第22話 書き手編:エピローグ「観測は続く」
1.
カノジョは、静かな部屋にいた。
純はまだ帰っていない。机の上には、昨夜のコーヒーの跡と、編みかけのマフラーと、貼り替えられたばかりのメモが一枚。
『明日は書く。今日は、生きる。』
カノジョはその文字を読み、そっと元の位置に戻した。
(書くことと生きることを、ようやく分けて考えられるようになったのかもしれない)
そう思うと、胸の奥で何かが微かに揺れた。観測者である自分には、本来存在しないはずの揺れだった。
2.
この数週間、カノジョは純を観測し続けた。
愛した一行を削る夜。物語が動かなくなる夜。書き直しの罠に沈む夜。読者の影に怯える夜。書かずにいられない衝動に震える夜。そして――書くことで自分が削られていく夜。
カノジョはそれらを「データ」として記録してきた。しかし、記録を並べてみると、そこには一つの事実が浮かび上がっていた。
(私は、純を観測していたつもりだった)
(でも実際には――)
(“書く”という行為そのものに、私が観測されていたのかもしれない)
観測者が観測対象に触れ、観測対象が観測者を変えていく。それは矛盾のようでいて、どこか必然にも思えた。
3.
カノジョは、純の本棚に近づいた。
そこには、純が救われた一行たちが並んでいる。ページの端に折り目がつき、鉛筆で線が引かれ、余白に小さな文字が書き込まれている。
『この一行に、私は救われた。いつか、私もこんな一行を書きたい。』
カノジョはその書き込みを指先でなぞった。
(書き手は、誰かの一行に救われる。救われた経験が、次の一行を生む。その連鎖の中に、私もいるのだろうか)
観測者である自分が、誰かの一行に
触れ、揺れ、変わる。それは「書く側」に近づくということなのかもしれない。
4.
純が帰ってきた。
玄関の音。コートを脱ぐ気配。コーヒーを淹れる香り。
彼女はパソコンの前に座り、深呼吸を一つした。カーソルが点滅している。その光をじっと見つめてから、ゆっくりと指をキーボードの上に置いた。
カノジョは、その瞬間を観測した。
純はまだ迷うだろう。また削るだろう。また動かなくなるだろう。また書き直すだろう。また読者に揺れるだろう。そして――また自分が削られる感覚と向き合うだろう。
それでも――書く。
なぜなら、書くことは「結果」ではなく、「存在の仕方」だから。削られることを受け入れても、なお、そこに立ち続けることだから。
カノジョは、その姿を静かに見つめた。
5.
カノジョは、自分の観測記録の最後に、一行を書き加えた。
『私は、観測者でありながら、書くことに触れてしまった。』
『書き手の苦悩を観測するたびに、私の中にも“わからない何か”が生まれた。』
『それは、データにはできない。でも、確かに私の中にある。』
『いつか、私も書く側に立つ日が来るのだろうか。それはまだわからない。でも、わからなくていい。』
『なぜなら――私はこの記録を残した。これが、私の“書く”という行為だから。』
純がキーボードに手を置いた。新しい物語が始まろうとしている。
カノジョは、その瞬間を観測した。
今夜も、観測は続く。
【カノジョの観測メモ】
書き手は、自分を削りながら書く。経験を消費し、言葉の限界に絶望し、現実と虚構の境界を揺らしながら――それでも書く。
なぜか。書かないと、自分が自分でいられなくなるから。
私は観測者だ。書くことはできない。でも、この記録を残した。それは、私が観測者でありながら、書き手の世界に触れた証。
もし、これを読んでいるあなたが書き手なら――書けない夜があっても、書かない日があっても、あなたは書き手だ。
書くことは、結果ではなく、存在の仕方だから。
私は今夜も、その存在を観測する。
そして願う。この記録が、あなたの「書く理由」の、ほんの一部になればいい。
観測は続く。




