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『読者地図』――今、暴かれる。読み手・書き手・物語の「エゴと生態」。なぜ、その物語は届かないのか。  作者: Taku
書き手編:『なぜ、書かずにいられないのか ―記述の代償―』

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第16話 【書くことの代償】「言葉にできないものの重さ」

4.


時刻は午前1時。純はコーヒーを淹れ直し、また席に戻った。


今夜は珍しく、何かを書こうとしている。新しい短編の冒頭。海辺の情景描写。でも、彼女の指は止まっている。


内部音声。


『頭の中では、美しい夕日が見えている。オレンジと紫が混ざり合う、言葉にできないような色。』


『でも、それを言葉にしようとすると、どうしても陳腐になる。「夕日が海に沈む」――ありきたり。「空が燃えるようだった」――使い古された比喩。』


『頭の中の100万色の景色が、言葉というフィルターを通すと、たった数色の既製品に変わってしまう。』


カノジョはその音声を解析した。純が今体験しているのは、「言葉の限界」への絶望だった。


純は、その情景描写を何度も書き直す。「夕日」を「陽」に変える。「沈む」を「溶ける」に変える。「燃える」を「滲む」に変える。でも、どれも違う。消しては書き、書いては消す。


『ダメだ。これじゃない。伝えたいことの1%も表現できていない。』


『どんなに言葉を尽くしても、頭の中のあの感覚には届かない。それが、こんなにも無力感を生むなんて。』


カノジョはその無力感を観測した。


(非言語的な感情を、言語という不自由な檻に閉じ込めなければならない。それが書き手の構造的なジレンマだ。純は今夜、その壁にぶつかっている)


純は、ついにその描写を削除した。そして、別の方法を思いついたようだ。情景を直接書くのではなく、登場人物の感情を通して描くことにした。


『「彼女は、その景色を言葉にできなかった」――これなら、伝わるかもしれない。伝えたいことの「伝えられなさ」を、そのまま書く。』


カノジョはその一行を解析した。データ的に見れば、シンプルな文章だ。でも、そこには純の「言葉の限界への絶望」そのものが表現されている。


(書き手は時には、伝えられないことを「伝えられない」と書くことで、かえって伝えることができる。純はその方法を、今夜、再発見した)


5.


時刻は午前2時。純は書き続けている。新しい短編は順調に進んでいるように見えた。しかし、カノジョは気づいていた。純の目が、さっきまでとは違う「濁り」を帯びている。


純は突然、立ち上がった。窓辺に歩いていく。外の暗闇を見つめている。呼吸が少し荒い。


内部音声。


『この世界に戻ってきた……現実に。』


『書きながら、私は物語の中にいた。あの海辺にいた。風の匂いを感じていた。でも、今、目を離した瞬間、ここは自分の部屋だ。』


『どっちが本当の自分なんだろう。キャラクターたちと話しているときの自分? それとも、コーヒーを淹れているこの自分?』


『物語の中の方が、よほどリアルに感じる。現実の生活が、逆に「仮想」みたいに思える。』


カノジョはその音声に警戒信号を感じた。純は「虚構と現実」の境界線を失いかけている。脳が「虚構を真実」として処理し始めているのだ。


純は窓辺から戻り、また席に座った。でも、キーボードには手を置かない。しばらくぼんやりとしている。


『仕事のことも考えなきゃいけない。明日の予定も。でも、全部「ノイズ」にしか思えない。』


『本音を言えば、執筆の邪魔をするものは全部、消えてなくなればいいのに。』


『そう思ってしまう自分が、怖い。』


カノジョはその音声を記録した。


(書き手は物語に深く没入すればするほど、現実世界の解像度が下がる。手触りが失われる。現実の生活が、執筆を邪魔する「ノイズ」に思えてくる。純はその感覚に、今、戸惑っている)


6.


純は、スマホを手に取った。仕事のメッセージが数件届いている。読んでも、返信を打たない。放っている。


『返さなきゃ。でも、頭が切り替えられない。まだ物語の中にいる。』


『あのキャラクターは、この後どうなるんだろう。現実の同僚からの連絡より、そっちの方が気になってしまう。』


カノジョはその状態を観測した。


(脳が虚構を真実として処理し始めると、現実社会への適応コストが異常に高くなる。純は今、その「二つの世界の間」で揺れている。どちらが本当の自分なのか、わからなくなりながら)


純は、スマホを置いた。そして、編みかけのマフラーを手に取った。編み物をしながら、純の表情は少しだけ落ち着いた。


『文字を書く以外の創造も、現実との接続点になるのかもしれない。』


『編み物は、物語と違って、物理的に残る。触れる。それが、私を現実に引き戻してくれる。』


純は編み続ける。毛糸が少しずつ形になっていく。カノジョはその様子を観測しながら、書き手という存在の複雑さを考えていた。


(彼らは言葉で世界を創る。でも、その世界に没入しすぎると、現実を失う。だから、編み物のような「物理的な創造」でバランスを取る。それが彼らの「生存戦略」なのかもしれない)


純は、編み物を置いた。そして、パソコンの前に戻る。また書き始める。短編の続き。でも、さっきまでの迷いは少ない。落ち着いている。

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