第67話 過保護な食客と、黒椅子の賢者
荒涼とした東の原野に『紅泉郷』を開いて数十年の月日が流れた。
ある日のこと、郷で育ち、俺が面倒を見ていた四人の若武者たち――チー・ダイ、フェイ・ガオ、ヤー・ダー、シャオ・イェが、外の世界で冒険者になりたいと言い出した。
紅泉郷という隠れ里で、俺の龍気や龍脈の加護を受けて育った彼らだ。
外の世界の凡庸な魔物や野盗など、もはや彼らの敵ではないだろう。
だが心配性の俺は、彼らの引率として旅に同行することにした。
道中の野営地で、魔法や力に頼り切った彼らの戦い方を見た俺は、プロレスの『理』を身体に叩き込んだ。
ダメージを逃がす受け身、相手の力を受け止める器としての覚悟、そして関節の可動域と力のベクトルを見極める技術。
彼らは、俺と月酔仙の知識を乾いた砂のように吸収していった。
やがて俺たちは、『毒蛇党』という無法者たちに支配された宿場町へと足を踏み入れた。
若武者たちは怒りに燃えて悪党どもに突撃し、順調に敵を蹴散らしていく。
だが、敵の軍師が俺をか弱き支援職だと勘違いし、煙幕を使って俺を孤立させようとした。
俺の身を案じた四人が慌てて敵の本拠地に駆けつけると、そこにはすでに敵を単独で壊滅させ、ボスの関節を極めたまま漆黒のパイプ椅子に座って酒を飲む俺の姿があった。
この一件を皮切りに、若武者四人衆の武勇伝はまたたく間に大陸東部へと広まった。
そして数年後、彼らは光華王朝の皇帝に召し出され、正式に将軍や軍師として出仕することが決まった。
紅泉郷の村人たちは大騒ぎで宴会を開き、俺も親鳥のように彼らの成長を喜んで極上の酒を浴びるほど飲んだ。
だが、宴の熱狂が冷めるにつれ、俺の胸の奥にはドス黒い不安が渦巻き始めていた。
(あいつら、都でちゃんとやっていけるのか……?)
心配で心配で、夜も眠れなくなった俺は、月酔仙の協力を仰ぎ、人化の術をコントロールし、深い皺が刻まれた白髭の老人『紅月仙』へと姿を変え、彼の食客として宮廷に身を寄せることにした。
どこへ行くにもドワーフに打たせた黒鋼のパイプ椅子を持ち歩き、そこに深く座って鋭い眼光を放っている俺のことを、宮廷の連中は畏敬の念を込めて『黒椅子の賢者』と呼ぶようになった。
新たに将軍や軍師として取り立てられた若武者たちを皇帝に拝謁させるお披露目の宴の日。
俺は皇帝の座所からもほど近い上座にマイチェアを置き、彼らの一挙手一投足を見守っていた。
極度の緊張からか、チー・ダイが御前で盛大に転びそうになったり、ヤー・ダーの声が裏返りそうになったりする絶体絶命の危機を、俺はテーブルの下で重力をミリ単位で操作し、なんとか無事に乗り切らせた。
お披露目の宴が終わり、月酔仙の屋敷の離れに戻った俺は、パイプ椅子の上でぐったりと首を垂れていた。
何万匹の魔物の群れを相手にするよりも、はるかに精神をすり減らす数時間だった。
火龍としての顔、冒険者『椅子持ちのヨシュア』としての顔、そしてここ宮廷での『黒椅子の賢者』としての顔。
トリプルライフとでも呼ぶべきこの慌ただしい日々は、長すぎる寿命を持て余していた俺にとって、これ以上ないほど充実した、黄金のような時間だった。
◆◆◆
それから数週間後の、ある夜更けのことだ。
俺は庭園の片隅にパイプ椅子を置き、紅泉郷から取り寄せた極上のウイスキーが入った杯を傾けていた。
静寂に包まれた屋敷に、微かな足音が近づいてくる。
振り返らなくとも、その規則正しい歩調と魔力の波長で誰かはすぐに分かった。
「……夜分に失礼いたします、紅月仙様。まだ起きておられましたか」
現れたのは、四人衆の中で最も理知的であり、今は月酔仙の直弟子として軍師の任に就いているシャオ・イェだった。
彼は俺の傍らまで進み出ると、恭しく頭を下げた。
「ああ。年寄りは夜が短くてな。お前さんも、随分とお疲れのようじゃねえか」
俺が老人特有の嗄れた声で作って尋ねると、シャオ・イェは疲労の色が濃い顔で微かに苦笑した。
「お恥ずかしい限りです。実は今日、チー・ダイの奴が、軍の補給物資の件で文官のひとりと激しく揉めまして」
シャオ・イェはそのまま、俺の隣にある庭石に腰を下ろし、深い愚痴をこぼし始めた。
「あいつ、頭に血が上るとすぐに剣の柄に手をかける癖が抜けないんです。宮廷のドロドロとした権力闘争の中で、あんな挑発に乗っていては、いつか必ず足元をすくわれます。私が必死に止めたから良かったものの……」
「馬鹿野郎」
俺は呆れたように息を吐き、杯の酒を舐めた。
「だから、あいつには『打撃は証拠が残るから、やるなら関節技で静かに落とせ』って、俺が……いや、東原にいたお前さんたちの師匠が、口酸っぱく教えていただろうが」
俺がうっかり地を出してプロレス理論を語ると、シャオ・イェは目を丸くした後、吹き出すように笑い声を上げた。
「ふふっ……ええ、そうでしたね。あの人はいつも、理不尽なほどの力で俺たちをねじ伏せながら、泥臭い生き残るための理屈を叩き込んでくれました」
シャオ・イェの瞳が、どこか懐かしむような、そして確信めいた色を帯びて俺を真っ直ぐに見つめてくる。
こいつは四人の中で一番頭が回る。
おそらく、宴の時の不自然な重力制御の件も含め、この『黒椅子の賢者』の正体が、自分たちを育ててくれたあの強面のおやっさんであることに、薄々気が付いているのだろう。
だが、彼は決してそれを言葉にして確認しようとはしなかった。
「紅月仙様。宮廷の闇は深く、底が見えません」
シャオ・イェは夜空の月を見上げ、静かに語り続ける。
「文官たちの言葉の裏には常に罠が仕掛けられ、武官たちは手柄を巡って足を引っ張り合っている。力だけでは生き残れないこの場所で、俺は……俺たちは、どう戦えばいいのでしょうか」
本音の混じった、若き軍師の弱音だった。
俺は漆黒のパイプ椅子の背もたれに深く身体を預け、彼に向けて低い声で答えた。
「……路上の取っ組み合いだろうが、宮廷の絨毯の上だろうが、戦いの本質は変わらねえよ」
「戦いの本質、ですか」
「ああ。相手の力を利用しろ。文官どもが仕掛けてくる罠の方向性を見極め、真っ向からぶつからずに力を流すんだ」
俺は空になった杯を彼に向けて突き出した。
「打撃を避けられないなら、急所を外して受け身をとれ。あえてダメージを負うことで、相手の懐に潜り込む隙が生まれる。そして、ここぞという一瞬で、相手の最も弱い関節を極めるんだ。……わかるか?」
シャオ・イェは俺のプロレス理論を用いた宮廷政治の指南に、しばらく呆然としていたが、やがて憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔を見せた。
「……はい。受け身をとり、相手の力を利用して理を極める。とても分かりやすく、そして馴染み深い戦術です。心がスッと軽くなりました」
シャオ・イェが俺の杯に新しい酒を注いでくれる。
「ありがとうございます、紅月仙様。……俺たち、必ず立派にこの宮廷を生き抜いてみせます」
「ああ、せいぜい頑張りな。俺は特等席で、お前さんたちの奮闘を酒の肴にさせてもらうぜ」
暗黙の了解の下で交わされる、悪巧みと愚痴の言い合い。
シャオ・イェにとって、そして俺にとっても、この黒い椅子の前で過ごす静寂の夜は、息の詰まる宮廷生活の中で唯一肩の力を抜ける安らぎの場所となっていた。
俺はチビチビと琥珀色の酒を舐めながら、横で月を見上げる若き知将の横顔を眺めた。
この輝かしく満ち足りた黄金の日々が、ずっと続いていくのだと、この時の俺は信じて疑っていなかった。
だが、俺の愛した世界のすべてが、狂気に満ちた終わらない大戦争によって一瞬にして灰燼に帰すその日は、すでに足音を立てて近づいてきていたのである。




