158話
ウルリカさんの用意してくれた昼食を食べるころにはすっかり体の冷たさもなくなり、むしろご飯を食べたからか体がポカポカして妙に眠気を誘う。
「ここにハンモックを用意して寝たい……」
アメットさんとウルリカさんが中心になって出発の準備を整えている間、もう川に入る気の失せた俺は麗らかな日差しの中、ぼーっと宙を見つめてそうつぶやく。
マグ・メルの石の影響で記憶をひっかきまわされたせいで、まだちょっと気持ちが悪い。
体調的な話じゃなくて。ぐるぐる昔の記憶を意図してないのに入れ代わり立ち代わりと思い出してしまう。
でも、やっぱり思い出すのはライモンドとしての俺の記憶ばかりで、『俺』の思い出は一つもない。
幼い頃からずっと『俺』の記憶ばかりに傾倒してライモンドとしての人生をないがしろにしていたらまた違ったのかもしれないが。
少なくとも『俺』の知識を思い出すことはあったとしても、『俺』の頃の記憶を懐かしんだ記憶なんてないからなぁ。
「何をぼんやりとしているんだ?」
先ほどまで何やら広場を散策していたヴィルだったが、いつの間にか俺の側に近づいていたようでそう声をかけられた。
「他人の記憶を急に脳みそにぶち込まれたから気持ち悪いんだよね」
素直にそう言葉にすると、先ほどまでの俺の取り乱しようを思い出したのかヴィルがなるほど、とつぶやいた。
「では、気分転換に少し私に付き合ってくれないか。珍しいものを見つけたんだ」
「おー、いいよー」
ヴィルに誘われるまま腰を上げてついていく。
広場の端、川べりまで来ると、ヴィルは川には入らずにそのまま川べりを歩いていく。
「カタラータは瀑布の谷の二つ名の通り、常に流れ落ちる水のせいでこうやって水の粒が空気中を漂っているだろう? そのおかげである植物の群生地になっているんだが、ある特性から見つけるのは難しい。あぁ、ほら。 あれだ」
ヴィルの指さした先には緑の下草が生えているだけのように思える。
訝し気に見ている俺に気が付いたのか、ヴィルはおもむろに手を伸ばしてその下草から何かを摘み取った。
「マグ・メル草だ」
遠目からはただの茎と葉にしか見えなかったそれに顔を近付けて見ると、そこには透明な花弁が確かに存在していた。
「……すっごい」
「マグ・メル草は乾燥地帯ではただの白く小さな花に見えるが、水に濡れるとこうやって透明になる。乾燥地帯で水場を探す時、たまたま乾燥させたマグ・メル草を持っていた冒険者がこの特性のおかげで助かったこともあるそうだ。乾燥にすこぶる強く、完全に乾燥させた状態でも一年はまた根を張る力がある。だが、成長するためには水を多く必要とするため、カタラータ以外の国で野生のマグ・メル草を見ることは難しい」
まるで桜のような可憐な花は、王宮の南の庭園で見た水晶華、アンタロスの花によく似ている。でも、水晶華よりも繊細でその花弁は薄く脆い。水晶やガラスというよりも、レジンを薄く伸ばしただけのようなその花弁。指で軽くつついてみると、その花弁は額からほろりと落ちてしまった。
「……よっわ」
「そう。マグ・メルとは弱き者という意味を持つ。マグ・メルの石も、人をあちらへ誘うこともあるが、自分とその記憶の主は違うのだと強く自覚すればすぐに石の魅力から解放される。あれは、死してなお未練を捨てきれぬ弱き者のために精霊が与えて下さる恩寵だ。 この花のように、脆いものだ。恐れる必要はない」
また新しいマグ・メル草を摘んだヴィルが俺の手のひらの上にそっと乗せた。
「ライ、弱きものは精霊様にお返ししてしまおう」
「……ん」
新しいマグ・メル草を摘んだヴィルがそのまま川べりでしゃがみこみ、手のひらをゆっくりと川の水にさらす。
同じように俺も横にしゃがんでゆっくりと手のひらを水面へと沈めていった。
川の冷たい水が手の甲にあたり、それがゆっくりと指の隙間から滲み出して俺の手のひらを濡らす。俺の指先にも負けたマグ・メル草は、不思議とその形を崩さないまま俺の手のひらの上で水に浮かぶ。
透明な水の上に浮かぶ透明な花というのはずいぶんロマンチックだなぁ、なんて。そんなことを考えながらゆっくりと手を水底へと沈めていけば、遮るもののなくなった川の流れがマグ・メル草を川下へと押し流していく。
透明なその花は、数メートルもしないうちに水面の煌めきに紛れて見失い、もう見つけることもできなくなった。
何が、というわけではないが。なんとなく物悲しい気持ちになったものの、同時にスッと胸が透いたようになる。
「……もう大丈夫そうだな」
俺のすぐ隣で同じようにマグ・メル草を流したヴィルは、俺の顔を見て嬉しそうにそう言葉にした。
「………おにいちゃんかよぉ」
「まぁ、年齢だけで見ると私の方が年上だしな。年下の従弟が怖がっているのに何もしないわけにもいかないだろう?」
「はぁぁぁ。俺兄様いっぱいいるからお兄ちゃん属性に弱いんだよなぁ……」
「ヴィル兄様と呼んでも構わないぞ?」
「んー、別にヴィルには庇護を求めてないからいいや。だって、お前友達だろ?」
兄様と呼んでしまうと無意識のうちに甘え、甘やかしてしまいそう。
「俺って兄様っ子だからさぁ、ヴィルを兄様って呼んじゃうと、お前がこの先何かやらかした時に『しょうがないなぁ』って許しちゃいそうになるじゃん。そうじゃなくて俺はさ、ヴィルが間違えた時に『何やってんの?』ってお前を殴ってでも止められる友達がいい」
俺の言葉に一瞬虚を突かれたような表情になったヴィルは、次第にその表情をゆるゆると嬉しそうに緩めていった。
「ならば、私の治政を見ていてくれ」
「もちろん。その代わり、俺が何かやらかした時はヴィルが止めてよね。兄様たちは俺に甘いからさ」
「もちろんだ」
もう、頭の気持ち悪さはなくなっていた。




