで拭った。
「……ふゆ様。あなた様のような方が後方で支えてくださること、彩斗美お嬢様の執事として、これほど心強いことはございません。どうか、彩斗美お嬢様と結羽様を……よろしくお願いいたします。そしてなにより、ふゆ様、貴女自身もどうかご無事でお戻りください」
黒田が深く、深々と頭を下げる。
「うんっ! 任せて、黒田さん! 彩斗美さんも、お姉ちゃんも、おやっさんだって守っちゃうんだからね!!」
ふゆが力強く頷いた、その時だった。
『……ふむ。我が師父も、随分と良い弟子を持ちましたね』
黄龍が、ふと、どこか人間臭い、優しげな声音で呟いた。
「え?」
「黄龍様?」
ふゆと黒田が不思議そうに宝珠を見つめる。
『いえ、こちらの話です。……かつて、世界が分断された世界で、全てに絶望し隠棲を選んだ師父が、なんの因果か召喚されたこの異世界で、背中を守ろうとする小さな仲間を得た。……それは、異邦人たる我々にとって、何よりの救いなのかもしれません』
黄龍の言葉の深い意味を、ふゆも黒田も完全には理解できなかった。
だが、その言葉の奥にある、ドレイクと、そしてよろず屋パーティーへの深い愛情と信頼だけは、確かに伝わってきた。
「……うん。わたしも、おやっさんに出会えて、本当によかったよ」
ふゆは黄龍の宝珠を優しく撫でると、再び調合の作業へと戻っていった。
◆◆◆
夜が、静かに更けていく。
結羽の棍の手入れが終わり、彩斗美の大剣が研ぎ澄まされ、ふゆの特製シリンジ弾がケースいっぱいに並べられた。
そして、プレハブ施設のさらに奥。
結界の境界線ギリギリの暗がりで。
一人、極上の酒を煽りながら、来るべき決戦に向けて己の『龍の気』を静かに練り上げていたドレイク。
「……明日は、てめぇらの『理』の集大成だ。存分に暴れてこい」
それぞれの夜の過ごし方が、それぞれの覚悟を確かなものへと形作っていく。
明日には神話級魔獣・九頭猛毒龍と相対することになるだろう。
完璧な準備と、強固な兵站、そして最強の絆を手に入れた『よろず屋パーティー』は、静かに、そして確かな闘志を胸に秘め、決戦の朝を迎えようとしていた。




