兄の出立 4
気が楽になったせいか、歩みが軽くなった。バス停への、あと数百メートルの道のりを足早に進む。
大股の自分に比べて、遅れ気味に追従する晴彦を、兄は、いったん立ち止まって待った。
宵闇に包まれた空気には、幸いなことに、恐怖を促す実母の存在は感知できない。
「母さん、かあ……。本当に俺のそばにいるのか……」
あれほど、死を悼まなければならない、と気負っていた実母の存在が、いま、崇志の中からは、ほとんど消え去っている。母といえば美律子とのことが思い出されるし、家族といえば養父母と妹、それに、泣き虫の持衰の顔が浮かぶ。
『死者を抱えるな』。持衰の言葉はこういうことだったんだな、と理解する。実父母を忘却することに、ずっと、強い罪悪感を持ってきたけれど、彼らに引きずられることは、生き残った崇志にとって、正しい道ではなかったのだ。
冷たい北風の中に、一瞬だけ、優しい温もりが灯る。目を転じると、すぐ傍らまで追いついた晴彦が、言った。
「なんかな、持衰さんが言うには、オレにも実母さんを遠ざける力があるんやって。だから、本当は、京都まで崇志兄を送っていきたいんやけど……」
崇志が稲荷神社で夢璃に憑依した荼枳尼天に襲われたとき、持衰にはぼんやりとした不安感が募っていた。
本来の持衰の能力なら、兄に起こっていることは、かなり正確に把握できるはずだった。が、
「稲荷さんの敷地内には、荼枳尼天の結界が張られてるん。持衰さんは蛇神さん持ちやから、蛇神さんを調伏する目的で勧請された荼枳尼天とは、相入れんのやって。それで、稲荷神社で起こったことは認識できんかったらしい」
適わなかった理由を、少年はそう説明する。
なるほど、と兄も納得した。高次の霊同士の諍いには、荒行を済ませた古代の持衰でも太刀打ちはできないというわけだ。
でね、と続けながら、少年は左の袖をまくった。そこには、2日前に、半分じゃれあって崇志がつけた痣が、うっすらと残っている。
「これ、美耶ちゃんの手錠の痣と合わせてつけたやろ? 瑕いうんは、瑕から瑕へと縁ができるんやって。つまり、これをやったときに、美耶ちゃんの中の持衰さんの一部が、オレの中に移ったらしいん」
ほら、オレたちって死んだ人から無意識に目を背けたりするやろ。あれって、死者にショックを受けて精神的な瑕を作ってしまったら、死者と縁故ができてしまうからなんや。魂の繋がりについて、晴彦は持衰のレクチャーを受け売りする。
そして、話を戻した。
「持衰さん自身が自由に行動できる立場やったら、すぐに自分が稲荷神社に駆けつけたって言ってた。けど、それもできん状況やったやろ? だから、代役にオレを行かせたん」
持衰の一部を受けとった晴彦は、わずかながらも、持衰の能力も同時に携行した。『たいした期待はしていなかった』という持衰の本音に反して、彼は見事に稲荷の結界を解き、崇志を救出したのである。
持衰の能力は伝播する。それならば、と兄は聞いた。
「俺が持衰と同調するわけにはいかないのか? それなら、自力で実母さんを追い出せそうな気がする」
すると、晴彦は苦笑しながら首を振った。
「縁っていうのは一方通行と違う。実母さんを抱えた崇志兄が持衰さんと繋がったら、持衰さんの中にも実母さんが流れこむ」
巫女さんは清浄な存在でないといかんから、崇志兄の穢れを持衰さんに持ちこむのは駄目や。そう言われて、崇志は、改めて、自分がいかに厄介な立場であるのかを知った。
「そっか……。俺はやっぱり単独では母さんに勝てないのか……」
落胆して呟く。
すると。
「独りでやる必要なんかないし。オレ、持衰さんに言わせると、相当に有能な助手になれるらしい。だから、崇志兄に貸しぐらい作れるよ」
少年は自慢げに請け負う。
反射的に、兄は、
「お前には穢れ……っていうか、短所はないのか?」
とやっかみを返した。晴彦は、
「そんなの、いくらでもあるけど」
頭を掻きながら、言い訳する。
「オレ、好奇心だけは純粋なんやと思う。持衰さんを蛇神さんから開放したいのも、崇志兄から実母さんを離したいのも、本当にオレが霊ってものを動かせるのかどうか、っていう興味のほうが強いからやし」
「……お前に助けてもらうのは抵抗を感じるぞ」
『宗教オタク』の呈を暴露する少年に、崇志は、信頼の半分を撤回した。




