19 最終話
ああ、と思う。胸の奥から湧き出てくるこの気持ちに名前なんてつけられない。愛おしいだとか、嬉しいだとか、簡単に名前をつけられない気持ちがサイダーみたいに噴き出す。
「俺に救われてくれて、ありがとう、直弘」
画面越しに愛情が育ったのが不思議で、愛おしい。
「俺も、直弘のコメントに救われてきたよ」
蒼次郎は自分の背中に置かれた直弘の手を引きよせ、その指にキスを落とした。長い指、春の陽だまりみたいな体温。
直弘と目が合う。
「好きだよ。だから直弘のネットストーカーをやめる」
「ネットストーカーのままで構いませんよ」
「俺が構うんだよ、直弘」
蒼次郎が直弘の手を握ると、直弘が手を握り返してくれた。
「ネットストーカーの始まりは、古参リスナーのたんぽぽのことが気になっていたから。付き合ってもネットストーカーがやめられなかったのは、不安だったからだ。でも」
蒼次郎は直弘の目を見て言う。
「もう不安じゃない。直弘が俺のためにGPSを持ってくれた。そんな負担がかかることをしてくれた直弘の気持ちを、俺は信じる。好きだから、信じる」
直弘がぽつりと言う。
「好きだから、信じる……」
直弘は言葉を嚙みしめるように目を閉じ、数秒経ってから目を開けて蒼次郎を見た。
「俺も、蒼次郎さんの気持ちを、信じます。俺、蒼次郎さんの気持ちを疑っていたわけではないんです。でも……、ずっと画面の向こうの、会えない人と思っていたから、いつかまた元に戻るんだろうと思って、不安でした。GPSを契約したのも持ち歩いたのも、結局自分のためだったのかもしれません。ここまでやっているから信じてほしいと浅ましい思いがあったかもしれない」
直弘、と蒼次郎は呼ぶ。
「いま、幻滅した。浅ましい思いがあったかもしれないって言ったから」
「え」
「でも好き。新しいところ、見ることができて好き」
直弘が弾けた光を見たように目を細め、それから笑った。
「俺もそのうち蒼次郎さんに幻滅して、でも好きって思うんでしょうね。……ああ、それって、嬉しいなあ」
最後は心底嬉しそうに言うから、蒼次郎も嬉しくて笑った。
いつの間にか額と額をくっつけて、くすくす笑っていた。目が合い、自然とキスをする。
直弘が顔を離した。その手が蒼次郎の頬に触れる。
「今、言っていいかわからないのですが、いま、すごくあなたとベッドに行きたい。でもその前にセックスできなかった理由を伝えさせてください」
真剣な眼差しに緊張しつつ、頷く。直弘が勇気を出して、自分に向き合ってくれているのがわかるから、背筋が伸びる。
「うん。聞きたい」
直弘が深呼吸をし、言う。
「俺は童貞です」
エアコンの音だけが室内に響く。
――童貞。
「えっ、まさかセックスできなかった理由って、童貞だから?」
思いのほか大声が口から飛び出した。直弘が耳と頬を赤くして言う。
「そうです。童貞で、その、経験が足りなさ過ぎてどうしていいかわからなくて」
「額にキスしてくれたし、直弘から口にキスをしてくれたから、童貞と思わなかった」
だが童貞だと知れば、ぎこちないキスや、セックスできなかった理由もわかる。
直弘が深く頭を下げた。
「いろいろなことを、のちほど、ご教授いただけないでしょうか」
その姿をじっと見つめ、蒼次郎は笑って直弘に抱き着いた。
「俺、今まで恋人いたことあったけど、キスしてから先に進まなかったよ。直弘と同じで初めて。でも知識だけある。それでもいい?」
「それでもいいです。初めてだということが嬉しいです」
直弘と手を繋いだ。まずは二人で、風呂場に行こう。
ブラックコーヒーをぐいと飲み干し、蒼次郎は深呼吸をした。いまから配信すると思うと、久しぶりに緊張する。
仕事部屋の時計を見れば、あと十分ほどで夜の九時だ。金曜日の夜は通常なら自分のリスナーが観てくれる時間帯だが、どのくらい自分のリスナーが来てくれるだろうか。
野次馬しかいないのではと不安がよぎるが、ぐっと力を入れて前を見る。不安な気持ちはきっと、画面越しでも伝わってしまう。
だから、虚勢を張る。大丈夫と笑う。それが配信者のすみれだから。
部屋の隅、カメラには絶対に映らない壁際に直弘がいる。心配そうな直弘と目が合うと、蒼次郎は明るく笑った。頷いた直弘がぎこちなく笑う。
ゲーミングチェアに座れば、背筋が伸びる。
いよいよ配信時間となり、蒼次郎はカメラに向かって手を振った。
「みんな久しぶり、すみれでーす。はい、早速、彼氏がいることを暴露されて炎上した件を話そっか」
蒼次郎はにっと笑う。
「俺の動画を今まで観てくれた人はわかるよな。俺は彼氏がいるって暴露されて、燃えたからって、簡単にいなくならねえわ」
でも、と続ける。
「すみれから降りても構わない。仕方ないと思う。俺は人の恋を否定しないよ。それと同じくらい、自分の恋も否定しない」
蒼次郎はファイティングポーズをとった。
「言葉でプロレスをしようぜ、それがすみれのお家芸だろ。俺も本気に、誠実に戦うからさ、そっちも本気に、誠実に戦ってよ」
自分は動画を作ることで、顔も知らない誰かと時には騒ぎながら、時には言葉で戦いながら繋がってきた。それは少しも無駄になっていないと思える。
リスナーからのコメントが次から次へとやってくる。
――あれ、少しも怖くないな。
炎上して、正直リスナーと向き合うのが怖かった。けれどいまは、ちっとも怖くない。
そうか、と思った。自分は、自分が思っている以上に自分の配信を楽しんでくれていたリスナーが好きで、配信者すみれを蒼次郎自身が好きだったのだ。だから、怖くない。
蒼次郎はすっと息を吸い、言う。
「じゃあ、言葉で戦うか~!」
リビングのソファに倒れ込むと、直弘が床に跪いて手を握ってくれる。
「お疲れさまでした。蒼次郎さん」
「疲れた。でも、いろいろ話せてよかったよ」
自分の気持ちを言葉にし、相手の言葉から気持ちを受け取った。そんなやり取りは疲れたが、達成感がある。そして、ああよかったという安堵感。
コメント欄で「降りる」というコメントをいくつか見た。仕方ないよな、と思う。推す側推される側、人だから、気持ちは変わる。
降りた人々に対して、今まで何も思わないようにしてきた。だがいまは、推してくれてありがとう、と思う。
蒼次郎は目の前の直弘を見る。直弘が好きだという気持ちも、直弘が自分を好きだという気持ちも、変わらないと思える。
きっとこれから何かあっても、話して、話して、わかりあおうと努力できる。
蒼次郎はソファから体を起こした。手を放し、手を伸ばすと直弘が抱きしめてくれる。
「直弘、好きだよ」
「俺もです」
蒼次郎はすっと息を吸う。なんだかとても、安心した。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!!!




