蛇神 対 稲荷神 2
住宅街の入り口に差しかかる。早川家まではあと5分ほどで着く。そのタイミングで晴彦の携帯電話が鳴った。
「崇志兄?」
着信相手を画面に見て、不安が高まる。崇志は、いま、美耶のそばに付き添っているはずだ。晴彦が外出するときには眠っていた少女が、やはり、何か問題を起こしてしまったのだろうか。
大事でないことを祈りながら受話ボタンを押すと、
「ハルくん? ちょっとお願いしたいんだけど」
と、無愛想な兄の声ではなく、過剰に愛想のいい母親の声が流れてきた。
「あ、はい」
思わず反射的に返事をしてから、
「何ですか?」
と聞くと、母は申し訳なさそうに、
「ごめんなさいね。ちょっと崇志を探してきてほしいのよ。美耶が興奮して泣き止まなくて」
と言った。
「崇志兄、どっか行ったんですか?」
またもふらついている青年に、わずかに非難を込めて、晴彦は詳細を問いかけた。
「落ち着きないなあ、まったく」
せっかく2年ぶりに、あれほど心配していた妹の顔を見たというのに、ちっとも美耶のそばにいない。事情はわかるが、やっぱり無責任に思えてしまう崇志の行動に憤然としながら、晴彦は住宅街をうろついた。
友人と出かけたという兄は、携帯も財布も置きっぱなしだった。ということは遠出をする予定がなかったんだろう。母親が件の友人に伝えられた話によれば、彼は高校の同級生で近くに住んでいるという。残念ながら自宅までは聞いていないそうだ。
「ああ、そうだ。携帯に同級生の電話番号とか残ってないんかな」
思いついて、今度はこちらから早川家にコンタクトする。
母親はすぐに電話を取った。背景で、美耶のすすり泣く声が聞こえていた。低い呟きの交じる嗚咽。電話越しだと呪詛のようにも感じられた。
崇志の携帯の連絡先を再確認してほしいと頼むと、
「あっ、そうね。もう一度、見てみるわ。ちょっと待ってて」
と、保留にせずに場を離れたようだった。
母親の気配が消えたあと、父親の諌める声と美耶の反発の唸りがクリアになる。
「…美耶ちゃん、また朝みたいになってしまったんかな…」
持衰が表面化した今朝の現象に陥っているのなら、
「崇志兄探さずに帰ったほうがええかも…」
持衰と話をするチャンスでもある。
晴彦は少しの間逡巡し、そして、
「帰ろう」
と踵を返した。
そのとき。
突然、受話器の向こうから、低い声が一喝した。
「愚か者」
携帯を耳に当てたまま、少年はしばらく固まってしまった。今の声は誰だろうか。少なくとも父親ではない。父は同時刻に別の言葉で娘を宥めていた。
では…、と美耶の可能性を考えて、頭を振る。少女ではなかった。もっと鋭くて、直接脳に響くような振動を持った音だった。
母親のいない空間で、居住者2人に該当しない声が流れた…。
ぞくっとするような現象に。
でも、少年は表情を輝かせた。
「持衰さんか? 聞かせてほしいことがある。オレが帰るまで消えんといて」
慌ててまくし立てると、正体不明の存在が、また何かの音を発した。弦を指で弾くような、不安定な高いキー。
「言葉で喋ってくれんかな。わかりにくい」
好奇心が、未知への恐怖心を完全に凌駕してしまった少年は、恐れげもなく注文をつける。が、望んだ返答はなく、同じ楽曲がくり返されるだけだ。
電話を切って、いったん早川家に戻ろうとした瞬間、母親の場違いに明るい声が送話口から送られた。
「お待たせ。あのね、崇志と一緒に出かけた人に連絡がついたの。どうもお稲荷さんにいるらしいのよ」
「…お母さん、その人に、崇志兄への伝言を頼もうとか、考えんの…?」
出鼻をくじかれた晴彦が愚痴ると、
「あら、そうね。気づかなかったわ」
と悪びれない様子で母は答えた。
彼女に連絡係をさせるのは不毛と理解した少年は、
「お稲荷さんってどこです? そっち寄ってからすぐに帰ります」
としぶしぶ捜索の続きを請け負った。
※呪詛とは相手を呪うときに吐く呪文のことです。




