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第14話 過剰適応の呪いと、極上の同位同食

 翌日。


 黒田との約束を果たすため、結羽とドレイクが訪れたのは、閑静な高級住宅街にそびえ立つ佐修院(さじゅういん)家の本邸だった。


 黒田に案内され、厳重な防音扉が重々しく開かれた本邸の最奥の部屋。


 足を踏み入れた結羽は、肺にへばりつくような重苦しい空気に思わず息を呑んだ。


 薄暗い部屋の壁際には、いくつもの巨大な魔導生命維持装置が張り巡らされている。


 それらが微かな駆動音を立てながら、絶えず異常なほど高濃度の清浄な魔力を供給し続けているのだ。


 野田ダンジョンの深層に匹敵するほどの魔力濃度。


 その中央の真っ白なベッドに、一人の女性が横たわっていた。


「初めまして。私が、この家の当主……佐修院彩斗美(さとみ)です」


 年齢は三十代半ばだろうか。


 本来ならば息を呑むほど美しいであろうその顔立ちは、病的なまでに青白く、頬はひどくこけている。


 彩斗美は首を微かに動かすだけで、ベッドから起き上がろうとはしなかった。


 いや、起き上がれないのだ。


 首から下は幾重もの魔力チューブに繋がれ、四肢麻痺に近い状態で完全に自由を奪われている。


 だが、何よりも結羽を戦慄させたのは、ベッドのシーツに散らばる彼女の髪だった。


 かつては長く真っ直ぐな漆黒であったであろうその髪は、まるで強酸を浴びたようにところどころが不自然に金色に脱色され、獰猛な猛獣の『虎柄』のように変異していたのだ。


 瞳の孔彩も、人間のそれというよりは、どこか爬虫類を思わせる縦に裂けたような鋭さを持っている。


「驚かせてしまって、ごめんなさいね。……今の私は、見ての通り、自力で指一本動かすこともできない、ただの生きた屍よ」


 自嘲気味に笑う彩斗美の瞳の奥には、かつて世界の頂点に立った者だけが持つ、圧倒的な強者の光の残滓があった。


 ダンジョン第一世代の若き天才として名を馳せ、突如引退した伝説のSS級探索者。


 結羽もその伝説を知っている。


「彩斗美お嬢様は、数多の未踏破領域を切り開いた真の英雄です。数年前、お嬢様は関東某所の最深部で、神話級魔獣『ヒュドラ』と遭遇しました」


 結羽の傍らに立つ黒田が、絞り出すような悲痛な声で語り始めた。


「お嬢様は逃げ遅れた部下たちを地上へ帰すため、自ら囮となって最深部の瘴気の中でたった一人、七日七晩戦い抜いたのです」


 七日七晩の、深層での死闘。


 結羽はそれを聞いて、背筋が凍るような思いがした。


 魔力酔いや成長痛といったシステムエラーの恐怖を知っているからこそ、それがどれほど肉体と精神を削る行為か理解できた。


「ヒュドラを相打ちにまで持ち込み、お嬢様は生還を果たしました。……しかし、栄光の代償はあまりにも残酷なものでした」


「私はね、ダンジョンに愛されすぎたのよ」


 彩斗美が、ベッドの上で静かに微笑んだ。


「迷宮の奥深く、濃密な瘴気の中で極限まで戦い続けた結果……レベルアップを繰り返した私の身体は、ダンジョンの環境に過剰に適応してしまったの――『ダンジョンの呪い』……身体を動かすための命令が、筋肉への電気信号ではなく、霊脈を流れる魔力によるものへと置き換わってしまった」


 つまり、ダンジョンという異常な環境下でしか、まともに生命活動を維持できない身体になってしまったということだ。


「魔素の薄いこの地上では、息を吸うことすら苦しい。常に窒息しているような状態よ……いずれは呼吸器や心臓といった不随意筋の活動すら、完全に停止してしまうでしょうね」


 人間を辞め、迷宮に棲まうモノへと近づいていく変異。


 それが、最強の探索者へと上り詰めた女性の、残酷すぎる末路だった。


「お嬢様の症状を緩和する手段は、未だに手探り状態ですが……ダンジョン深層の素材が常に必要となっています。ですが、トップギルドに深層での特殊素材の採取を依頼しても、長期に渡るダンジョンアタックとなると、皆『ダンジョンの呪い』を恐れて、なかなか首を縦に振りません。現代の医学も魔法も、お嬢様を見放しました。……私は、完全に絶望しておりました」


 黒田は顔を上げ、ドレイクの大きな身体と、結羽の顔を交互に見つめた。


「ですが、ドレイク様の放つ神話級の気配と、前山田様の解体技術を拝見し……お二人にこそ、お嬢様の命を託せるかもしれないと、一縷の望みを懸けたのです」


(……一歩間違えれば、わたしも)


 結羽は思わず、自分の両手を強く握りしめた。


 強くなるためにダンジョンに潜り、魔獣を狩り続ける。


 ふゆを救うための特効薬を作るためには、避けられない道だ。


 だが、その果てに待っているのが、こんなにも悲惨な過剰適応というバッドエンドだというのか。


 恐怖が、冷たい泥水のように足元から這い上がってくるのを感じた。


「黒田はそう言うけれど、あなた達も、レベルアップの数字に踊らされれば、いずれ私のように壊れるわ。……今ならまだ引き返せる。帰りなさい」


 彩斗美の言葉には、元SSランクとしての矜持と、同じ探索者の後輩に対する、不器用で生々しい優しさと警告が込められていた。


 重苦しい沈黙が、部屋を支配しかけた、その時だった。


「――へっ。随分と悲劇のヒロインぶってやがるが、見当違いも甚だしいぜ」


 空気を切り裂いたのは、ドレイクの容赦のない鼻で笑う音だった。


「呪いだの過剰適応だのと、随分とオカルトじみた大層な名前つけやがって。……診てみりゃあなんのこたぁない、こんなもん、ただの『ガス欠』と『回路の不適合(エラー)』じゃねえか」


 ドレイクはベッドの足元まで歩み寄り、炎金に輝く龍眼で、彩斗美の全身を射抜くように見下ろした。


「魔力で動くように最適化されちまった身体に、地上の薄い魔素じゃ足りねえだけよ。それに栄養の取り方が間違ってんだ。ただ、それ以上にヒュドラの神経毒も混ざってやがるな。……まぁ、俺の仙術と『医食』があれば、ちょいと時間はかかるが必ず緩和できる程度だな」


 これまで彩斗美が受けてきた高度な魔導医療や、現代の常識を根底から覆すドレイクの絶対的な宣告に、彩斗美と黒田が驚愕に目を見開く。


 ドレイクは振り返り、試すような視線を結羽へ向けた。


「どうする、結羽。こいつの言う通り、人間を辞めるのが怖ぇなら今すぐ引き返して、一生安全な浅い階層でスライムでもつっついてるか?」


 その問いかけに、結羽はギュッと両手を握りしめた。


 彩斗美の悲痛な姿は、確かに恐ろしい。


 だが、あの真っ白なベッドで眠る妹を諦めることなど絶対にできない。


 何より、こんなに悲しい目をしている気高い先輩の探索者を、見捨てて帰るなんてできるはずがなかった。


「……わたし、絶対に引き返しません!」


 結羽は、恐怖を完全に振り払い、ドレイクの目を真っ直ぐに見返して力強く宣言した。


「正しく強くなって、先輩の呪いを緩和する素材、全部わたしが獲ってきます!」


 その淀みのない真っ直ぐな言葉に、彩斗美は大きく目を見開き、やがてポロリと一粒の涙をこぼした。


「……馬鹿な、子ね。……黒田。この方たちと、佐修院家の名において、無期限の専属スポンサー契約を結びなさい。資金の援助は一切惜しまないわ」


「承知いたしました」


「ありがとうございます!」


 結羽が元気よく返事をし、黒田が涙を流して深く頭を下げる。


 巨万の富を持つ佐修院家との『よろず屋・最強のスポンサー契約』が、ここに完全に成立したのだった。



 ◆◆◆



 佐修院家での重苦しくも決意に満ちた契約を終え、結羽とドレイクは野田市内のマンションへと帰還した。


 窓の外にはすでに夜の帳が下り、街の明かりが遠くに見えている。


 リビングに足を踏み入れるなり、ドレイクはアストライアから持ち込んだ修理中の第三世代魔導コンロを引っ張り出し、大きな土鍋をどっかりと乗せた。


「さあ、まずは腹ごしらえだ。今日は昨日狩ったウルフの肉と骨を限界まで煮込んだ、スタミナ味噌ちゃんこ鍋だぞ」


 ドレイクが手際よく野菜と肉を切り分け、鍋に放り込んでいく。


 すぐに、暴力的なまでに食欲をそそる味噌と肉の香りが部屋中に充満し始めた。


 だが、結羽はソファに座ったまま、自分の両手をじっと見つめていた。


 脳裏に焼き付いているのは、魔導生命維持装置に囲まれ、虎柄に変色した髪を力なくベッドに散らしていた彩斗美の姿だ。


「おやっさん……わたしもダンジョンに潜り続けたら、彩斗美先輩みたいに人間じゃなくなっちゃうんですか……?」


 自分がこれから進もうとしている道も、一歩間違えればあんな風に壊れてしまうのではないかという恐怖。


 結羽が震える声で問いかけると、ドレイクのポケットからふわりと浮かび上がった黄龍の宝珠が、静かに明滅しながら答えた。


『結羽殿。そもそも「レベルアップ」とは何か、理解していますか? あれは単なる数字の上昇ではなく、「ダンジョンという環境に適応するための、肉体の強制的な構造変化」なのです。急激な変化に対し、栄養や魔力という「土壌」が足りないから、人間の身体はエラーを起こして「魔力酔い」や「成長痛」に苦しむのです』


 黄龍の言葉に、結羽はハッとして顔を上げた。


佐修院(さじゅういん)殿は、極限の瘴気の中で無理やりレベルアップを繰り返しすぎました。結果、リソース不足のままダンジョンの魔素で身体を補ってしまい、「過剰適応バグ」を起こしたのです』


「要するに、ガス欠のまま無理やりエンジンを回し続けたからぶっ壊れたんだ」


 湯気を立てる椀を両手に持ったドレイクが、結羽の前にドンとそれを置いた。


「なら、どうすればいいか? 簡単だ。あらかじめ肉体をダンジョン仕様に耐えられるように、土壌を作ってやればいい。その最強の最短ルートが、その土地のモノを喰らう『同位同食』だ。魔獣の肉を血肉に変えて、細胞の隅々までダンジョンに最適化させるんだよ」


 ドレイクの力強い言葉に、結羽は椀の中の肉を見つめた。


「魔獣のお肉を食べる……。でも、おやっさん。どうして現代の探索者は誰もそれをやらないんですか? お肉なら、現代でも協会に買い取られたものが浄化されて、高級食肉として流通したりしてますよね?」


 当然の疑問だった。もしそれが最も正しく強くなる方法なら、もっと広まっているはずだ。


『ネットワークの記録によると、ダンジョン発生初期の第一世代や第二世代の探索者の中には、現地で魔獣を食べる者もいました』


 黄龍が、現代の知識の海から引き上げた情報を語る。


『しかし、未浄化の肉は「魔力酔い」などの身体への悪影響が強く、現場での食用には不向きとされたのです』


「……だったら、確保した魔獣のお肉や植生を、その場で浄化して食べればよかったんじゃ……?」


『おっしゃる通りです。しかし、現代において「浄化」の魔法を使える者は極めて稀です。また、魔獣肉を安全に浄化・調理できるような大掛かりな魔導設備を迷宮に持ち込む労力に比べ、安価で高カロリーなダンジョンアタック用の携帯食(ゼリーや栄養ブロック)が誕生し、普及してしまった』


 黄龍の宝珠が、少しだけ残念そうに光を揺らした。


『結果として、コストに見合わない「現地での調理」は完全に廃れ……同時に、ダンジョンに適応するための「同位同食」という真の理も、現代の探索者たちから見過ごされてしまったのです』


 便利さと効率を追い求めた結果、人間は最も大切な『命のやり取りとしての食』を失ってしまった。


 それが、現代のダンジョン探索者が陥っている見えない罠だったのだ。


「安っぽいゼリー飲料ばっかり啜ってるから、身体の基礎がスカスカになるんだよ。……だがな、結羽。お前さんには俺がいるだろ」


 ドレイクはニヤリと笑い、鍋に向かってかざした掌から、青白い仙気をスッと放った。


 仙気が肉にこびりついた魔獣特有の荒々しい匂いを優しく包み込み、消し飛ばしていく。


「俺の『浄化の仙術』で、肉にこびりついた余計な魔素(毒)は完全に濾し取ってある。お前さんが食うのは、純粋な生命力(最適化の力)だけだ。こんな極上の飯、ゼリー啜ってる連中には絶対に味わえねえぞ」


『ええ。師父の「医食」があれば、人間としての形を保ったまま、完璧な最適化が可能です。少なくとも結羽殿がバケモノになることはありませんよ。保証します』


「そうだ。だがそれでも、人間という枠組みから外れ、迷宮を曝く者へと自らを近づけていく過程でもある。……食う覚悟はできてるな?」


 それは、ただの食事の誘いではない。


 システムという補助輪を捨て、自らの肉体を魔獣と同じ次元の怪物へと最適化させるという、究極のサバイバルへの入り口だった。


「そんな覚悟、いまさらだよ、おやっさん!」


 結羽は力強く言い切り、立ち上がって真っ直ぐにドレイクの目を見返した。


 黄龍とドレイクの言葉が、結羽の心に巣食っていた恐怖と迷いを、完全に消し去ってくれた。


 自分はただ魔獣を食わされているのではない。


 誰も知らない理に基づいて、最も正しく、そして安全に強くなっているのだ。


「……いただきます!」


 色々な覚悟を一緒に飲み下すつもりで、結羽は意を決してその肉を口に運んだ。


 目を固く閉じ、思い切り咀嚼する。


「……っ」


 瞬間。


 結羽の閉じていた目が、パッと見開かれた。


「うっわ……なにこれ、めちゃくちゃ美味しい……!!」


 覚悟の悲壮感など、一瞬で吹き飛んだ。


 獣臭さなど微塵もない。


 噛み締めるたびに溢れ出す強烈な肉の旨味と、味噌の深いコク。


 そして何より、身体の芯からカッと熱くなるような生命力の奔流。


 それは、結羽の限界まで疲労した身体が、細胞の隅々までが本能で欲していた、完璧な味だった。


 魔力酔いも成長痛もない、健やかなる最適化が細胞レベルで進行していくのがわかる。


「バカヤロウ。だから言っただろ。そんな毒になるようなもん、弟子に食わすかってんだ」


 目を丸くする結羽を見て、ドレイクは豪快に笑う。


 過剰適応の恐怖すらも、この師匠が作る極上のダンジョン飯の前では、ただの健やかな成長の糧でしかなかった。


「はいッ! おかわりいいですか!?」


「おう、いくらでも食え」


 こうして腹を満たし、確かな活力を得た後、二人は今後の具体的な行動方針について話し合った。


 ステータスという枠を外れた少女の、理を極める『地獄の周回(同位同食)』が、いよいよ本格的に幕を開けたのだった。

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