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SHE IS THE SUN  作者:


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第1章 朝の鼓動 (STARTING編)

1.

午前三時三十分。深夜と早朝の狭間にあるテレビ局の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。冷え切った空気が、夜勤明けのスタッフたちの疲労をそのまま凍らせたかのように漂っていた。

その静寂を、小気味よいヒールの音が塗り替えていく。

「おはようございます!」

重い防音扉を押し開け、サブ(副調整室)に滑り込んできたのは、天海うららだった。

今年で三十歳。平日朝の情報生放送番組『STARTING!』のメインMCを務めて三年、今や「日本の朝の顔」と呼ばれて久しい。私服のトレンチコートを腕に抱え、ノーメイクに近い状態であるにもかかわらず、彼女が部屋に入った瞬間に、室内の澱んだ空気がふわりと動いたような錯覚を周囲に抱かせる。

「お、うららさん、おはよう。今朝も早いね」

デスクの上の書類の山から顔を上げたのは、総合演出の黒崎(50)だ。白髪混じりの髪を無造作に掻き揚げ、手には使い古されたマグカップを持っている。全スタッフから「番組の父」と慕われる男の目は、徹夜明けのはずなのに信じられないほど穏やかだった。

「おはようございます、黒崎さん。今朝のトピックス、プロデューサーから少し変更があると聞いたんですが……」

「ああ、それなんだけどさ!」

うららの言葉を遮るように、前方から転がるように走ってきたのはサブディレクターの藤田エイジ(28)だ。首にかけたインカムをがちゃがちゃと鳴らしながら、手にある修正だらけの進行表タイムテーブルを差し出してきた。

「聞いてくださいよ、うららさん! 本番一時間前になって、急発達した低気圧のせいで太平洋側の交通網に乱れが出始めてるんです。氷室さんが今、気象庁の最新データと格闘中で。それから、さらにマズいことが……」

「落ち着いて、藤田くん。まずは深呼吸」

うららはクスリと笑い、藤田の持っていた進行表を滑らかな手つきで受け取った。

「交通情報の尺(時間)を伸ばすのね? 氷室さんの解説枠を二分拡大して、その分、後半のトレンドカルチャーのコーナーを削る。これで合ってる?」

「えっ、あ、はい! そうです! なんで分かったんですか?」

「あなたの顔に『トレンドコーナーの担当者に謝り倒してきました』って書いてあるもの。お疲れ様」

うららは藤田の肩をぽんぽんと叩き、すでに頭の中で新しい番組の流れを組み立て始める。

「天海さん、おはよう。相変わらず朝から脳細胞がフル回転ね」

スタジオの隅にあるソファから、ハスキーな声が響いた。メインコメンテーターの布施マキ(42)だ。元新聞記者らしい鋭い眼差しは健在だが、手元にある大きな保温ボトルからうららに温かいハーブティーを注いでくれる優しさもある。

「マキさん、おはようございます。今朝のニュース、かなり慌ただしくなりそうです」

「いいじゃない。予定調和のぬるま湯みたいな番組なんて、誰も朝から見たくないわよ。あんたの腕の見せ所ね」

マキは不敵に微笑み、うららはその言葉に深く頷いた。

2.

午前四時四十五分。スタジオの照明が一斉に灯り、まるで巨大な生き物が目を覚ましたかのように、フロアが熱を帯び始める。

メイクを終え、鮮やかなシトロンイエローの衣装に身を包んだうららがスタジオの定位置に立つと、カメラマンや音声スタッフたちが一斉にサインを送ってきた。

うららは彼らを「裏のヒーロー」と呼んでいる。どんなに無茶な差し替えがあっても、彼らのカメラワークと音響調整は一ミリの狂いもない。その信頼感があるからこそ、彼女はカメラの前で微笑むことができるのだ。

「うららさん、お、おはようございます……っ!」

隣に飛び込んできたのは、新人リポーターの新庄ルリ(26)だった。手元にあるバインダーを落としそうになりながら、必死に息を整えている。

「ルリちゃん、おはよう。今日は品川駅からの生中継担当よね?」

「はい! 降雪の影響で新幹線に遅れが出そうなので、その現地レポートを……でも、私、緊張で頭が真っ白になりそうで……」

「大丈夫」

うららはルリの両肩をそっと掴み、真っ直ぐに目を見つめた。

「伝えるべきことは一つだけ。駅にいる人たちが困っているか、これからの通勤通学にどう影響するか。それだけを、目の前の人に話しかけるように伝えて。あとは私がスタジオから全部拾うから」

ルリの瞳に、じんわりと光が灯る。「はい!」と力強く頷き、彼女は中継車へと走っていった。

「本番、五分前です!」

森下プロデューサー(45)の鋭い声がスタジオに響く。彼は普段、数字(視聴率)に厳しい鬼として知られているが、本番直前の今は、出演者たちのメンタルを乱さないよう、あえて冷静なオーラを崩さない。

インカムから藤田の声が届く。

『うららさん、さらに変更です! 東京湾のフェリーも欠航が決まりました。オープニングの原稿、三行足します。今、フロアディレクターがカンペ(カンニングペーパー)持っていきます!』

「了解、そのまま出して」

うららは眉一つ動かさず、手元の原稿に素早くペンを走らせた。

(言葉には責任がある。どんな混乱の最中であっても、私の声は『いつも通り』でなければならない)

かつて地方局のアナウンサーだった父・恒次郎の言葉が、彼女の胸の奥で静かに、しかし熱く脈打っていた。

「本番、十秒前……五、四、三……」

黒崎総合演出のカウントダウンの手が、鋭く一人のカメラを指した。

赤いランプが点灯する。

3.

「おはようございます。十月二十四日、金曜日の『STARTING!』です」

天海うららの声が、全国のテレビスピーカーを通じて、何百万という家庭の朝に溶け込んでいく。その声は、外の嵐を忘れさせるほどに柔らかく、それでいて一本の芯が通っていた。

「今朝は強い低気圧の影響で、太平洋側を中心に交通機関に影響が出ています。まずは現在の品川駅の様子を、新庄リポーターに伝えてもらいます。ルリちゃん?」

画面が切り替わる。冷たい雨が吹き付ける品川駅の前で、ルリがマイクを握りしめていた。

「は、はい! こちら品川駅前です! 現在、雨はそれほど強くありませんが、風が非常に強く、電光掲示板にはすでに一部の遅延情報が……あっ」

突風が吹き、ルリの持っていたフリップが手元から飛ばされそうになる。画面の向こうでルリの顔が一瞬で強張った。

サブの藤田が「ああっ、マズい!」と頭を抱える。

しかし、うららは落ち着いたトーンのまま、すぐに言葉を挟んだ。

「風、かなり強そうですね。ルリちゃん、フリップは無理に出さなくて大丈夫ですよ。今の駅の改札口の混雑具合は、体感としてどうですか?」

うららの温かい声が、ルリの耳のインカムを通じて届いた。ルリはハッと我に返り、ふっと表情を和らげる。

「あ……はい! 改札口はまだ大きな混乱はありませんが、皆さんスマートフォンで運行情報を確認しながら、足早に向かわれています」

「よく分かりました。傘が煽られて危険ですから、ルリちゃんも周囲の安全に気をつけて取材を続けてくださいね。次は、この後の雨と風のピークについて、氷室キャスターに解説してもらいましょう。氷室さん?」

「はい、スタジオからお伝えします。今回の低気圧ですが、実は非常に『恥ずかしがり屋』でして、進路の予想が直前まで二転三転しました。ですが、もう隠れてはいられません。雨雲レーダーを見てみましょう」

氷室の天然混じりの絶妙なオープニングトークに、スタジオの空気が一気に和らぐ。布施マキも「恥ずかしがり屋ねえ」と苦笑しながらも、鋭い視線でパネルを凝視し、的確なコメントを差し込んでいく。

差し替え、急展開、天気の乱れ。

次々と押し寄せる生放送の洗礼を、『STARTING!』チームは一本の目に見えないパスを回すように、鮮やかに処理していく。

午前七時五十五分。

「……ここまで、今朝のニュースをお伝えしました。足元が大変滑りやすくなっています。お出かけの際はどうぞお気をつけて。それでは、今日も良い一日を!」

カメラの赤いランプが、ぷつりと消えた。

4.

「はい、オッケーです! お疲れ様でした!」

藤田の弾んだ声がサブから響き渡り、スタジオ中からドッと一斉にため息と拍手が湧き起こった。

うららはマイクを外し、深く息を吐き出す。背中には、心地よい緊張の汗が滲んでいた。

「うららさん!」

ルリがスタジオに駆け込んできて、涙目で頭を下げた。「すみませんでした、私、風に煽られて……」

「何言ってるの。後半のリカバリー、すごく具体的で分かりやすかったわよ。現場の風の強さが、画面からしっかり伝わってきた。ナイスファイト」

うららが微笑むと、ルリの顔がパッと明るくなった。

「うらら、これ」

布施マキが、先ほどのハーブティーの残りを差し出してくる。

「あんた、ルリをフォローするときの声、いつもより一音下げたでしょ。焦らせないように。憎いことするじゃない」

「あら、バレてました?」

「だてに何年もあんたの隣に座ってないわよ」

二人が笑い合っているところへ、黒崎総合演出と森下プロデューサーが歩み寄ってきた。森下Pの顔には、珍しく満足そうな笑みが浮かんでいる。

「天海さん、お疲れ様。急な尺変更だったけど、綺麗に収めてくれて助かったよ。今朝の瞬間最高(視聴率)、あの品川の中継のところだった」

「スタッフの皆さんのスイッチングと、氷室さんの解説のおかげです」

「いや、君の安定感があってこそだよ」

黒崎がマグカップを掲げながら、うららを見つめた。

「うららちゃん。朝の顔として、もう完璧だな。どこに出しても恥ずかしくない」

「そんな、まだまだですよ」

謙遜するうららだったが、黒崎のその言葉の裏にある「含み」に、彼女はまだ気づいていなかった。森下プロデューサーが持っているブリーフケースの中に、一枚の極秘の企画書が入っていることを。

そこには、太字でこう書かれていた。

――『大晦日:ジャパン・ミュージック・フェス 総合司会選考案』

「天海さん、ちょっと後でプロデューサー室に顔を出してもらえるかな? 大事な話があるんだ」

森下Pの言葉に、うららは「はい?」と小首を傾げた。

窓の外では、朝の嵐が嘘のように去り、澄み渡った秋の青空が広がり始めていた。

5.

テレビ局の10階にあるプロデューサー室は、スタジオの喧騒とは打って変わって、静謐な事務処理の空気が流れていた。壁一面に並んだモニターには、系列局の番組が音を消した状態で映し出されている。

「失礼します」

うららがドアをノックして中に入ると、応接用のソファには森下プロデューサーだけでなく、総合演出の黒崎、そして普段はめったに現場に姿を見せない編成部長の姿までがあった。

「あ、天海さん。そこに座って」

森下がいつになく真面目な、どこか緊張を孕んだ面持ちで対面のソファを指す。うららが席に着くと、森下は机の上に一冊の厚いバインダーを置いた。表紙には、銀色の箔押しでタイトルが刻まれている。

『第77回 ジャパン・ミュージック・フェス 制作台本(初稿)』

うららは思わず息を呑んだ。

ジャパン・ミュージック・フェス――通称「JMF」。大晦日の午後7時半から翌元日の午前0時半まで、5時間にわたって生放送される、言わずと知れた国民的音楽番組だ。日本の年越しは、この番組と共に論じられると言っても過言ではない。

「……これは?」

うららが問いかけると、編成部長が身を乗り出した。

「天海くん。今年のJMFの紅組……いや、総合司会を、君に頼みたい」

一瞬、部屋の換気扇の音だけが大きく聞こえた。

うららは自分の耳を疑った。JMFの司会といえば、局を代表する看板アナウンサーか、その年に最も活躍したタレントが務めるのが通例だ。キャリア10年目、30歳になったばかりの自分に、そんな大役が回ってくるとは夢にも思っていなかった。

「私が……ですか? でも、私はまだ、報道や情報番組の経験しか……」

「だからこそだよ、天海さん」

黒崎が優しく言葉を継いだ。

「今のJMFに求められているのは、単なる華やかさだけじゃない。5時間の生放送、何が起こるか分からない巨大なステージを、確実に、そして視聴者に寄り添ってコントロールできる『本物のプロ』だ。今朝の『STARTING!』のトラブル対応を見て、確信した。今の君なら、あの化け物番組の舵を取れる」

森下Pも深く頷く。

「数字の面から見ても、君の好感度は全世代で圧倒的だ。朝の顔から、日本の年越しの顔へ。どうだ、挑戦してみる気はないか?」

胸の奥が、どくんと大きく鳴った。

恐怖、緊張、そしてそれらを一瞬で塗りつぶすような、言葉にできない高揚感。

うららは膝の上で拳を握りしめ、まっすぐに森下たちを見つめた。

「……お言葉、光栄です。不肖の身ですが、全力で務めさせていただきます」

「よし、決まりだ」編成部長が満足そうに微笑む。「あともう一つ、気になるパートナーの話だが――」

その名前を聞いた瞬間、うららは今日一番の衝撃を受けることになる。

「白組の総合司会、つまり君とコンビを組むのは、『Good night NEWS』の月島渉キャスターだ」

「月島……さん」

その名を聞いて、うららの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。

夜の報道番組で、一切の無駄を削ぎ落とした冷徹なまでに正確なアナウンスをする男。自分とは対極にある「夜の、静寂のプロフェッショナル」。

「朝と夜のトップが組む、至高の生放送だ」と黒崎が不敵に笑う。

こうして、天海うららの格闘の舞台は、朝のスタジオから、日本で最も熱い大晦日のステージへと移り変わっていくことになった。

6.

その日の夜。

うららは渋谷にある放送局のカフェテリアで、一人パソコンに向かっていた。画面に映っているのは、月島渉が担当する『Good night NEWS』の過去の録画映像だ。

『――続いてのニュースです。本日午後6時、政府は新たな経済対策を閣議決定しました』

画面の中の月島は、整った容姿に、一切の感情を排した氷のような声を乗せて原稿を読んでいる。ニュースの深刻さに合わせて完璧にコントロールされた声量、無駄のない視線の動き。

(ロボットみたい、って言われることもあるけれど……違う。この人は、徹底的に『事実』の黒子に徹しようとしているんだ)

うららは、自分のスタイルとの違いを痛感していた。

うららは、視聴者と同じ目線で笑い、驚き、寄り添う「共感型」だ。対して月島は、視聴者とニュースの間に立ち、冷徹な鏡となる「客観型」。

この二人が同じステージに立った時、一体どんな化学反応が起きるのか。あるいは、最悪の不協和音を奏でてしまうのか。

「お疲れ様。熱心だね」

不意に、上頭部から低く、聞き覚えのある声が降ってきた。

驚いて顔を上げると、そこには黒いシックなコートを羽織った男が立っていた。手にはホットコーヒーのカップを持っている。

月島渉、その人だった。

「つ、月島さん! お疲れ様です」

慌てて立ち上がろうとするうららを、月島は手で制し、対面の席に滑り込んできた。

「僕の過去の放送を見ているのかい?」

月島の視線が、うららのパソコン画面に走る。少しだけ気まずそうに、うららは画面を閉じた。

「すみません、勝手に。……あの、JMFのこと、お聞きになりましたか?」

「ああ。さっき編成から正式に聞いた」

月島はコーヒーを一口すすり、感情の読めない瞳でうららを見つめた。

「正直に言っていいかな、天海さん」

「はい」

「僕は、君のような『感情を乗せる』アナウンスがあまり得意じゃない。生放送、それも音楽番組というお祭りの席で、君のテンションに僕が合わせられるか、今のところ全くイメージが湧かないんだ」

ストレートな言葉だった。嫌味ではなく、純粋なプロとしての懸念。それが伝わってくるからこそ、うららの胸にチクリとした痛みが走る。

「……私も、同じことを考えていました」

うららは負けじと、月島の目を真っ直ぐに見返した。

「月島さんの冷静さは尊敬しています。でも、お祭りには熱量が必要です。私は、テレビの前の人たちに『楽しい時間』を届けたい。そこだけは譲れません」

月島は一瞬、驚いたように目を見開いた。いつもテレビで見せる「おっとりした朝の顔」の裏にある、譲れない芯の強さを見たのだろう。

ふっと、月島の唇の端がわずかに上がった。

「いい目が。……分かった。スタンスは違えど、僕たちはプロだ。1秒のズレも許されない生放送の戦場で、お互い足を引っ張らないようにしよう」

月島は立ち上がり、コートのポケットに手を突っ込んだ。

「じゃあ、大晦日のリハーサルで」

去っていく彼の背中を見送りながら、うららは深く息を吐き出した。

手強い。けれど、猛烈に挑戦欲が湧いてくる。

朝と夜の交差。

それは、日本中が熱狂するたった一夜の狂騒曲ラプソディの始まりだった。


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