第3章 灰色の告白(富士山大噴火編)
1.
JMFから二年。天海うららは三十二歳になり、アナウンサーとしての信頼感は不動のものとなっていた。日々、仲間たちと平穏な朝を届けること――それが彼女のすべてであり、誇りだった。
しかし、その「当たり前の日常」は、ある日の午後、音を立てて崩れ去った。
――ゴゴゴゴゴ……。
テレビ局の十一階にあるアナウンス室が、不気味な地鳴りとともに激しく揺れた。東京23区で震度5弱。だが、普通の地震ではなかった。直後に窓の外を見たアナウンサーたちが、一斉に息を呑む。
「……嘘、でしょ……」
遥か西の空、日本の象徴である富士山の山頂から、巨大な黒い雲が生き物のように湧き上がり、成層圏へと突き進んでいた。三百年の沈黙を破る、富士山の大噴火。
テレビ局内は、一瞬にしてハルマゲドンのような戦場へと化した。全番組の放送が強制的に中断され、画面は報道特番へと切り替わる。
「特番のメインは天海だ! 早くスタジオへ入れ!」
廊下に怒号を響かせたのは、報道局プロデューサーの黒崎真斗だった。『STARTING!』の黒崎総合演出と同姓だが、こちらは冷徹な現実主義者として知られる報道の鬼だ。
「黒崎P、私が報道のメインを……?」
着の身着のまま報道スタジオへ駆け込んだうららに、黒崎真斗は血走った目で迫った。
「そうだ。今、国民に必要なのは、冷たい事実だけじゃない。パニックを抑える『圧倒的な安心感』だ。お前の声が必要なんだ、天海」
うららは自身の震える手を強く握りしめ、キャスター席に座った。その隣には、すでにヘッドセットを装着した男がいた。『Good night NEWS』の月島渉だ。二年の歳月を経て、二人は日本で最も過酷な生放送の席で再会した。
「天海さん」月島が横顔のまま、低く鋭い声で言った。「未曾有の災害だ。台本も進行表もない。僕たちの言葉一つで、人が死ぬぞ」
「わかっています、月島さん。……いきましょう」
カメラの赤いランプが点灯し、日本の長い、灰色の数日間が始まった。
2.
噴火から二十四時間。
火山灰は偏西風に乗って首都圏を完全に覆い尽くしていた。昼間だというのに空は暗黒に包まれ、街灯や車のヘッドライトだけが灰の中で虚しく光っている。交通網は完全に麻痺し、浄水場や発電所にも影響が出始めていた。
さらに最悪なのは、ネット上に溢れる「有毒ガスで即死する」「明日、関東大震災が連動して起きる」といった真偽不明のデマだった。人々の不安は限界に達し、各地で暴動や買い占めが起き始めていた。
報道スタジオは、不眠不休の熱気と疲労で酸欠状態だった。
「政府からの入電、まだか!」黒崎真斗Pがデスクを叩く。
その時、スタジオの特設席に、一人の男が滑り込んできた。火山学者の佐伯光一だ。かつて噴火の予兆を訴え続けながらも、観光への打撃を恐れる政府に軽視されてきた偏屈な天才だった。
「佐伯先生、現在の降灰予測は?」うららがマイク越しに問いかける。
佐伯はノートパソコンを広げ、淡々と画面をスタジオのモニターに映し出した。
「最悪です。あと六時間で、新宿や渋谷の積灰は十センチを超えます。木造家屋の倒壊が始まり、送電鉄塔がショートして首都圏は完全停電に陥る。……しかし、政府は混乱を恐れて、このデータを公表させようとしない」
インカムから、政府対応にあたる内閣官房長官・佐々木信也の記者会見の音声が流れる。
『――国民の皆様は落ち着いてください。現在の降灰は予測の範囲内であり、直ちに命に別状はありません……』
「嘘をつくな!」スタジオの裏で、誰かが叫んだ。
政府の安全宣言と、目の前にある科学的データ。報道局プロデューサーの黒崎真斗は、視聴率と公共性、そして国家圧力の狭間で激しく揺れていた。
「佐伯先生のデータをそのまま流せば、政府との信頼関係は終わる。だが、流さなければ数百万人が停電の暗闇の中で孤立する……どうする……」
スタジオが重苦しい沈黙に包まれたその時、うららが静かにマイクのスイッチを入れた。
「画面を、私に戻してください」
その瞳には、一点の迷いもなかった。うららの脳裏には、かつて地方局のアナウンサーだった父・恒次郎の言葉が響いていた。――『言葉は、誰のためにあるのか。お上を安心させるためじゃない。目の前で震えている、名もなき一人のためにあるんだ』。
「天海、勝手な真似を――」黒崎真斗Pが制止しようとするが、月島がその腕を掴んだ。
「黒崎さん、天海さんに喋らせてください。僕も、彼女と同じ覚悟です」
カメラがうららを捉える。うららは、カメラの向こうで怯える数千万人の国民を見つめ、ゆっくりと、しかし最も温かく、力強い声で語り始めた。
「テレビをご覧の皆様、お伝えしなければならない真実があります。現在、私たちが独自に入手した火山学のデータによりますと、これから数時間以内に、大規模な停電が発生する可能性が非常に高くなっています」
スタジオに緊張が走る。国を相手に、独自の警告を発したのだ。
「どうか、恐怖を感じないでください。これは、私たちが『命を守るための準備』をするための時間です。今すぐ、お風呂に水を溜めてください。スマートフォンの充電を最大にしてください。そして、今夜は遠くへ避難しようとせず、頑丈な建物の二階以上で、暖かくして過ごしてください。私たちは、ここにいます。電波が繋がる限り、このスタジオから皆様の夜を照らし続けます」
動揺を鎮める、奇跡のようなアナウンスだった。
うららの声に導かれるように、月島がすかさず引き継ぐ。
「佐伯先生、具体的な降灰のタイムラインを解説してください」
「あ、あ、はい。まず、杉並区周辺ですが……」
頑固な佐伯学者も、うららの覚悟に打たれたように、分かりやすい言葉で事実を語り始めた。
テレビを見た人々は、パニックを起こす代わりに、静かにバスタブに水を溜め、スマートフォンの充電を始めた。言葉が、暴動を食い止め、秩序を守った瞬間だった。
3.
噴火から三日目の朝。
不眠不休でマイクの前に立ち続けたうららの喉は、完全に限界を迎えていた。声がかすれ、意識が朦朧とする。
「天海さん、一分だけマイクを切る。これを飲んで」
月島が差し出してきたのは、温かいハーブティーだった。
「月島さん……ありがとう……」
「政府の佐々木官房長官からさっき、連絡があったよ。『テレビ局の独自の報道に、救われた。これより、すべての災害データをオープンにする』と。君の言葉が、頑なだった国家を動かしたんだ」
月島が優しく微笑む。だが、うららの体力は底をつきかけていた。
(もう、声が出ないかもしれない……)
弱気が差したその時、スタジオの副調整室のガラスの向こうに、人影が見えた。
ニュース映像の切り替えの合間に、うららは目を凝らした。
そこにいたのは、報道局のスタッフだけではなかった。
『STARTING!』の総合演出・黒崎が、使い古されたマグカップを掲げて笑っていた。サブディレクターの藤田が、他部署の垣根を越えて物資のダンボールを運んでいる。布施マキが、報道原稿のチェックを手伝い、気象キャスターの氷室と新人リポーターの神谷玲奈が、現場から命がけで集めた最新の気象・災害データを、スタジオのうららの元へと届けていた。
みんな、灰にまみれ、目が真っ赤になりながらも、うららを支えるためにそこにいた。
「天海さん、君は一人じゃない」月島が言った。
「私たちの後ろには、あの優秀な『朝の仕事人たち』がいる。裏のヒーローたちがついているんだ。だから――」
「はい」
うららはハーブティーを飲み干し、かすれる喉を精神力でこじ開けた。
ガラスの向こうの黒崎総合演出が、ゆっくりと手を掲げる。
「5、4、3、2……」
カメラの赤いランプが灯る。
その瞬間、暗黒の火山灰に覆われた首都圏の東の空から、三百日ぶりのような、かすかな、しかし力強い朝の光が差し込み始めた。
うららはカメラをまっすぐに見つめ、最高の、いつも通りの笑顔を作った。
「おはようございます。朝が来ました。『STARTING!』、そして報道特別番組をお伝えしています。皆様、足元にはまだ灰が残っていますが、今日という新しい一日が、始まりました――」
それは、未曾有の災害の中で、笑顔を忘れた世界に「安心」という名の灯火を灯し続けた、言葉の仕事人たちの、勝利の朝だった。
(完)




