第9話 赤い警鐘
街を行き交う人々の声が、次第に背後へ遠ざかっていく。
補修の施された建物も、往来を照らす灯りも、歩みとともに後ろへ流れていった。
リースたちは、ひび割れた照明に頼りなく照らされながら、再び街外れにある旧防衛網の管理室へと向かっていた。
しばらく黙って歩いていたスピアが、前を行くルナードの背中へ不満げな声を投げる。
「都市部にしっかりしたのあるじゃない……。
なんでこっち?」
「街の再建計画中だ。非公式の作戦なんかに使えるわけないだろ」
返事だけを背後へ残し、ルナードは歩みを緩めることなく先へ進んでいく。
それでも、スピアは引き下がろうとはしなかった。
「だとしても、あそこしかないの?」
なおも背後から飛んでくる声に、ルナードはとうとう足を止めた。
振り返ったその眉間には、わずかな皺が寄っている。
「そんなに嫌うか」
「だってあそこ、埃っぽいし……。リースもそう思う?」
突然向けられた視線に、返事が一拍遅れる。
前に訪れたときは、ロキとベルスの安否ばかりが頭を占めていた。
部屋が汚れているかどうかなど、気に留める余裕さえなかった。
改めて思い返してみれば、確かに好んで長居したい場所ではない。
「まあ……率先して行きたいところじゃないかな」
「部外者が贅沢言いやがって……」
呆れを吐き出すような声とともに、通路の先へ件の管理室が姿を現した。
「ここまで来たら、もう文句は言えんぞ」
ルナードはそう言い残し、管理室の扉へ手をかけた。
重い金属音とともに扉が押し開かれる。
閉じ込められていた空気が吐き出され、床に積もった埃が薄暗い室内を白く舞った。
「うっ……」
スピアは顔を背けると、そのまま逃げるようにリースの背後へ回り込む。
肩越しに覗く白い髪を見て、リースは小さく苦笑した。
「だね……行こう、スピア」
背中に隠れたままの少女へ声をかけ、リースはルナードに続いて管理室へ足を踏み入れた。
室内は、以前訪れたときと何一つ変わっていなかった。
壁際には古い通信機器と地図が並び、棚には金属製の箱が隙間なく積み上げられている。
天井から垂れ下がる照明は不規則に明滅し、長く忘れられていた部屋を、辛うじて闇から引き上げていた。
「来たわね。待ってたわよ」
室内の奥から、アルダの声が飛んできた。
重い扉が閉ざされ、金属音が室内を一巡する。
外を行き交う人々の声も、古びた壁の向こうへ押し戻されていく。
残されたのは、照明のかすかな唸りと、卓上で明滅を続ける立体地図だけだった。
「二人とも、こっちへ」
促されるまま、リースとスピアも卓へ近づく。
「それじゃ、始めるわね」
アルダは、卓上の端末へ指を滑らせる。
すると机の中央から淡い光が立ち上がった。
光は幾重もの線を結びながら形を成し、やがて一つの巨大な構造物を暗い室内へ浮かび上がらせる。
高い障壁に囲まれた無骨な建物が、青白い光によって、上空から見下ろされていた。
その内部の一点に、赤い光点が輝く。
「これは?」
「番犬どもの拠点よ」
アルダの指先が動くと、ホログラムがゆっくりと回転した。
「正式には、ラフロッド領ノクシア軍。その第三区管理施設にある一時拘束区画よ」
「じゃあここに……!」
リースは身を乗り出した。
「ええ。二人はここにいる可能性が高いわ」
リースは、ホロに浮かぶ光点を食い入るように見つめる。
ようやく手繰り寄せた親友の居場所。
その小さな光は、暗闇の中に差した道標のように瞳の奥で燃えていた。
「第三か……」
横合いから、ルナードの低い声が落ちる。
その声に、リースの視線がわずかに揺れる。
「意気込んでるところ悪いが」
今度は、はっきりとこちらへ言葉が向けられた。
「救えるなんて甘いこと、考えない方がいいぞ」
勢いのまま、ルナードが続ける。
「第三は、俺たちのような離反者を始めとする、凶悪犯罪者を拘禁する場所だ。防備も、この星にある管理施設の中じゃ最も手厚い」
赤い光点へ向けられた目が、険しく細められる。
その一言は、リースの先走りかけていた希望を現実へ引き戻す。
何も言えず、浮かせていた腰を静かに椅子へ戻した。
「ええ……私たちにとっても、ここまで防備が固いのは想定外だったわ」
アルダは、赤い光点を見つめたまま、言葉を濁す。
「それに、恐らく……」
そこで言葉が途切れた。
静まり返った管理室に、古びた照明の唸りが響く。
リースとスピアは、ほとんど同時に息を呑んだ。
「二人は明日――早ければ、今夜中にも処刑される可能性が高いわ」
「なっ……!」
「そんな……」
告げられた言葉が、室内の温度を一息に奪い去った。
赤色の光は、相も変わらず明滅している。
まるで、ロキたちに起こる惨事への警鐘を、轟音のごとく鳴らしているようだった。
ルナードの目が一瞬、アルダへと滑る。
しかし、そのまま腕を組み、卓上へ視線を落とす。
「こ、今夜って、あとどれくらいなんですか!?」
椅子が荒々しく床を擦り、耳障りな音が沈黙を引き裂いた。
「こんなところで話してる場合じゃない!
場所は分かってるなら、今すぐ行けば、まだ――」
言葉ばかりが先へ駆けていく。
何をすればいいのかも、どうやって助けるのかも、考えは何一つまとまっていない。
それでも、ここに座っていることが、ただただ耐え難かった。
「リース……」
か細い声が、行き場を失って暴れ回る思考に待ったをかけた。
スピアは胸元のカプセルを両手で強く握りしめていた。
「そう。時間がないわ」
アルダの声が、先走る焦りへ静かに刃を入れる。
「だからこそ、落ち着きなさい。こんなこと、私たちだって許せないわ」
冷たい言葉ではなかった。
燃え広がる感情を消すのではなく、その火が向かう先を正そうとする声だった。
なんとかその声に不安を押し殺し、リースは平静を取り戻した。
「……作戦は」
「作戦は今夜」
アルダが短く答えると、卓上のホログラムが静かに形を変えた。
第三区管理施設を中心に、周囲の建物や道路が淡い線となって広がっていく。
暗闇の中へ光の地図が開かれ、閉ざされていた作戦の輪郭を、少しずつ描き始めた。
「あなたたちには、ちょっとした騒ぎを起こしてもらうわ」
「騒ぎって?」
スピアが小さく首を傾げる。
「本当に、些細なことでいいの」
アルダの指先が、施設の外へ向かって滑っていく。
それに応じるようにホログラムの景色がゆっくりと引き、管理施設の向こうに横たわる山々を映し出した。
「近くに山があるでしょう。そこで大きな衝撃音を響かせるとか、岩肌を少し崩すとか……やり方は任せるわ」
山腹に一つの光点が灯る。
「とにかく、番犬どもの注意を施設から遠ざけられれば、それでいい」
光点から伸びた線が、管理施設から山へ向かって流れていく。
「警備がそちらへ向いた隙に、私たちが中へ入る」
今度は、施設の裏手に別の光が浮かび上がった。
そこから伸びた細い線は、外壁の影を縫うように進み、そのまま施設内部へと潜り込んでいく。
やがて線は、入り組んだ通路を抜け、赤く明滅する拘束区画のすぐそばで止まった。
「旧サリア軍が使っていた整備通路よ」
アルダの指先が、線の止まった場所を軽く叩く。
赤い拘束区画の手前で、淡い光が小さく瞬いた。
「今は使われていないけど、通路そのものは残っている。番犬どもも完全には塞ぎ切れていないわ」
「そこから、ロキたちのところまで……」
「ええ。あなたたちが外へ注意を引いている間に、私たちがこの通路から侵入する」
光の線は拘束区画へ届く寸前で止まっていた。
「二人を見つけた後は?」
リースが尋ねると、アルダはホログラムの端へ指を滑らせた。
施設の西側に、新たな光点が灯る。
「救出後は、西側の旧輸送路を使って外へ出る。あなたたちも、陽動が終わったらここへ向かって」
山腹の光点と、施設裏手の侵入路。そして西側の合流地点。
ばらばらだった光が線で結ばれ、ようやく一つの道筋を形作っていく。
「そこで合流するわ」
「時間は?」
「順調に進んで、十五分」
アルダの声が、静かな室内へ重く落ちた。
「でも、順調にいく保証なんてない。だから、できるだけ長く番犬どもを引きつけていてほしい」
「十五分……」
スピアが、その数字を胸に刻むように呟いた。
「ただし、危険だと判断したら撤退して」
「でも、それじゃあ二人が……」
「あなたたちまで捕まれば、救出する相手が増えるだけよ」
柔らかな声の中には、動かしようのない現実が、逃げ道を塞ぐように胸へ沈んでいた。
リースは赤い拘束区画を見つめる。
ロキとベルスが、そこにいる。
はやる思いに促されるように、震える口が開いた。
「……分かった」
握りしめていた拳を、ゆっくりと解く。
「ロキとベルスのこと、任せてもいいんですね」
問いかける声には、まだ拭いきれない不安が滲んでいた。
アルダはその揺れを受け止めるように、まっすぐリースを見返す。
「ええ。傷一つつけさせたりしないわ。絶対にね」
その言葉に、リースは小さく頷いた。
アルダは端末に触れる。
青く光るホログラムが消え、その場に再び暗がりが戻った。
「決行まで三時間。それまでは好きにしていいわ。行きたいところがあれば、ルナードに――」
「いや」
アルダの言葉を、ルナードが短く遮った。
「すまんが、俺はアルダと少し話がある」
そう言って、壁際に立つアルダへ視線を向ける。
ほんの一瞬だけ、その空間に言葉にならないものが流れた。
しかし、それはすぐに古びた照明の陰へ沈んでいく。
「前に行った整備区画があるだろ」
ルナードは何事もなかったように、リースたちへ向き直った。
「そこにいる奴らに聞け。待機室くらいは用意してくれるはずだ」
「整備区画……」
リースは第八区画で見た光景を思い出す。
金属を打つ音と工具の駆動音。
崩れかけた都市の中でも、そこだけは、絶えず息をしているようだった。
「……分かりました」
リースが短く答えると、ルナードは小さく頷いた。
「作戦開始前には呼びに行く。あまり遠くへは行くなよ」
頷きながらも、リースの胸にはまだ、赤い光点の残像が焼きついていた。
重い扉が開き、リースとスピアの影が管理室から姿を消した。
やがて扉が閉じると、鈍い金属音が古びた室内へ沈んでいった。
ホログラムの消えた机は、ただの黒い板へ戻っている。
残された暗がりの中で、天井の照明だけが頼りなく瞬いていた。
その沈黙に、アルダの声が落ちる。
「西側の連絡橋、落ちたらしいわね」
「ああ……あいつらのおかげで事なきを得たが……。
だが、あそこだけじゃない」
「ええ……」
アルダは小さく頷き、再び卓上の端末へ触れた。
一度消えたはずのホログラムが、淡い光を取り戻す。
浮かび上がったのは、旧都市の構造図だった。
いくつもの区画が線で描かれ、そのあちこちに赤い警告表示が灯っている。
「南区画の支柱も、第三居住棟の外壁も、限界が近いみたい」
アルダの指が、赤く染まった箇所を順に示していく。
「それだけじゃないわ。この星……いえ、この世界そのものだって……」
言葉は、そこで途切れた。
ホログラムの光だけが、二人の顔を青白く照らす。
「それで、話って?」
「奴らから通達だ。作戦中には到着するらしい」
「そう……いよいよね」
アルダは驚くことなく、まぶたを一度だけ伏せる。
「……なあ、本当にやるのか」
アルダは答えない。
赤い警告表示が、二人の間で静かに明滅している。
「あんなでたらめまでついて……そうまでしてか」
「……」
「あいつらは、何も知らないんだ。捕まった二人を助けたい。それだけで動こうとしている」
「分かってるわ」
「連絡橋のときもそうだ。あいつらは手を伸ばしたんだ。見ず知らずの誰かのために、自分たちを危険に晒して……」
ルナードは閉じた扉へ視線を向けた。
その向こうへ消えていった二人の背中が、まだ目に焼きついている。
「……俺たちと同じだった」
その言葉に、アルダの指先がわずかに止まった。
沈黙が落ちる。
ホログラムに浮かぶ赤い警告表示が、まるで焦りを訴えるように瞬いていた。
「……それでも、あの二人のために、心中なんてできないわ……私も、皆も……」
その声は、かすかに震えていた。
「奪われる前に、こちらから掴むしかないのよ。そうしなければ、この街は終わる」
「……番犬みたいなことを言うな」
アルダの喉が、小さく詰まった。
返す言葉を見つけることができないようだった。
ルナードもそれ以上、追及しない。
答えが返ってこないことなど、最初から分かっていたかのように。
「……あと三時間だ」
扉へ向かいながら、ルナードは低く言い残す。
「皆も、お前も、そして俺も。悩んでいられる時間は、もうない」
重い扉が開く。
外の空気が、暗い管理室へ細く流れ込んだ。
ルナードの背中がその向こうへ消え、扉が閉じる。
再び、アルダだけが残された。
ホログラムの光が、静かに揺れている。
赤く染まった旧都市の構造図。その一つ一つが、助けを求める声のように明滅していた。
アルダはしばらく動かなかった。
ただ、机の上に置いた指先だけが、わずかに震えている。
「略奪……」
小さくこぼれた言葉は、誰にも届かない。
そのとき、ホログラムの警告表示がまた一つ増えた。
旧都市の片隅に、新たな赤が灯る。
まるで、迷う時間などないと告げるように。




