名前をあげるということ
狂気の妖精は桔音が近づいてくると、くるくると回っていたのを止め、ぴたりと桔音に視線を向けた。正直あまり関わり合いになりたくない相手ではあったものの、桔音も桔音でこの狂気の妖精がなんなのかを理解しない限り、帰れはしないと思っていたので、狂気の妖精に対峙する。
正直、屍音と戦った後で狂気の妖精と戦おうとは思わないし、戦いたいとも思っていない。とにかくこの妖精がどうして現れたのか、どうして桔音の下へとやってきたのか、それを知りたかった。
狂気の妖精の顔は、何処かで見た覚えもなく本当に誰の想いから生まれたのかも分からない。
だがこれ程までに強い、狂気という感情から生まれた以上、レベル1でありながらこれだけのステータスを備えている以上、圧倒的な何かを持った人物から生まれたのは間違いない。
「フィニアちゃん」
「うん。この子も私と同じ、思想種なんだね」
「そうだよ。だからこの子のことを知る為にも一つ……思想種について、もう少し詳しく教えて貰っても良いかな?」
合流したフィニア達の中で、フィニアを隣に置き、共に狂気の妖精に対峙する。
分かっていることとしてまず、生まれた瞬間の妖精にはまず名前がない。フィニアも生まれたばかりの時には、名前がなかった。桔音が与えて初めて、彼女はフィニアという名前を得たのだ。故に、ステータスを覗いても名前が見えない狂気の妖精は、生まれた時には既に想いの主が存在していなかった可能性がある。
思想種の妖精は、想いの主を失っても死ぬわけではない。彼女の場合は媒介が指輪だったが、その媒介である想いの品物が破壊されない限りは、寿命も無く生き続けることが出来る。
また、精神的にも歪む事もある訳ではないし、想いの主がいなくなったことで何か彼女らに影響を及ぼすことがあるわけではない。
故にフィニアは桔音の問いを受けて、首を横に振った。
「……あまり言いたくはないけど、この子がこんなに歪んじゃったのは多分……不安定な形で生まれたからなんじゃないかなって思うよ。強すぎる想いは人をおかしくする……それはそこにいる魔王の娘を見てれば分かるよね? だから、強い想いから生まれたからこそ、彼女はこんなに歪んだのかもしれない……」
「……成程ね、ここにも何か面倒な過去が絡んでくるのか」
桔音はフィニアの言葉に、目の前の狂気の妖精が不完全な形で生まれた妖精である可能性を得る。不完全故に、不安定。精神がしっかりと確立しなかった状態で彼女は生まれたのか、それとも強すぎる想いが故に不安定になったのか……彼女はいったい何者なのだろうか。
「うふふふっ☆ どーしたの? どーしたの? 楽しい? 悲しい? でこぼこ! ボコボコ! うふふふっ☆」
「君が何処から来たのか、何処で生まれたのか、そんなことはどうでも良い。多分本当に偶然、僕達と会ったんだろうね……どうなんだろうねぇ、変な巡り合わせというか、奇妙な出会いかもしれない」
「うーうーうー☆ 毒キノコ、ひゅーっと意味の無い手紙が地面の中でぐにゃぐにゃになってモグラと結婚しちゃった! うふふふふっ☆」
「会話は成立しない……か……まぁ良いか……聞きたいの1つだけ――どうしてあの時、僕のことを呼んだ? どうして僕に君の声が届いたんだ?」
彼女の声が聞こえたこと、ソレが桔音にとって疑問だった。何故彼女の声があの時聞こえたのか……何故あの時、ノエルよりも彼女の声の方が先に聞こえるようになったのか……それだけが分からなかった。固有スキルのせいなのか、それとも彼女が何か特別な力を使ったのか……彼女が桔音に一番近い場所に居たからなのか……ソレは分からない。
だから、桔音は彼女自身にソレを聞いておきたかった。
「??? うふふふっ☆ 手と手を合わせて魔獣さんが泥で喉を詰まらせてる! あっ! その子! その子ってさっきの子? うふふふっ☆ 同じ、同じ、私と同じ、妖精さん妖精さん! ねぇねぇ人間さん! 階段の角が伸びて草原に寝転がる雲が石に頭を下げてるよ? わかんなーい」
どうしようか、と桔音は思う。狂気の妖精は、狂気に呑まれているが故に話が通じない。言語をつかさどる部分が損壊しているのではないかと思わせる、話の通じ無さ。屍音よりもまだマシな狂い方だろうが、桔音としてはどっちもどっちな厄介さ加減だった。
そして、そんな彼女を見て……話が通じないのなら、仕方がないかと思う。
すっと指輪を取り出した。彼女の想いの品である、妖しく輝く綺麗な指輪だ。狂気の妖精は、それを見てぴたり、と動きを止めた。ペラペラと話していた口を閉じ、じっと桔音を見つめている。
その変貌ぶりに桔音は少し疑問顔を浮かべるのだが、それでもじっと見つめてくる彼女の瞳には、想いの品を失いたくないという気持ちを感じた。やはり意思ある者として生まれた以上、本能的な命の危機というのは感じ取っているらしい。桔音がこの指輪をどうするのか、その行方を見つめており、おそらく破壊しようとした場合全力で攻撃してくるだろうと、桔音は理解する。
「……君は、この指輪をどうして欲しい?」
「…………こ、わ……怖い怖い怖いこわいコワイ……ダメ、ダメ駄目駄目だめ、死にたくなぁいないナイナイな、イ……!」
桔音の言葉に、ガタガタと震えだした狂気の妖精。想いの品が、彼女にとって大事なものであるということが分かる。どうしたものかと思いつつも、この妖精は桔音の問いに対して死にたくないと言った。つまり、桔音との会話が成り立ったとも言える。指輪が破壊されるかされないかの瀬戸際に立って、彼女の狂気は命の危機にその姿を消したようだった。
まともな理性が戻っているわけではなく、不安定であるが会話が成立出来る程に狂気が引いただけだが、桔音に取っては僥倖と言えた。
「君はこれからどうしたい?」
「かき、かかかいきき……イキ、生き生き……―――逢いたい……」
桔音は予想外の返答に、眉を潜める。『逢いたい』というのは、どういうことだろうか。しかし彼女が初めて口にした本音の様にも感じた。
すると、フィニアがずいっと前に出た。狂気の妖精の目の前まで近づき、頭を抱える彼女の顔を覗きこんだ。そして彼女に向かって口を開く。
「……貴方の名前は?」
名前。彼女には名前がない、しかしフィニアは敢えてその問いを投げ掛けた。桔音はそのことになんとなく首を傾げながらも、同じ思想種同士で何か思うところがあるのかもしれないと思って口出しはしない。フィニアがどうするのかをじっと眺めた。
名前はなんだ? という問いに対して、狂気の妖精はボールペンでぐちゃぐちゃに書き殴った様な濁った瞳を見開いて口を開く。
「わた、ワタシの名、名前……名前名前ナマエ? リル? リル……リル、ルリ? あ? 名前、ない? 何? わか、わからななななななな………い、い、い……?」
「……そっか」
フィニアはその返答を得て、桔音の方へと戻って来る。そして何かが分かった様な表情で桔音にその事実を教えた。
思想種の妖精というのは、想いの品物に残った記憶を引き継いでいる。桔音がお面をプレゼントされた日から、この世界に来る時までの数ヵ月、その間の記憶をフィニアが持っていた様に、フィニアは狂気の妖精も指輪に残った記憶を引き継いでいるのではないかと思ったのだ。
故に、名前を聞いてみた。すると、『リル』という名前らしき単語が出て来たが、自分でも断定出来ないといった様子であった。名前が本当に『リル』なのか、それともないのか、自分でも把握出来ていないといった感じだ。
フィニアはそこから、ある推測を立てた。
「もしかしたら……あの子はあの子を生んだ想いを抱いていた人の記憶を持っていて、不安定な精神から自分をその人だと思いこんでるのかもしれない」
「……成程ね、狂っていた人から生まれた狂気の妖精が、狂った人と自分を重ね合わせて、それを自分だと思ったってことか……」
「生まれた時、この子は多分独りだったんだと思う。想いの主は死んでいた可能性が高いし、だからこそ彼女は自分で自分が何者かを決める必要があったんだよ。私はきつねさんに出会えたし、どちらかといえばプラスな感情から生まれたから理性も形成されていたけど、彼女は狂気から生まれたからその理性すらも希薄だったのかもしれないね……」
狂気の妖精が自分を、自分を作った想いを抱いていた人なんだと思いこんでいる可能性。元々狂っていた人物から生まれた以上、狂気は十分に兼ね備えていた狂気の妖精……そんな彼女が狂った人物を演じ始めたら―――会話が成立しない程の人格が形成されたとしてもおかしくはない。
生まれた時に、彼女は自分が何者なのかを知ることが出来なかった。だから彼女は自分が何者なのかを自分で決める必要があった。その為の情報として、彼女は指輪に残っていた想いの主の記憶を自分にトレースした。その可能性は大きい。推測でしかないが、桔音はその推測を信じてみることにした。
「……じゃあ、こうしよう」
桔音は『初神』を発動させ、白く輝く時間回帰の太刀を手にする。そして、頭を抱えて不安定になっている狂気の妖精を―――斬った。
「―――」
「生まれた瞬間まで、彼女を戻す」
桔音はこんな人格が形成される前の状態に戻すことで、この狂気の妖精の人格を1回リセットすることにしたのだ。一種の精神崩壊と再構築のやり方ではあるが、狂気の妖精がもしも最初からこんな人格ではなかった場合、彼女の人格はまだ取り返しがつくと思ったのだ。
そして斬られた妖精は、ぽてっと屍音の身体の上に落ち、仰向けに倒れていた。そのまましばらく虚空を見つめて、数秒後にむくりと上体を起こす。きょとんとした表情のまま、彼女は桔音に視線を向けた。正確には、桔音の持っている指輪に、だが。
自分の想いの品物を持っている人物ということで、桔音を見た彼女は首を傾げる。
「……だーれ?」
「……僕の名前はきつねだよ、まぁ好きに呼んで」
崩壊していた人格は何処かへ行き、彼女は素直に桔音に誰だと問いかけた。そのことに桔音は少し安堵しながら、返答する。会話が通じるということが、桔音にある種の安心感を抱かせる。狂気という感情に囚われた存在というのは、屍音然り天使達然り、面倒臭いからだ。桔音も、正直しばらく狂人と向かい合いたくはないと思っているので、まともな会話が出来そうだということに心の底から良かったと思ったのだ。
「……私はだれ? だ、だ、だだ……だれだっけ?」
「君は今生まれた思想種の妖精……名前は、まだ無いね」
「名前……名前……ないの? ……欲しい、名前……私は――誰?」
大人しくなった彼女は、情緒不安定な部分は残っているものの、会話が成立する。狂気のせいか言動が不安定なのは生まれ付きらしい。それでも、会話が成立するだけマシかと思う。
「名前が欲しいなら、僕が付けてあげるよ」
「名前……欲しい! 名前、名、なま、なまえ……ちょーだい?」
「そうだなぁ……リア……君の名前は、リアだ……ッ……?」
「リア……うん、うん! 私、わたしは私はワタシは、リア……リア? リア!」
桔音は狂気の妖精に、リアという名前を授けた。瞬間、何か違和感の様な物を感じたが、狂気の妖精――リアがくるくると回りながら自分の名前を何度も復唱しているのを見て、気のせいかと思いなおす。
しかし、ソレは気のせいなどでは無い。近づいてきた初代勇者、神奈が少し驚いた様な表情で桔音を見ていた。ソレに気がついた桔音は、なんだとばかりに首を傾げる。
すると、そんな桔音に神奈は言った。
「……きーくん、そんなに簡単に"名前"をあげて―――良かったの?」
「え?」
名前をあげる。その意味を桔音は分かっていなかった……故に、初代勇者から語られたその事実は、桔音がこの世界に来た日から今日まで続いていた疑問を1つ―――解き明かすことになる。