13 幸福と不幸
緑がきらめく初夏だった。
風は柔らかく、木々は祝福するようにざわめいていた。
マリアとカリスは、もう一度、誓いの前に立つ。
今度こそ。
本当の愛の誓いを交わす。
本当の運命の人と。
本当の生活が、ここから始まる。
二人は、ただただ、幸せだった。
それは派手でも劇的でもない、静かな確信のような幸福だった。
その後すぐに、二人は帝国へ向かった。
皇帝への謁見と、ご令孫様の目の具合を窺うために。
まだ十歳の少年は、マリアの前で喜びを伝えた。
「お会いできてうれしいです!」
その瞳は光を失っているのに、希望は消えていない。
「ミオヴェルの錬金術師様、どうか私の目に光を与えて下さい」
信じている声だった。
手を握られた瞬間、マリアは決心する。
「光を取り戻せますよう、最善を尽くします」と。
それは約束とともに、彼女自身への誓いでもあった。
*****
ポートマン家の屋敷には、空いた部屋がいくつもあった。
その一室を研究室に変え、マリアは再び錬金釜の前に立つ。
帝国からは惜しみない資金と材料が届いた。
ガラス器具が光を受けてきらめき、薬品の匂いが部屋に満ちる。
何度も失敗し、何度もやり直す。
繰り返しの毎日。
けれど――結婚の失敗は、もう繰り返したくない。
研究に没頭する一方で、彼女はカリスや妹たちと過ごす時間を大切にした。
食卓を囲み、他愛のない会話に笑い、時にはただ同じ部屋で好きに過ごす。
家族は見返りを求めない。
ただ、見守り、支えてくれる。
マリアに儲けようとする気など、もちろんない。
ただ一刻も早く、あの少年に“見える喜び”を届けたい。
それだけだった。
***
一方その頃。
スウィントン男爵家では、ソレーヌに男子が誕生していた。
屋敷には祝福の声が満ちている。
ライアンは嬉しくて、急いで弟に会いに行く。
小さなベッドに寝かされた赤子。
柔らかそうな頬に、そっと触れようとした瞬間――
ピシャリ!
乾いた音とともに、手を叩き落とされた。
顔を上げると、ソレーヌの兄、ジャックが睨みつけている。
その目は、子どもに向けるものではなかった。
「おい、汚い手で触るな!」
ライアンの目に怯えが走る。
「手は洗ったよ?」
「うるせえ! あっちに行け」
大きな体で怒鳴られ、ライアンは後退る。
足がもつれ、声も出ない。
ドアを閉めかけた、その隙間から。
「アイツ、じゃまだな」
「イーサンに、この子を店の跡取りにしてもらうわ」
「俺の子が継いだら、店は俺のものだ」
「シー! まだまだ秘密、先の話よ」
笑い声と、抱き合う影。
ライアンは、すべてを理解したわけではない。
けれど一つだけ分かった。
──あの赤子は、自分の弟ではない。
*
新しい家に引っ越した途端、ソレーヌの家族が転がり込んできた。
それがライアンの不幸の始まりだった。
家は急に狭くなり、空気は重くなった。
祖父母もジャックも、なぜかライアンを嫌った。
特にジャックは、理由もなく怒鳴り、殴る。
まるでライアンを仇のように。
ソレーヌも、最初の優しさは消えた。
両親が離婚して間もなく、それはすぐだった。
『ねえねえ、エミリアは? エミリアを連れてきてよ!』
『うるさいわね。あんたのママのせいでエミリアとは会えなくなったわよ。恨むならママを恨みなさい』
その言葉を、彼は信じた。
ママが悪いのだと。全部、ママのせいなのだと。
『ねえ、外のお店でご馳走が食べたい』
『贅沢言わないの。あんたのママは、もうお金を儲けないんですって。引き取って損したわ』
ライアンの心は、毎日削れていった。
彼は昨日まで、何も知らなかった。
今日、父が帰ったら言わなければならない。
「弟じゃない」と。
けれど裁判後、忙しいイーサンはなかなか帰らなかった。
やっと帰ってきたと思ったら、
「パパは疲れているから、おじさんと遊ぼうか」
ジャックが肩に手を置く。
その手は重く、逃げ道を塞ぐ。
部屋に連れ戻されると、ナイフが喉元に当てられた。
「余計なこと言うなよ? お前もパパも──グサリ! だぞ?」
冗談ではないと、子どもでも分かった。
力が抜け、膝が崩れる。
視界が滲み、体が震える。
ヘナヘナと床に座り込み、ライアンは失禁した。
「汚いガキめ!」
その頭を強く小突くと、ジャックは部屋を出て行った。
誰にも聞こえない声で一人、ただ思う。
――どうして。
どうして、こんなことになったの。
読んでいただいて、ありがとうございました。




