第5話 偽りの祈りと追跡の果て
エリナの魔力が乱れ始めてから、一ヶ月が経った。
初夏の陽射しが王都を包んでいるというのに、俺の心には冷たい焦燥が居座り続けていた。彼女の不調は改善されるどころか、新たな問題が次々と表面化していた。
体重の減少は、もはや隠せないレベルになっていた。白い聖女見習いの衣装が、以前にも増してぶかぶかに見える。頬の肉が落ち、鎖骨が浮き出て見えるようになった。
そして、何より気になるのは——彼女の笑顔だった。
「カミシロ様、おはようございます」
朝の祈祷を終えたエリナが、控え室から出てくる。その口元には、完璧な角度の微笑みが浮かんでいた。
俺が何かを提案すると、彼女は三秒ほど沈黙し、それから寸分の狂いもない角度で口角を上げ、「ありがとうございます」と答える。まるで精巧に作られた陶器の人形のように。
彼女は、俺を心配させまいと必死に気丈に振る舞っているのだ。自分の不調で俺に迷惑をかけていると自責し、せめて笑顔だけは絶やさないようにと、俺の期待に応えようと無理をしている。
なんていじらしく、健気な子だろう。俺がそばにいて支えてきたからこそ、ここまで強く振る舞えるようになったのだ。
◇
だが、その頃から、妙なことがいくつか重なるようになった。
祈祷の記録表に、小さな誤差が出始めた。エリナの祈祷時間が、予定より数分短い日が、週に一度ほど現れるようになったのだ。
「エリナさん。今朝の祈祷、時間が少し短かったようですが」
俺が問いかけると、エリナは一瞬だけ目を泳がせた。
「そう、でしたか……? 最後の祈りの言葉を、少し早口で言ってしまったのかもしれません。気をつけます」
彼女は、いつもの完璧な笑顔でそう答えた。
またある日は、首飾りの光が、僅かに乱れることがあった。祈祷室にいるはずの時間帯に、数秒だけ位置情報がぼやけるのだ。
「魔石の調子が悪いのか……?」
俺は何度か、自分の持つ対の魔石を確かめた。
追跡の術式は、店主によれば非常に安定したもののはずだった。にもかかわらず、エリナが祈祷室にいるはずの時間帯にだけ、光がふっと弱まり、すぐに戻る。その現象が、何度か繰り返された。
偶然だと、自分に言い聞かせた。
だが、ある晩のことだった。
俺は自室で報告書を書いていた。エリナの一日の様子。顔色、魔力の状態、人間関係。いつも通りの作業だった。
胸元の青い魔石が、ふっと揺れた。
「……?」
今は、夜の祈祷の時間だ。彼女は祈祷室にいるはずだ。位置は——祈祷室から、数歩分だけずれた場所を指している。
扉のそば。祈祷室を出入りする位置だ。
「祈祷中に、扉付近に立つ理由があるのか?」
眉をひそめたのも、一瞬だけだった。
「……確認しておくか」
俺は席を立ち、胸元の魔石を軽く押さえた。
これは、ただの確認だ。彼女が規則を破るはずがないとわかっていても、もし何かあれば、守る必要がある。
俺は、自分の行動をそう位置づけた。
◇
夜の回廊は静かだった。祈祷室へ向かう途中、すれ違う者はいない。
祈祷室の前の角を曲がったとき、俺は足を止めた。
扉の少し手前に、白い影があった。
エリナが、いた。
祈祷室の扉には背を向け、壁に額をつけるようにして、じっと立っていた。両手は胸の前で組まれ、目は固く閉じられている。
「……エリナさん?」
思わず名前を呼んでいた。
エリナはびくっと肩を揺らし、慌てて振り返った。
「あ……カミシロ様……」
「どうしたんですか。祈祷の途中でしょう?」
「す、すみません……少し、気分が悪くなってしまって。吐き気がして……」
「体調が優れないなら、なおさら休まなければいけません。どうして一人でここに?」
「ご迷惑をおかけしたくなくて……」
エリナは、いつものように、申し訳なさそうに笑った。
「もう少ししたら、戻ろうと……」
俺は彼女の額に手を当てた。熱はない。息も乱れてはいない。
「無理をしてはいけません。今日は祈祷を早めに切り上げましょう」
「で、でも、神様への祈りを中断するなんて——」
「神は、あなたの身体を第一に考えるはずです」
俺はきっぱりと言った。
「あなたが倒れてしまっては、元も子もない。中途半端な祈りを捧げるよりも、明日、万全の状態で祈る方がずっといい」
エリナは、三秒ほど沈黙した。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい。カミシロ様がおっしゃるなら」
◇
それから数日後のある朝、エリナは朝食の席で静かに口を開いた。
「カミシロ様。明日の午後、祈祷の時間を少し延長して、東の旧神殿へ行ってもよろしいでしょうか」
「旧神殿へ?」
俺は手を止め、彼女を見た。
「はい。最近、少し魔法の調子が戻ってきたように感じるのです。ガルバン導師が、古い神殿の静謐な空気の中で瞑想すれば、より深い感覚を掴めるかもしれないと……」
エリナの目は、俺を真っ直ぐに見ていた。その瞳には、かつてのようなおどおどした色はなく、真剣な光が宿っている。
俺は少し考えた。旧神殿は現在の本神殿から少し離れた場所にあるが、敷地内には違いない。何より、彼女が自分から魔法の向上に意欲を見せていることは喜ばしい。
「わかりました。では、明日の午後は俺も——」
「あ、あの!」
エリナが、珍しく俺の言葉を遮った。
「ガルバン導師から、一人で瞑想するようにと言われているのです。誰かの気配があると、感覚が研ぎ澄まされないからと。……ですから、旧神殿の入り口までお送りいただければ、あとは一人で……」
彼女は少し目を伏せ、申し訳なさそうに言った。
その瞬間、俺の胸の奥で、何かが冷たく粟立った。
彼女が俺の同行を「明確に」拒んだのは、これが初めてだった。
図書室での、あの法務官の言葉が、彼女に何かを吹き込んだのだろうか。
いや、考えすぎだ。彼女は純粋に、聖女としての務めを果たそうとしているだけだ。
「……なるほど。そういうことなら、仕方ありませんね」
俺は穏やかに微笑んだ。
「わかりました。では、明日の午後は、入り口までお送りしましょう。終わる頃に、また迎えに行きます」
「ありがとうございます、カミシロ様」
エリナは、完璧な角度で口角を上げ、ふわりと微笑んだ。
◇
翌日の午後。
約束通り、俺はエリナを旧神殿の入り口まで送り届けた。
「では、二時間後に迎えに来ます。無理はしないように」
「はい。行ってまいります」
エリナは小さく頭を下げ、古びた石造りの神殿の中へ消えていった。
俺は神殿の入り口から少し離れた木陰で、待機することにした。胸元の青い魔石に意識を向ける。微かな温もりと、一定のリズムで脈打つ光。彼女は確かに、旧神殿の中にいる。
一時間が過ぎた頃。
ふと、胸の魔石の脈動が変化した。一定だったリズムが崩れ、光が微かに揺らいでいる。
「……?」
俺は魔石を取り出し、集中した。追跡魔法が示す彼女の位置が、ゆっくりと、だが確実に移動し始めている。
旧神殿の中を歩き回っているのか? いや、違う。
位置が、旧神殿の敷地から外れようとしている。
「どういうことだ……?」
俺は立ち上がり、旧神殿の入り口へ向かった。扉を開け、中へ入る。静まり返った空間に、彼女の姿はない。
魔石が示す方向は、神殿の裏手。そこには、王宮へと続く秘密の通路があるはずだ。
まさか。
俺の脳裏に、図書室での法務官の顔が浮かんだ。
『記録を残しなさい。感情ではなく、事実を。誰が、いつ、何を言い、どう行動したか。それは必ず、あなたを守る盾になります』
あの男の言葉に唆されて、彼女は王宮法務院へ向かっているのか?
俺から、逃げようとしているのか?
「ふざけるな……!」
俺は声を荒らげ、走り出した。
彼女は、何もわかっていない。あの法務官は、彼女の純粋さを利用して、神殿の内部事情を探ろうとしているだけだ。彼女を守れるのは、俺だけなのに。
彼女の不器用な優しさは、俺が適切に管理してやらなければ、すぐに悪意に潰されてしまう。
だから、俺が守る。俺の用意した正解の中で、彼女を心地よくいさせてやる。
そのために必要なことなら、躊躇する理由はどこにもない。
◇
王宮の敷地内に入り、法務院の建物が見えてきた。
魔石の光は、その建物の入り口付近を示している。
「エリナ!」
俺は叫びながら、法務院の入り口へ駆け込んだ。
奥の廊下。一つの扉の前に、彼女はいた。
「エリナさん!」
俺が声をかけると、彼女はびくっと肩を跳ねさせ、振り返った。その顔は蒼白で、目は大きく見開かれている。
「カミシロ、様……どうして……」
「それはこちらのセリフです。旧神殿で瞑想しているはずのあなたが、なぜこんなところにいるんですか?」
俺は彼女に歩み寄り、その手首を強く掴んだ。
「痛っ……」
「帰りましょう。あなたは疲れている。こんなところで、何をしているのかもわからなくなっているんだ」
俺は彼女を引き寄せようとした。
「離して……ください」
エリナの声は震えていた。だが、彼女は俺の手を振り払おうと、必死に抵抗した。
「エリナさん!」
俺が声を荒らげた瞬間。
「そこまでにしていただきましょうか、カミシロ騎士」
冷ややかな声が、廊下に響いた。
扉が開き、そこから姿を現したのは、ソーマ法務官だった。
「法務官殿……」
俺はエリナの手首を掴んだまま、彼を睨みつけた。
「これは、俺と彼女の問題です。部外者は口を出さないでいただきたい」
「部外者、ですか」
ソーマは眼鏡の奥の灰色の瞳を細め、静かに言った。
「彼女は今、王宮法務院に『保護』を求めて来訪しました。法務官として、その訴えを聞く義務があります」
「保護だと? 彼女を保護しているのは俺だ!」
俺は叫んだ。
「俺が彼女を守っているんだ! 他の連中には、彼女の本当の姿はわからない。彼女がどういう時に困って、どういう時に無理をするか全部分かっているのは、俺だけなんだ!」
ソーマは、俺の言葉を静かに聞いていた。そして、深くため息をついた。
「……カミシロ騎士。あなたは、本当に何もわかっていないようですね」
「なんだと?」
「彼女が『どういう時に困って、どういう時に無理をするか』。それは、あなたが彼女を『困らせ』『無理をさせている』からではありませんか?」
「……!」
俺は息を呑んだ。
「あなたが彼女の選択肢を奪い、交友関係を制限し、そして——その首飾りで、彼女の行動を常時監視している。それが、彼女をどれほど苦しめているか、あなたは想像したこともないのでしょう」
「違う! 俺は彼女を守るために——」
「カミシロ様」
不意に、エリナが口を開いた。
俺は彼女を見た。彼女は震えていた。
だが、その目は、床の石畳でもなく、宙でもなく——真っ直ぐに、俺を捉えていた。出会ったあの日から、彼女が一度もしたことのない、強い視線で。
「私……もう、限界です」
彼女の声は、細く、弱々しかった。だが、そこには確かな意志が込められていた。
「あなたの『優しさ』は、私には……息が詰まります」
俺は、彼女の言葉が理解できなかった。
息が詰まる? 俺の優しさが?
俺は彼女のために、すべてを捧げてきたのに。彼女が傷つかないように、完璧な世界を用意してやったのに。
「エリナさん……何を言っているんですか。俺は、君のために……」
「カミシロ騎士」
ソーマが、俺とエリナの間に割って入った。
「これ以上、彼女に接触することは禁じます。王宮法務院の権限において、エリナ・ノーヴァ見習い聖女を一時保護します」
「ふざけるな! 俺は彼女の専属護衛だぞ!」
俺が叫ぶと、ソーマは冷ややかに言い放った。
「その『専属護衛』という立場を悪用し、彼女を精神的に支配してきたのは、あなた自身です。……後日、正式な審理を行います。それまで、彼女には一切近づかないように」
ソーマはエリナの肩を抱き、法務院の奥へと消えていった。
俺は、一人取り残された。
廊下には、俺の荒い息遣いだけが響いていた。
胸の魔石が、微かに光っている。だが、その光は、もう俺に彼女の居場所を教えてはくれない。
俺の完璧な世界が、音を立てて崩れ始めていた。
◇
――エリナの祈りの日記より
『王暦1526年、春の月、第30日
今日、私は初めて、カミシロ様に大きな嘘をついた。
旧神殿での瞑想。それは、ソーマ法務官様にお会いするための口実だった。
数週間前から、私は小さな実験を繰り返していた。祈祷の時間を少しだけ短くしてみる。祈祷室の扉の外に出てみる。そのたびに、カミシロ様の魔石がどう反応するのかを確かめた。
それで、はっきりした。首飾りは「連絡用」ではない。私の位置を、常に監視している。
でも、その監視にも、わずかな隙があることがわかった。
カミシロ様は「入り口まで送る」とおっしゃった。私は、首飾りを外して置いていこうかと考えた。でも、この首飾りは私の魔力と紐づいている。外して距離が離れれば、魔力反応が途絶えて、すぐに異常を察知されてしまうだろう。
だから、私は首飾りを着けたまま、王宮へ向かった。カミシロ様が移動に気づいて追いついてくる前に、法務院へ駆け込むしかない。
心臓が破裂しそうだった。足がもつれそうだった。
法務院の廊下で、カミシロ様に手首を掴まれた時、私はすべてが終わったと思った。
「帰りましょう」
その言葉を聞いた時、私の頭の中で、何かが弾けた。
今まで、私はずっと考えてばかりで、行動できなかった。カミシロ様の言葉に流され、自分の意志を押し殺してきた。
でも、もう嫌だ。
私は、私の足で歩きたい。私の口で話したい。
「あなたの『優しさ』は、私には……息が詰まります」
私がその言葉を口にした時、カミシロ様は、本当に理解できないという顔をした。
あの方は、本気で私を守っていると信じている。私の苦しみに、微塵も気づいていない。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
ソーマ様が私を保護してくださった。
今、私は法務院の安全な部屋にいる。
首飾りは、ソーマ様が外してくださった。
首が、とても軽い。
でも、震えが止まらない。
私は、本当に逃げ切れたのだろうか。
明日からの審理で、私は、私の事実を証明しなければならない。
この日記が、私の唯一の武器になる。
私は考えるのが遅い。でも、考えることを、やめなかった。
その結果が、これだ。
もう後戻りはできない。』
第5話を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
エリナが初めて自分の意志で行動を起こし、ユウトの「完璧な世界」に決定的な亀裂が入りました。小さな実験の積み重ねから大胆な行動へ。彼女の「思考型」の特性が、ついに反撃の武器として機能し始めました。
次回は、いよいよ法務院での審理が始まります。貴重なお時間をこの物語に使ってくださったこと、心から感謝しています。




