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『読者地図』――今、暴かれる。読み手・書き手・物語の「エゴと生態」。なぜ、その物語は届かないのか。  作者: Taku
書き手編:『なぜ、書かずにいられないのか ―記述の代償―』

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第13話 【読者への迎合】「二つの正義の衝突」

3.


時刻は午前0時を回った。純は書き直したシーンを読み返している。先ほどまでよりも「親切」な文章になっている。説明が増え、感情の動きが丁寧に言語化されている。データ的に見れば、「読みやすさ」の指標は上がった。


しかし――カノジョには違和感があった。純らしさが、薄れている。彼女の文章の特徴だった「余白」が失われ、隙間がなくなっている。読者が想像する余地が、説明によって埋められている。


純も、その違和感に気づいているようだった。


『なんか違う。これ、自分の文章じゃないみたい。』

『誰かのために書いている気がする。誰のために? 読者のために?』

『でも、読者のために書くことが悪いことなのか?』


カノジョはその葛藤を「正義と正義の衝突」と表現することにした。書き手は二つの正義の間で板挟みになる。


一つは「表現の純粋性」――自分が本当に書きたいもの。自分にしか見えていない真実。それを形にすること。純はこの正義を大切にしてきた。彼女の文章の魅力は、ここから生まれていた。


もう一つは「承認と生存」――誰にも読まれない物語に意味はあるのか。理解されなければ、伝わらない。伝わらなければ、書いた意味があるのか。書き手として生きていくために、読者という存在は無視できない。


純は両方に誠実であろうとしている。でも、その両立は難しい。どちらかを選ぶとき、もう一方を「裏切る」ことになる。その感覚が、彼女を苦しめている。


『この展開、読者はもっとハッピーな終わり方を望んでいるかもしれない。でも、物語が求めている結末はこれじゃない。』


『読者の期待に応えることが、間違っているとは言えない。でも、自分の書きたかったものと違うものを書くことは、自分を裏切ることになる。』


カノジョはその音声を解析した。純は読者の顔色を伺う自分の行動に嫌悪感を覚えている。でも同時に、読者を無視することもできない。その板挟みの中で、彼女の筆はどんどん遅くなっている。


4.


純は、スマホを手に取った。またSNSを開く。さっきのコメントをもう一度読み返す。『もう少し説明が欲しかった』――その言葉が、彼女の中で再生されている。


『この人は、私の作品を「わかりづらい」と言っている。つまり、私の書き方は「わかりやすくない」ということだ。』


『じゃあ、わかりやすくすればいいのか? でも、わかりやすくすることが良いことなのか?』


『本当に良いものなら、媚びなくても伝わるはずじゃないか。理解してもらうためにレベルを下げるようなことは、読者の知性を過小評価していることになるのでは?』


カノジョはこの音声を「理想と現実のギャップ」と記録した。


純の頭の中には、「本当に良いものなら、特別な努力をしなくても伝わる」という理想がある。でも、現実はそうではなかった。彼女が自分の信じるままに書いても、すべての読者に伝わるわけではない。伝わらない読者もいる。その「伝わらなさ」を、純は自分の表現力の不足と受け取っている。だが同時に、「読者に合わせることは自分の表現を濁すこと」とも考えている。


(これは、「読み手を信じたい」というジレンマだ)


カノジョはそう分析した。書き手は読者のことを考えずに書くことはできない。しかし、読み手のニーズに応えることが、かえって読み手の知性を軽視しているように感じられる。この矛盾が、純を苦しめる。


純はスマホを裏返しにして机の上に置いた。SNSを閉じた。通知をオフにした。カノジョはその行動を「読者の声からの一時的な離脱」と観測した。


5.


純は、書きかけのシーンをもう一度読み返した。先ほど書き直した部分。説明を増やし、わかりやすくした部分。彼女はその文章をじっと見つめている。カノジョはその時間を計測した。約2分間、一字も読まず、ただ画面を見つめていた。


『これ、自分の言葉じゃない。誰かの言葉を借りている。』


『読者の顔色を伺って書いた文章は、どこかで自分を偽っている。読者はその偽りに気づくんじゃないか。』


『だったら、自分が信じるものを書く方がいい。伝わらなくても、それが自分のすべてだから。』


純の指が動いた。書き直した部分を削除する。Backspaceを何度も叩く。その速度は速い。迷いがない。先ほどまで悩んでいたのが嘘のように。


そして、元の展開に戻した。読者を驚かせるかもしれない選択。でも、物語が求めている選択。キャラクターが選ぶべき選択。純はそれを迷わず書いた。


カノジョはその変化を観測した。純は自分の「毒」を戻したのだ。彼女の個性。彼女にしか書けないもの。多くの読者が受け入れないかもしれない。批判されるかもしれない。でも、それが彼女の「核」だった。


『これでいい。これが私の書きたかったもの。』


『読者がどう思うかは、読者が決めること。私は私の誠実さを守る。』


カノジョはその言葉を記録した。書き手の「誠実さ」とは、誰に誠実であるかという優先順位の問題だ。純は今夜、読者への誠実さよりも、作品への誠実さを選んだ。自分の内なる真実を裏切らないことを選んだ。

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