蛇神 対 稲荷神 1
「ねえ、晴くん」
葉月を石積邸まで送り届けて、自身も帰途に着きかけた晴彦は、少女の呼びとめる声で、再び田の神の鎮座する敷地の入り口をふり返った。
「どうしたん?」
「うん、あのね…」
珍しく言いよどんだ、ふだんは快活な彼女は、眉を顰めて、ついでに声も潜める。
「山の神…祟った、よね…。あれで終わりかな…。もっと何かあるのかな…」
「…ああ」
蛇の大群の幻覚。爬虫類は嫌いだと、ここに戻ってくるまで何度も零した葉月には、あの現象でも充分に怖かったのだろう。もし、それ以上の祟りがあるなどと思ったら、冷静になれるはずもない。
「そうだね…。祟りっていうのは、こうすれば祟られないって方法はないからなあ…。あ、でも」
嘘で返して安心させるより、少年は、思いつく限りの『救済策』を駆使して、少女に説明した。
「石積さんのところは、昨日、門松を作ったやん。あれ、いい神さんを迎えるための道具だから。家の中にいる間は、その神さんが守ってくれるんと違うかな」
「いい神様?」
半分、疑いのまなざしで首を傾げる葉月に、安心させるために表情を緩める。
「そう。代々のご先祖さん。祖霊っていうんやけど、それが田の神さんと一緒に、お正月になると門松を伝って帰ってくるん」
信仰の原始形態である地母神は、本当に様々な形に姿を変えている。田の神や山の神といった収穫に直結した神ばかりでなく、人が死んだあとに子孫を守っていく『祖霊』としての役割も担っていた。初期の地母神の姿が男根の形を取っているのは、出産、すなわち生命そのものを意味している。『生』には『死』がつきまとう。死者となった祖先の霊が、だから地母神と表裏の意味で統合されたのは、不思議なことではなかった。
晴彦は続けて、
「地母神が蛇の形に移行してきたのも、死と再生を意味づけるためなんだと思う。蛇は脱皮するだろ。新しく生まれ変わる、という意味に取れん?」
理屈で少女の不安をねじ伏せようとした。
でも、葉月は疑問の言葉を返した。
「お正月に帰ってくるの、祖霊と田の神って言ったよね? 田の神って山の神と同じものなんだよね? ってことは、山の神が門松を伝わって家に入ってくるってこと?」
「あ…えっと…」
うっかり論破されてしまった少年は、苦笑いしながら頭を掻く。
「た、祟り神は神さんの成れの果て、つまり堕天使みたいなもんやし…。もう神さんとは別物じゃないかな…」
「…嘘つき」
少女は軽蔑した眼差しで溜息をついた。晴彦は視線を落として、
「慰めようとしただけやのに…」
と小さく言い訳した。
晴彦と別れるのが怖いと愚痴る葉月を、なんとか宥めて帰したあと、少年は田んぼ道を急いだ。封印されて力を失くしていたはずの蛇神を呼び起こした影響が、自分のみならともかく、美耶の中の持衰にまで出ているのを危惧したからだ。
美耶が正常さを欠きはじめたのは、中学に入ったころだという。もし、持衰が彼女の内で転生を果たしていたのだとしたら、なぜ幼い年代では障害が出なかったのだろう。
「…たぶん、持衰さんと美耶ちゃんは一緒だったんや…」
肉体の持ち主である美耶と記憶のみの存在の持衰が、精神の未熟な時期には、完全に一体化して同居していたのではないか、と少年は思う。未発達な子どもが、自分の中に混在する様々な感情を迷いなく受け入れるように、美耶も持衰の存在を認めることに戸惑わなかったのではないか、と。
それが、自己を確立する思春期を迎えたことによって、違和感へと変わった。自分の中に制御できない存在が在る。それを少女は恐怖し、排除しようとした。一方でシャーマンとしての能力を持っていた持衰は、己が引き寄せた悪霊を美耶の中に引き入れてしまった。人間の美耶と蛇の祟り神が、彼女の肉体の中でせめぎ合っているとしたら、自殺未遂をくり返しながら死にきれない美耶の行動と、少女の生命力を削ごうとする蛇神の行為に、説明はつく。
晴彦は一度、蛇神の鎮座する丘をふり返った。
「祟り神、かあ…」
古来より世界中で恐れられてきた御霊。疫神として伝染病を流行らせ、禍津神として戦乱を引き起こし、黄泉の王として人を死に誘う。その力は強大で、怯えた人間たちに社を作らせて神への服従を誓わせた。信仰の薄い現代においてはピンと来ない感覚だが、神の存在を疑わなかった過去の日本人は、自分たちの生活を後回しにしてでも、神仏のご機嫌取りを優先してきたのだ。
「…蛇神さんが祟り神になってしまったのは、稲荷さんに氏神の地位を取られたのが原因やろうなあ…」
そういう風俗を熟知した晴彦にも、祟りは当たり前に『在るもの』になっていた。蛇神の立場に立って、祟っても仕方のない理由を決定づける。
「でも、それなら稲荷さんに祟ってほしいな。美耶ちゃんに当たるんは可哀想やし」
信心は持っていても、恐れることはない少年は、どこかずれた批判を残した。