2 屈辱と絶望
作中に虐待シーンがあります。苦手な方はご注意下さい。
これは夢だ。あまりにも生々しい夢。
『王太子様の計らいで、明日から結婚まで王城で過ごせるそうだ。アイリス、せいぜい励めよ?』
肩に乗せられた手が離れ、アイツが執務室から出ていく。
私はようやく息をつく。
私が十七歳になった冬。母は散々な扱いを受けた末、病に臥してこの世を去った。もう守ってくれる人はいない。
『怖い』
母を失った悲しみよりも、恐れが私を包んだ。
母亡き後、今日まで続いた『見分』がようやく終わり、私は服を着る。
この家で私は伯爵家の商品として育てられてきた。商会の支配者は商品を必ず自分の目で『見分』する。
前世の常識では、それはおぞましい行為。
この世の常識では、金で黙らせられる行為。
幼いアイリスは無残な姿の母と共にあの世に旅立った。
そして前世の記憶「葵」が蘇り、幼いアイリスから記憶と身体を引き継いだ。前世の記憶はアイリスを苦しめ、守り、励ました。
『アイリス。明日から運命を変えることができるわ』
『いいえ。『見分』の場所が変わるだけ』
前世の葵と幼いアイリスの記憶。二つの記憶に問い、得られた一つの回答。
『逃げなくちゃ』
心の中の小さな決意は、誰に聞かれる事もない。
しかしそう簡単には逃げられず、婚約の儀礼は進み、その日、王城のテラスで私は婚約者とテーブルを挟んで座っていた。
『また食べないのか?……理由を尋ねてもどうせダンマリだろうがな』
金髪に紅い眼の王太子はカップの茶を一口飲むと茶器を床に投げた。茶器が音を立てる。
『……何故いつも茶器を割るの?』
その茶器はアイツの商会で扱っている商品。
婚約者の眉毛が僅かに動いた。
『新しいカップが来るからだ。俺の質問より、茶器の心配か?』
侍女が新しいカップを差し出し、王太子はそれを一口すすると、また床に投げつけた。
『物は大切にするべきよ』
……それに、茶器が割れればアイツが儲かる。
『そうか? こうやって壊せば、新しい茶器が必要になるだろう? 新しい器も菓子も作り手が作る』
今度は王太子がテーブルの上の皿を薙ぎ払う。皿が割れ、手の付いてないお菓子が床に落ちる……あぁ、もったいない。
侍女が黙って床の上を片付け、別の侍女が新しい菓子と皿を運ぶ。この人達、虚しくならないのかしら?
『作り手の気持ちすら、貴方は考えないのね』
王太子が目を細め、菓子を頬張る。
『気持ち?それはうまい物なのか?』
『どういう意味?』
『食える物なのかと聞いている。アイリス、これだけの贅沢ができるのは何故だか分かるか?』
『侍女が真面目に仕事をしているから』
『違うな。金があるからだ。侍女も金だ。金が無ければ食うことはできない。そして金を呼ぶ為に、俺は贅を尽くす』
『物や食べ物を粗末にする事と、贅を尽くすことは別よ』
前世、幼い頃から祖母に育てられ、事ある度にこう言われていた。
『葵。物を大切にね。食べ物は粗末にしちゃいけないよ。みな誰かが作ってくれた物。その事に感謝するのよ』
そう言えば王太子が『いただきます』をするのを見た事がない。
『感謝の言葉くらい言うべきではないの?』
『感謝?この世には神も精霊もいない。居たとしても俺は信じない。確かなのは金だ。俺は人と物に確かな金を払う。相応しい報酬をな、違うか?』
婚約して一番長かった話題は互いに共感もないまま終わった。
「………嫌な夢」
痛む背中を庇いながら起きる。幸い私は自分の自室に軟禁される事になった。
「食事代は不要と王太子からの伝言です」
かじりかけのパン。崩れたスクランブルエッグ。萎びたサラダ。どれも下賜された物。
『食べ物は粗末にしちゃだめよ』
夢を見ていなければ絶対に口にしなかった。冷めた食事を淡々と口に頬張った。
「ふふふ。食事を投げ捨てる身分から、施される身分になるのねぇ〜」
食事を運んだ 侍女は聞こえる声で嫌味を言う。
無視を決めて食事を続けようとしたが、思いがけない声に遮られた。
「まぁ、わたくしみたいな言い方ですわね」
「か、カルミア様。これはその……」
侍女が慌てる。
「怒ったのではなくてよ。次期王妃のわたくしが使ったら品が無くなるもの。貴方に『下賜』して差し上げますわ」
扇子を手に持ち、カルミアがテーブルに近づく。
私は食事の手を止めて、席から立ちあがる。
「カルミアの言う通りだ。別れの挨拶は美しい方が良いからな」
現れたのはルイ王太子だった。
驚いた侍女が最上の礼を尽くし、部屋から立ち去る。
「まぁルイ殿下、お顔はどうされたの? 唇が腫れてお痛わしい。どうぞお休みになって。別れの『挨拶』はわたくしが致します」
「カルミア。こいつに汚されるのは俺だけでいい。貴方はアイリスに唇を噛み切られぬよう離れていろ」
「っ………まさかと思いましたけれど、そういう事でしたの!」
カルミアが振り返り、扇子を振り上げた。
「この『悪女』めっ!」
反射的に目を閉じる。
「っ!」
扇子が床に落ちる音がして、私は目を開けた。
「何故、お止めになるの殿下。何故、わたくしにこの女を打たせて下さらないの?」
王太子が後ろから抱きしめ、カルミアは手を振りあげたままの形となる。
「カルミア。私の妃となるのだ。貴方は品位を大切にしろ。汚れるのは俺だけでいい」
王太子がカルミアの耳元で囁く。
「へっ?」
カルミアは糸が切れた人形のようにその場に座り込む。
元婚約者はカルミアの頬に口づけし私を見る。
「アイリス。弟のシャルルは、お前が望むような『気持ち』なぞ持ちえぬぞ。継承権を捨て、社交も捨てた男だ。今は寡婦を侍らしゴミを収集する変人と聞く。そんな奴にお前は嫁ぐのか?」
金髪の合間から覗く紅い眼が私をとらえ、揺れた。
「私は……」
突然。カルミアが嘲笑う。
「あははは。アンタみたいに着飾りもしない女ならお似合ね! 公爵はケチで有名よ! 屋敷も貧相だと聞くわ。非常識で冷徹な男。愚かもの通しで持て遊ばれ……んっんっ!」
元婚約者はカルミアの唇を深く奪う。
「ルイ……」
甘い声を出すカルミアの唇からゆっくりと王太子が唇を離した。
「カルミア。貴方は俺に相応しくあってくれ」
私は背後へよろめき、テーブル上の茶器に手が当たり、茶器が音を立てて割れた。
王太子がカルミアを抱き抱える。カルミアの顔は王太子の肩に埋められてわからない。
ルイと視線が合い、互いに目を見開く。
「アイリス・フラワード。荷物をまとめよ。馬車を用意する。今すぐ……ここから立ち去れ」
ルイは扇子を拾うと踵を返し、カルミアを抱いたまま扉の前で立ち止まった。
「互いに知るのが遅すぎたな」
「何を?」
ルイは返事に応えず、扉を閉めた。
両頬が冷たいのに気づく。
「アイリス……貴方は泣いてる?」
一人残された部屋に私の声が響いた。
これは夢だ。馬車に揺られてきっと眠りに落ちたのだ。
『おい、脱がせる楽しみを勝手に奪う…』
紅い眼が私を見つめ、私の手首を掴む王太子の手がわずかにゆるむ。
私は泣いていた。幼いアイリス、貴方のために。
『俺が嫌か? 何故そんなに捨て鉢なんだ?』
『貴方こそ、さっさと『見分』すれば良い』
『どう言う意味だ?』
王太子が掴んだ手を離す。
『私は伯爵家の商品だから』
紅い瞳が揺れるのが分かった。いつもより低い声が私の秘密を暴く。
『何をされた?』
『商会の主は商品を『見分』する。足りない物はないか。痛んでないか。欠けていないか。隅々まで確認するわ。貴方に差し出されるまで、毎晩ね』
『……触れるのか?』
『肩だけよ。それ以上は『安くなる』らしいから』
紅い眼が再び揺らぎ、床に落ちたバスローブを掴み取る。王太子は黙って、私の肩にローブをかけた。
私は意を決して伝えた。
『アイツの商会との取り引きを止めて』
王太子は息をのんだ。
『お前の家との? 無理だ。お前の家は南方の国々からの交易路を全て抑えている。南方から来る食物や茶器は我が国に不可欠だ』
紅い瞳に感情はなく、どこまでも暗い。幼いアイリスのためにアイツを滅ぼす希望は絶たれた。
私は努めて平常の声で言った。
『『知ってる。』アイツも貴方も『気持ち』なんて気にしない。金と欲望の亡者だものね』
王太子が紅い眼を見開き、目を伏せる。
『同類と言うのか……否定はしない。だが、……俺は物を抱く趣味はないよ』
私は失望に包まれた。包まれていたからこそ、皮肉が出た。
『でしょうね。私も南方から仕入れる茶器と同じように、少し飲んだら割るんでしょう?』
王太子はハッとした顔で私を見つめ。何か言いかけ、やめた。踵を返し部屋から出ていく。
『抱きしめてもくれないの……』
心の中で茶器の割れる音がした。
涙なんて出ない。涙を出すなんてもったいない。
自分に言い聞かせていると、翌日から私の部屋に王太子から荷物が届くようになった。
ドレス、宝石、菓子、香水、靴、鞄、扇子……あらゆる物が送りつけられる。要らないと言っても王太子は私の言葉を無視し、その行為はエスカレートした。
『お前は同類だ』
荷物の山がそう言っているように感じた。
アイリス、逃げよう。婚約破棄に持ち込み、自由を手に入れるのだ。
その為に私は『悪女』になる決意をする。
王太子からの荷物を全て送り返した。気のない紳士に邪な気持ちを抱かせ、金だけせびった。貴婦人、令嬢からの茶会も片っ端から無下に断った。
馬車が大きく揺れ、私は目を覚ます。馬車の窓にうつる頰には涙の跡がある。
「『悪女』が泣くなんておかしいわね……」
お読み頂きありがとうございます!
ブクマ、いいね、評価ありがとうございます。
王城から追い出された主人公の今後をお楽しみ下さい。
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