150話
どれくらい走っただろうか。昨日よく眠れなかったこともあり、麗らかな日差しと馬車の心地よい揺れに誘われ少しうとうとしてしまっていた。
ふと目を開くともうすでに国境線まで来ていたようで、ちょうど精霊のヴェールを越えるところだった。
サルムルトの、どちらかと言えばからりとした空気が一気に重たく湿ったものに姿を変え、それと同時に体の芯に響くようなドドドドドッ! という低い水の落ちる音が響く。
瀑布の谷〈カタラータ〉
チェントロからオッキデンスに抜ける東西の道を挟むように南北の国境沿いには崖があり、その頂上から湧き出る多量の水が落ちて瀑布を形作る。
東西に隣接するサルムルトとオッキデンスと比べ瀑布に挟まれた国土は標高が低く、入国する旅人は皆水の落ちる谷底へと坂道を下っていく。
国土はサルムルトよりも狭く、しかし豊富な水資源とその水で育てる作物や薬草などのおかげで小国にしては裕福だ。
滝は南北にある瀑布だけでなく、塔のようにそびえたつ切り立った崖が間隔を空けていくつもあり、そこからも水が谷底へと落ち続けている。
常に薄いミストが舞い、日差しを受けてそれがキラキラ輝き、いたるところに虹を生み出していた。
多湿な環境だからもっとジャングルのように手つかずかと思っていたが、むしろ狭い国土を最大限活用するためかかなり人の手が入った整備された国だ。
水に浸かっていない場所のほとんどが農地になっており、水に浸かった沼地のような場所にマングローブによく似た水性植物がメインの森が青々と広がっている。
その奥にかすかに南北の大瀑布の水しぶきの白が浮かぶ。
谷底へと下る道を進むにつれて南北の瀑布の影は次第に緑の木々に呑まれていって、谷底に着く頃には左右は雄大な木々とその根元に走る川しか見えなくなった。
鏡の湖〈サルムルト〉もその名に違わず美しかったが、瀑布の谷〈カタラータ〉も美しい。
……あぁ、どうせならこの景色もマリアたちと一緒に見たかった。
初めては俺に世界の広さを説いてくれた彼女と一緒に見たかった。
素直に世界を旅することを夢見た幼き日々を支えてくれた彼女と、そんな俺たちをずっとそばで見守ってくれた彼と。いつか三人で旅がしたい。
昨日からメンタルをメタメタにされたせいか、どうにもこうにもマリアとキュリロス師匠に甘えたくてしょうがない。
頬を濡らすミストを拭うふりをしてじわりと目尻に浮かんだ涙を拭った。
「……私は七番目が嫌いだ」
ぼーっと水と緑の合間を走る景色を眺めていると、今まで黙っていた従兄殿が口を開いた。
「前にも言ったが、七番目が生まれてからそちらが意図するしないは置いておいて、こちらはずっと迷惑をかけられてきた。ずっと潜んでじっとしているのかと思えば時々名が聞こえてくる。その度に政情は揺れて不安定になる。そのくせ表に出てこないから為人はわからない」
読んでいた資料を一つにまとめてトントンと膝の上でその端をそろえながら、従兄殿は話を続ける。
「今この瞬間まで、私はオストを治める次期皇帝として君に対してどう接するべきかを考えていた」
「……で、俺にそれを言うってことは決まったの?」
「ああ」
窓を閉め、外から見えないようにカーテンを引く。
自然光ではなく、馬車の内部に埋め込まれた魔法石の人工的な明かりの下で、俺はグレーに染めた髪を黒に戻す。
夜の塩湖で語った時とは違ってちゃんとライモンドとして従兄とちゃんと向き合いたかったからだ。
よく似た黒髪に、似ても似つかない黄緑と赤の目。
系統は違うが、どことなく自分に似た顔つきの相手と互いにじっと見つめ合う。
「……本当に叔母上によく似ている」
「まあ、頭の中お花畑な人だけど俺の母上ですから。中身はともかく、見た目はある程度似てると思いますよ」
「ふ……っ。頭お花畑……っ」
俺の突然の暴言に一瞬呆気にとられた後、その発言がツボに入ったのかヴィルの口から笑いがこぼれた。
いや、だって。母上っていい意味でも悪い意味でも昔から変わらないからなぁ。
「……頭お花畑でツンデレでいつまで経っても少女みたいな人ですよ、あの人。本当は悪意とは程遠いくせに、迂闊なせいで自業自得の悪意に晒されても息子一人自分じゃ守れない弱い人です」
そう。本当に、母上は王族としては致命的なほど迂闊なだけで悪い人じゃないんだ。本当に、側妃とは言え王族の妻には向いていない。
自国オストの公爵家にでも降嫁していたらもっと生きやすかっただろうに。
政略のためにチェントロに来て父上に初めて恋をしてしまったからああなったんだ。
「そもそも俺の派閥ができたのは父上に素直に甘えられなかったあの人が俺を王太子にするだなんて口にしたせいですので。そのせいで昔から俺が望んだことなんて一度もないのにフェデリコ兄様派の貴族には警戒されるわ、頭の悪い貴族は利用しようとしてくるわで散々です」
マリアやキュリロス師匠と今のような関係を築けたことには感謝するが、それでもうんざりすることの方が多かった。
母上のことを恨めしく思ったことだってもちろんある。それでも。
「……それでも、母上のことは好きです。もちろん、父上や兄様たちだって。だからこそ、俺がチェントロの王太子に、ましてや王になることなんてありえない」
言い切った俺に対してヴィルはフッと小さく笑いをこぼす。
「それを、私に信じろと?」
「別に信じてほしいわけじゃない。ただ俺はそのつもりで動いてきたし今後もそのつもりで動くから、どうせ数年先に答えは出るでしょ」




