第12話 【読者への迎合】「読者の声に揺らぐ夜」
1.
カノジョは、また同じ部屋にいた。
時刻は午後11時。純は今夜もパソコンの前に座っている。書き始めてから約1時間。すでに800文字ほど進んでいる。データ的に見れば良好なペースだ。指の動きも軽やかで、呼吸も安定している。今夜は順調に進むだろう――カノジョはそう予測した。
しかし、その予測は30分後には外れることになる。
純の手が、突然止まった。スマホが震えたのだ。通知を見る。SNSの画面を開く。そこには、先週投稿した短編小説へのコメントが表示されている。『面白かったです!』『続きが気になります』『このキャラ、好きです』――ポジティブなコメントが並んでいる。
純はそのコメントを読んで、少しだけ笑った。口元がほんの少し上がる。カノジョはその変化を観測した。嬉しそうだ。承認された喜び。それはデータ的にも、書き手のモチベーションを向上させる要因の一つだ。
でも――その直後、純の表情が曇った。
別のコメントを読んでいる。『もう少し説明が欲しかったかも』『ここがちょっとわかりづらかった』。否定的ではない。でも、課題を示唆する言葉。純はその画面をしばらく見つめていた。
『この人、もしかしたら正しいのかもしれない。あの部分は確かに説明不足だった。』
『でも、説明を増やしたらリズムが崩れる。どうすれば……』
カノジョはその内部音声を観測しながら、純の心の中で何かが「引っかかり」始めたのを感じた。それは、今夜の執筆とは直接関係のない、過去の読者の声だった。でも、その声が彼女の中で再生され、今書いている文章に影響を与え始めている。
純は、書きかけのシーンを読み返した。強調すべき箇所に、さらに説明を加え始める。
カノジョはその変化を数値で捉えた。さっきまでの純の文体は、簡潔でリズミカルだった。語彙のバリエーションも豊かだった。しかし今、彼女は同じ意味をより多くの言葉で説明しようとしている。「わかりやすさ」を優先した結果、文章の密度が低下している。
(これは、読者の声を聞きすぎたのか)
カノジョはそう記録した。書き手は時に、読者の顔色を伺いすぎて、自分の文章を歪めてしまう。
2.
純は、書き進めていたシーンを削除した。Backspaceを連打する。約300文字。そして、別の展開を書き始める。登場人物の選択を変えた。より多くの読者が共感しそうな選択に。
カノジョはその変更を解析した。元の展開は、登場人物の性格から見て自然な流れだった。でも、やや「痛み」を伴う選択だった。一部の読者は感情的に受け入れられないかもしれない。純はその「受け入れられないかもしれない」リスクを避けたのだ。
(これは、「嫌われるのを恐れた結果」か)
カノジョは内部音声に耳を澄ませた。
『この選択、読者はどう思うだろう。もし自分が読者だったら、ここで引っかかるかもしれない。』
『いや、そんなことはない。自分が書きたいものを書けばいい。でも、書いたものを読むのは自分じゃない。読者だ。』
『読者が離れたらどうしよう。評価されなかったらどうしよう。』
カノジョはその音声を「承認欲求と表現欲求の衝突」と記録した。書き手には二つの引力が常に働いている。一つは、自分が書きたいものを追求する力。もう一つは、読者に認められたいという力。この二つが調和しているときは問題ない。しかし、衝突したとき――書き手は最も苦しむ。
純はその衝突の只中にいた。彼女の指は迷っている。キーボードの上で震えている。
――『中継セクター観測保管庫』――
※最下層にノイズとして格納
観測LOG_026:『書き手・純の後ろ姿』
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