第一章 深山(3)
機械が吐き出す薄っぺらい番号札を受け取り、美鈴はソファに腰かけた。取った番号は五番。窓口の案内表示に出ている数字は二番だ。
朝一番で市役所に着けるよう家を出たはずなのに、着いた頃にはすでに先客がいた。開庁前から並んでいたのだろう。役所に用があるから、と午前中だけ綾を紀子に託してきた。
美鈴はリュックから求人誌を取り出し、パラパラとめくった。呼ばれるまで、しばらく時間がかかるに違いない。
紀子たちは、今すぐに働かなくてもいいのに、と言う。もっと心が落ち着いてからでも、と働こうとする美鈴を止めた。いい勤め先が見つかるかも分からないし、綾の預け先も決まっていない。
けれども、啓介から送られてくる月々の養育費にも限りがあったし、できればそれに手をつけたくはなかった。実家で暮らす分には生活に不自由することはないが、間借りさせてもらっている分くらいの生活費は返したかった。
敏夫は頑なに、美鈴から金を受け取ろうとしなかった。それが一層、美鈴にとっては辛い。形だけでも受け取ってくれる方が、何倍もよかった。
資格など持ち合わせていない美鈴に勤まる仕事など知れていた。せいぜい、運転免許証くらいしか資格らしい資格はない。それでも選り好みしなければ、働き口はありそうだった。求人誌片手に、スマートフォンで今からでも取得できそうな資格を検索する。
働きたくないとは言っていられなかった。美鈴にも社会人経験はあったが、子育てのブランクは想像以上にハードルが高い。
結婚前は、食品会社で事務をしていた。あの頃、無意識に動いていた手は、今はちっとも動かなくなってしまった。
計算機をはじく指の動きも、書類に目を通すスピードも遅くなった。場の空気を読むことさえできないだろう。勤めていた頃は、部署内が波立たないよう気を配るのに必死だった。
綾が生まれてからは、テレビを見ることもなく、世間の情勢からも遠ざかっていった。点いていても、綾をあやすための幼児番組で、美鈴が子供の頃からあったアニメキャラクターが、歌ったり踊ったりしている場面しか頭に残っていない。新聞を読むのも一仕事で、読み始めたところでまた綾の泣き声に中断された。活字を読むこともなくなり、新聞どころか本を手に取ることもなくなった。
完全に社会から取り残され、隔絶され、孤立していた。当時、市民センターで、同じくらいの年齢の子供を持つ母親と会話することだけが楽しみだった。夫は帰宅してもあまり子供には関与せず、日々のルーチンを終えた後は、自室で趣味に没頭していた。
そんな美鈴が、社会へ出ることに恐れを抱いても無理はなかった。新社会人として、社会に飛び込むのとは違った意味の緊張感。書類の確認欄に、自分の印鑑を押すことさえも恐ろしい。けれども、それをせねばならない状況にまで追い詰められていた――それも、一人で。
ブラウザの別ウインドウを開き、近くの保育園を検索する。ついでに、認可外の託児所と、病児保育を行っている施設も調べた。
ピンポン、と音が鳴り、案内板の数字が五を示す。こども家庭課の女性職員が、待合をそわそわと見回した。
「あ、はい、五番です!」
美鈴は手荷物をまとめ、のそりと立ち上がった。足元がもたつき、汚れたスニーカーの紐を踏んでしまう。躓きそうになるのを堪え、かがみ込んで紐を結び直す。我ながら不格好だ。持ち物をスマートに片付けられない愚鈍さも、可愛げのないスニーカーも。
「どうぞ、お待たせいたしました」
あまり期待していなかったが、思っていたよりも、職員の応対は細やかだった。
以前暮らしていた市の職員の態度が目に余るものだったからだ。中年の女性で、離婚届を提出した時の窓口担当がそうだった。緑色の用紙を出した瞬間の声が、やけにとげとげしかったのを覚えている。婚姻届を出すカップルには笑顔を安売りしていたのに。
今日の女性職員はそんなことはなかった。後頭部のポニーテールは白いシュシュで束ねられていて、青いブラウスと相まって清潔さを醸し出していた。化粧も派手なものではなく、シンプルで上品だった。
難を言うなら、機械的で人間味がないようにも思えたが、事務処理の一環として処理してくれる方が今の美鈴にはずっといい。職員の左手の薬指に、プラチナの細い指輪が光っているのは見ない振りをした。
「そうですか、先日ご離婚されたんですね」
席につくなり、美鈴は自身の状況を説明した。こんなケースはよくあることなのだろう。職員は淡々と手続きの説明を始める。同情されでもしたらどうしようかと思っていたが、美鈴の杞憂に終わった。
あらかじめ一人親家庭向けにまとめられた封筒を出し、順を追って説明をする。一人親家庭の助成金、助成を受ける条件と、その申請法。
「保育園の入園に関しては隣の課にお願いしますね。S市への転入……は最近ですね。年金や国保の手続きはお済みですか? まだでしたら、こちらから各窓口へのご案内をさせていただきますけど、どうしますか?」
「あ、はい……それじゃあ、お願いします」
窓口の奥で電話が鳴った。
男性職員が応対し、メモに何かをしたためている。美鈴はその一連の動作をぼうっと眺めていた。女性職員の声も遠い。はっと我に返り、視線を元に戻すと、そんな美鈴の態度を気にする様子もなく、庁内地図に几帳面な文字で重要事項を記入していてくれていた。
離婚した女なんて、大体こんな感じなのかしら。
そう思い、隣の窓口を横目で見ると、背中を丸めた女性が座っていた。髪は跳ね、袖口のよれたスウェットを着ている。胸に綾よりも小さい赤ん坊を抱き、職員の説明を虚ろな目で聞いていた。時折、後ろのキッズスペースで遊ぶ、赤ん坊の兄を見てはやんちゃをたしなめている。
不意に隣の女性と目が合った。美鈴は見てはいけないものを見た気分になり、咄嗟に目をそらした。
女性の右頬には、微かにだが、青い痣があった。
その後、彼女がどんな顔をしていたのか、美鈴は知らない。少し間が空いて、隣のブースから声が聞こえてきた。
「実は、両親ともに他界しておりまして……」
会話の続きは聞こえなかった。
美鈴も、番号を呼ばれる前は真っ直ぐ顔を上げていた。負けるものかと意気込み、逆境を跳ね返してやろうとさえ思っていた。が、金銭や保育の現実を突きつけられ、そんな威勢はしぼんでいく。
まだ自分は恵まれている方だ。両親も健在であるし、現在は実家に身を寄せている。路頭に迷う心配は、今のところなかった。
けれども、本当にこのままでいいのだろうか、という焦燥感が美鈴を襲った。途端に冷や汗が背中を伝い、からからに喉が渇いた。不安に絡め取られる、足掻いても纏わりつく。
キッズスペースの、極彩色の遊具たちが美鈴に迫った。綾にもあったはずの未来が、このままでは自分のせいで閉ざされてしまう。
養育費の一部として、離婚の際に受け取っていた僅かな資金も、そのうち底をつくだろう。実際、転居費用で三分の一ほど使ってしまった。
「豊原さん、大丈夫ですか? お加減でも悪いんですか?」
返事をしない美鈴に、職員が呼びかけた。余程顔色が悪かったのだろう、職員は心配そうに美鈴の顔をのぞき込んだ。頬を伝った冷や汗をハンカチで拭い、美鈴は首を振る。
「い、いえ、大丈夫です。ちょっと風邪気味なだけで……」
「あぁ、そうですか。今、インフルエンザも流行ってますもんね。お体には気をつけて下さいね。それでですね……」
美鈴の視線が、書類の文字を滑るようになぞった。中身が頭に入らない。数字の羅列、ゼロしか見えない。
はらりと顔に落ちた前髪を、払う力もなかった。




