14 ママに会いたい。
イーサンは、店から久しぶりに家へ戻ると違和感を覚えた。
玄関で出迎えたライアンの目。
まるで、何かにすがろうとする視線。
言いたいことがある。
喉元まで出かかっているのに、イーサンと目が合った瞬間、ふっと横を向く。
――気のせいだろうか。
義兄のジャックが、息子の面倒をよく見てくれている。
男同士、うまくやっているのだと思った。
彼は足早に急ぐ。
可愛い赤子のもとへ。
ライアンの異変など忘れて。
翌朝。
朝食の席で、ライアンはスプーンを握る手を震わせながら口を開いた。
「ママに会いたい……」
イーサンは新聞から目を上げる。
「マリアにか? なんでだ?」
「ママのケーキが食べたい」
「そんなの、買ってやるから」
返事は、簡単だった。
何も考えずに、父親らしいつもりで言った。
ライアンが何か言い返そうとすると、
ソレーヌがナイフとフォークを静かに置く。
「悲しいわ。今は私がママなのに……」
しんと空気が冷える。
「ライアン。マリアはもう他人なんだ。もうお兄ちゃんになったんだから、甘えるな」
イーサンの声は、諭すようでいて、どこか突き放していた。
ライアンの目に涙がにじむ。
父は頼りにならない。
その事実だけが、胸に落ちていく。
あとでまた、ジャックにきつく小突かれるかもしれない。
余計な事は言ってはいけない。
喉がぎゅっと締まる。
――何も言わないほうが、痛くない。
ライアンはそれ以上、何も言わなかった。
「ライアン、弟の名前が決まったぞ。レイモンドだ」
嬉しそうな父の顔が、ひどく残酷に見える。
(弟じゃないのに)
心の中でそう呟いても、声にはならない。
ライアンは黙々とパンをちぎる。
指先で崩れる白い生地。ぽろぽろと、皿の上に落ちる。
前の屋敷が恋しかった。
あの匂い。
あの階段。
あの窓辺。
……ママの顔。
その顔は、とても悲しそうだった。
どうして「いらない」なんて言ってしまったんだろう。
(ごめんなさい)
(怖いよ)
(助けて)
胸がキリキリと痛む。
乾いた口の中にパンを放り込む。
何の味もしない。
砂を噛むようだった。
──その夜。
闇は、やけに深かった。
隣で横たわるイーサンに、ソレーヌは甘えた声で問いかける。
「私が産んだ子が、お店の跡取りよね?」
イーサンは天井を見つめたまま答えた。
「跡取りはライアンだ。長男だからな」
そう言って寝返りを打つ。
静まり返った部屋に、布がこすれる音だけが聞こえる。
「私の子が可愛くないの?」
「違う。跡取りなんて、そんな先の事、今から言っても仕方ないだろう」
その言葉には愛も怒りもなく、ただ面倒を避けたい疲労が滲んでいた。
「もう、私を愛していないのね」
「愛してるさ。君のために離婚までして、慰謝料だって払ってやったじゃないか」
「私だって、別荘も両親の屋敷も、全部売ったわ!」
「当然だ。君が伯爵を陥れたんだ、自業自得だ」
「もう!」
拗ねたようにソレーヌが背を向けると、イーサンはすぐに寝息を立てた。
話は終わりだと言わんばかりに。
闇の中で、ソレーヌは目を開けたまま思う。
――男なんて、どれも同じ。
結婚するまでは甘い言葉を囁き、宝石を贈り、未来を約束する。
けれど手に入れた途端、妻は“当然、夫のもの”になる。
削られるのは贅沢だけじゃない。
期待も、夢も、誇りも。
釣った魚にエサは不要。
その理屈に、彼らは罪悪感すら抱かない。
「ふん、ケチな男は嫌いだわ。……おバカさんもね」
吐き捨てるように呟き、ブランケットを払う。
ベッドを抜け出すと、裸足のまま廊下を歩く。
冷たい床が心地いい。
家は静かだ。
けれど、その静けさの奥に、別の鼓動がある。
偽りの兄が待っている。
ただ一人の恋人。
レイモンドの本当の父親。
ドアの前で立ち止まり、ノックもせずに開ける。
ジャックが振り向き、ゆっくりと笑った。
そこには迷いも遠慮もない。
ただ、欲望と計算だけ。
その腕に飛び込む。
ソレーヌは、一瞬もためらわなかった。
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