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クロス  作者: 山石尾花
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第一章 深山(2)

 駐車場に止めていた車に乗り込み、美鈴は実家へと向かった。真新しいチャイルドシートに乗る綾の隣で、シートベルトを締める。前の家から持ってきたものだったが、ほとんど使っていなかった。バスや電車を使った方が早かったし、夫が通勤で車を利用していたので、美鈴が綾と二人で車に乗ることは稀だったのだ。


 様変わりしてしまった町並み。高校時代によく通っていた駄菓子屋もなくなっていた。吹奏楽部の練習の帰り道、友人とともに立ち寄った店だ。今は洒落た美容室になっていて、当時の店の面影すら残っていない。美容室はそこそこ繁盛しているのか、待合スペースで雑誌を読む女性の姿が印象的だった。


「随分変わったのね、この辺りも」


 見慣れぬ風景は、美鈴を落ち着かなくさせた。美鈴がいた頃の生まれ故郷はもうなくなってしまった。浦島太郎もこんな気分だったに違いない。既視感はあるのに、体が馴染まない。


「そうね、すずちゃんが行ってしまってから、新しいお店も増えたよ。あそこの角のお肉屋さんも、奥さんが亡くなってね。ご主人、お店閉めてしまったのよ。今はラーメン屋さんになってる」


 まるで間違い探しだった。記憶の中の故郷と、記憶にない箇所を照らし合わせ、一人ため息をつく。田んぼは埋められて、若いファミリーを狙った団地になっていた。学校前にあった小さな商店は、まだかろうじて開いていたものの、店先に並ぶ品数は随分と減っている。その数メートル先には、コンビニエンスストアができていた。


「おい、あいつはどうしてるんだ」


 ハンドルを握りながら、不意に敏夫が問う。


「あいつって誰」


 聞き返さずとも分かっていたが、敢えて聞き返した。


「深山だよ。あの男はどうしてるんだ」


 つい数週間前まで、私も深山だったんだよ。

 そうこぼしてしまいそうになるのを、美鈴は堪えた。


「啓介さんなら、今もあの家に住んでるよ、一人で」


 啓介さん、と元夫の名を呼ぶ美鈴に、敏夫は僅かに口元を引きつらせた。


「別にいいじゃないの、そんなこと。それよりすずちゃん、もうすぐ家に着くわよ」


 大通りから細い路地に入り、車は坂道を上っていく。会話を邪魔された敏夫は苛立った様子だが、美鈴は内心ほっとしていた。こんな狭い路地を走りながら、窮屈な会話をするのは嫌だった。


 一本、中の道に入ってしまうと、昔と全く変わっていない風景が広がっていた。隣の田中さんの家も、奥の杉本さんの家も同じだ。初夏にはサツキ、秋になれば金木犀の咲く通り、小学生の頃、歌いながら帰った通学路。

 その奥に、美鈴の生家があった。虫の嫌いな紀子は、植物を植えることを嫌った。だから、この家の周囲だけは、クリーム色の壁の色しか見当たらない。


「車、車庫に入れてくるから、美鈴たちは先に入ってなさい」


 玄関へ向かうと、木目調の表札が目に飛び込んだ。表札を付け替えたのか、かわいらしい丸文字の名字がアンバランスだ。「豊原とよはら」という、妙に自己主張の強い文字が、傷ついた美鈴を出迎えた。

 綾は勝手知ったる我が家、という顔で、玄関先で靴を脱ぐやいなや、真っ先にリビングへ這っていった。


「ほら、綾ちゃん、行っちゃったよ。すずちゃんも、おかえりなさい」


 紀子は微笑みながら言った。どうぞ上がって、ではなく、おかえりなさい、と。


「うん……。ただいま」


 その「ただいま」には、中身がなかった。暖かく迎えてくれて嬉しいはずなのに、素直には喜べなかった。「ただいま」を言う場所は確かにあったはずなのに、もう今はどこにもないのかもしれない。

 廊下を抜けて、リビングに入る。隣の和室は、綾用の部屋になっていた。案の定、綾は真っ直ぐその部屋に向かい、おもちゃを手に取り、遊び始めた。

 玄関先は掃除が行き届いていたが、リビングはそうではなかった。おそらく、出かける前に綾が遊び散らかしたのだろう。おもちゃが片付けられていなかったのは言うまでもなかったが、雑誌ボックスから引っ張り出された新聞がそこかしこに散乱していた。中には紀子が大切にしていた布製のコースターもあった。刺繍が趣味の紀子が、一針一針、丁寧に縫ったものだ。


「すぐに簡単なもの作るわね、お漬け物とお味噌汁と、おにぎりでいいかしら」


 帰るなり台所に立つ紀子の背中を直視できなかった。代わりに落ちていたコースターを拾い集め、紀子の元へ持っていく。大事なものまで散らかして、とは言わなかった。いいのよ、これくらい、と微笑むだけだった。


「おい、ポストに手紙が入ってたぞ。美鈴の分も」


 ガチャガチャと荒っぽい音とともに、敏夫が帰ってきた。郵便物の束を机に置き、どしっと胡座をかく。ぶつぶつと独り言を言いながら、封筒を仕分け始めた。

 中には美鈴宛のものもあった。白地の転送届けが貼り付けられた郵便物の束――もう二度と行かないスーパーの、ショッピングモールの、美容室の、ダイレクトメール。

 住所変更を告げるのも面倒で、そのまま放置していたものだ。過去がここまですがりつき、足首を掴む。美鈴はそれらに目を通しもせず、脇に押しのけた。


「荷物は二階に運び込んであるぞ。二人だけなのに、あんなに荷物があるのか」


 美鈴の荷物自体はさほどなかった。かさばるのは綾のものだ。捨ててきてもよかったのだが、何が必要で、何が不必要なのか判別がつかず、ほとんど仕分けもせずに段ボールに詰め込んできた。改めて購入するとなると、意外に値の張るものばかりなのだ。


「いらないものはどんどん捨ててしまいなさいね。必要なものだけあればいいんだから」


 必要なものは何だったのだろう。いつだってそうだ。不要だと思っていたものは、本当は必要だったのだと思い知らされる。


「ちょっと荷物見てくる」


 捨てなさいと言われるのがなぜか不愉快で、美鈴はリビングを後にした。荷物を見てくるなんていいわけだ。封のされた段ボールを見たところで、どうしようもない。

 美鈴は両親と綾を残し、二階に上がった。数年ぶりに吸う家の空気は澄んでいて、美鈴の穴の開いた心臓を吹き抜けていった。

 高層マンションに住んでいた頃は、あまり窓を開けることもなかった。特に綾が這い始めてからは、ほとんど閉め切っていた。綾と二人で過ごすことが多かった毎日、目を離して取り返しのつかないことになるのがひたすら怖かった。

 この家では窓が開いている。呼吸をするための酸素があった。窓を開けていても、誰かが綾を見ていてくれている。こんなことを考えている、今この瞬間も。


 二階には両親の寝室が二部屋と、自室である和室があった。日に焼けてしまった畳の上に、荷物が所狭しと詰め込まれている。美鈴は中に入り、戸を閉めると、ぺたんと部屋の真ん中に座り込んだ。

 四つん這いになって段ボールの山を漁る。「趣味」と書かれた蓋、その箱のガムテープを力一杯剥がした。

 雑多に詰め込まれた箱の中から、美鈴は白いデジタル一眼レフカメラを取り出す。ストラップはほつれ、合皮がはげている。美鈴はレンズカバーを外し、無造作に構えた。


 ***


 結婚当初の約束は、すぐに反故にされた。


「なんで俺を置いて出かけるんだよ」


 元夫・啓介はよくそう言ったものだ。写真を撮ることが趣味だった美鈴を、啓介は理解しようとしなかった。


 瞬きほどの短い時間を切り取ることが大好きだった。撮りたいもののために、何時間も一所から離れないこともあった。鳥が飛び立つ瞬間、行き交う人々の喧噪、開きかけの花、雨粒が葉からこぼれ落ちる刹那。

 つきあい始めの頃、啓介も美鈴を真似て、カメラを買った。が、その瞬間を待つことができず、啓介の、下ろしたての黒いカメラは埃をかぶっていった。

 趣味などそんなものだ、と美鈴は何も言わなかった。合わなければ、その魅力は理解できない。一緒に写真を撮れれば、それに越したことはなかった。けれども、趣味を共有することを、強制したりはしなかった。


 啓介は模型を作ったり、映画を見ることが好きだった。アウトドアは美鈴とは対照的に、どちらかと言えばインドアな人で、休みの日には一歩も外に出ないということもざらにあった。外出しない週末は、美鈴もパソコンで写真の整理をしたり、アルバムの編集作業をした。

 だから、互いに不満はなかったと思う。交際中も、一人で写真を撮りに行くことはよくあった。結婚の条件として、月に一回、一日だけ一人で好きなことをする時間が欲しいと提示した時も、啓介は二つ返事で了承した。


 結婚後、最初の三ヶ月、啓介は出かける美鈴を黙って見送ってくれた。

 朝早く出かけ、夕食の時間までには帰ると言って、美鈴は家を出る。愛用しているカメラと、朝食の支度と並行して用意したおにぎりを持って、気の向くままに車を走らせた。天気のいい日は足を伸ばして海へ行った。雨が降っていた日はかたつむりを撮りたくて、近所の公園の花壇にへばりついていた。


 四ヶ月目、啓介は突然、美鈴を責めた。啓介とて、休日は好きなことをして過ごしていたはずなのに、美鈴が啓介を置いて出て行くことに不満を並べ立てた。

 啓介の言い分に、美鈴は戸惑った。何が不満だったのか、それすらも分からず、美鈴は啓介の一歩的な責めに耐えた。妻たる身で、夫を置いて出歩くこと、貴重な休日を夫婦のための時間に費やさないこと、それが夫婦のコミュニケーションの妨げになっていること。

 反論しようと口を開くと、啓介は新たな理論を付け加えた。美鈴の言い分の矛盾を突き、言質をとったとでも言わんばかりのそれに、次第に思考力を奪われていく。美鈴の言葉たちは、硬質な石壁の内に閉じ込められ、出口をなくしていった。


 今までに撮りためた、何百枚もの瞬間たちが、美鈴の頭の中で舞った。不規則な動きで舞っていたそれらが、美鈴の前で整然と列をなす。美しい瞬間たちは、目まぐるしい速さで切り替わっていった。見る者への気遣いなど欠片も感じられないスライドショー。彼らには音がなかった――もしかしたら、何かを訴えていたのかもしれなかったのに。


 鮮烈な瞬間たちの声は届かなかった。

 受け入れることも愛なのだと、美鈴はその一語で蓋をした。

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