最終話 『お前の幸せを祈っている』
俺は、いま、とても充実している。
朝、目が覚めると、早乙女さんが温かいお茶を用意してくれている。
「おはようございます。今日は少し冷えますから、ちゃんと温まってくださいね」
そう言って、優しく微笑む。
早乙女さんは、家のことをほとんど取り仕切ってくれている。
食事。
掃除。
洗濯。
生活の細かな部分。
俺が気づく前に、彼女が整えてくれる。
支社長としての仕事は、高橋さんが支えてくれている。
「この報告書、数字の並びだけ直しておいたわ」
朝食の席で、彼女はいつものように資料を差し出してくる。
「あと、午後の打ち合わせは時間がずれたから、移動は少し余裕があるわね」
「ありがとう。助かるよ」
「当然でしょ。あなたが無理をしないように、私が見ているんだから」
高橋さんはそう言って、少しだけ笑う。
裏社会の件で困ったことがあれば、霧島玲が速やかに解決する。
彼女はタワーマンションの窓際でワイングラスを傾けながら、
「心配いらないわ。面倒な相手なら、こちらで先に話を通しておくから」
と、妖艶に微笑む。
そして、九条べに。
彼女は以前よりさらに遠い場所へ進んだように見える。
だが、それでも俺の前では変わらない。
時間があれば顔を出し、俺の体調を確かめ、デスク環境や生活の細かいところまで気にしてくれる。
最近は、彼女が派遣したと思われる女性たちが、俺を陰に陽に助けてくれることも増えた。
名前も知らない誰かが、いつの間にか厄介な手続きを済ませてくれている。
トラブルになりそうな相手が、いつの間にか丁寧な態度に変わっている。
俺の知らないところで、俺の周囲は少しずつ整えられている。
すべてが、気持ち悪いほど都合よく動いている。
普通なら、怖いと思うのかもしれない。
だが、今の俺には分かる。
これは、支配ではない。
俺を縛るためのものではない。
俺を守るためのものだ。
そう思えるくらいには、俺は彼女たちを信じていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
風の噂で、かつての上司だった磯崎部長が会社を辞めたと聞いた。
家族もバラバラになったらしい。
どこまでが本当なのかは分からない。
何がどう動いて、そうなったのかも分からない。
ただ、一つだけ分かることがある。
俺はもう、あの頃の俺ではない。
失敗係と呼ばれていた日々。
誰かの失敗を押しつけられ、謝り続けた日々。
終電一本前の電車に乗り、コンビニのゼリー飲料だけで夜を越えた日々。
あの頃の俺は、もういない。
今の俺には、帰る場所がある。
俺を待ってくれる人たちがいる。
俺の名前を呼び、俺の体調を気にし、俺の幸せを願ってくれる人たちがいる。
それだけで、十分すぎるくらいだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
休日の午後。
俺はリビングのソファに横になっていた。
頭は、エクレアの膝の上。
彼女は実体化したまま、俺の髪をゆっくり撫でてくれている。
「ご主人様。気持ちいいですか?」
「ああ、とても、いい」
早乙女さんが、俺の腕を両手で包むように揉んでくれている。
高橋さんは、肩から首筋にかけて、丁寧にマッサージしてくれていた。
霧島玲は足元に座り、指先でふくらはぎをゆっくりほぐしている。
「ふあ~あ」
思わず、あくびが漏れた。
エクレアが、くすりと笑う。
「ふふ、遠慮なく寝てくださっていいのですよ」
「今日は休日です。何も急ぐことはありません」
じゃあ、お言葉に甘えて寝てしまおうかな。
たまには、こういう日があってもいいだろう。
とても穏やかな、ある休日の一幕。
俺は、目を閉じかけた。
その時、ふと胸の奥に小さな影が差した。
父のこと。
母のこと。
白峰教団のこと。
本当は、すべてを知ることもできた。
九条さんは資料を用意してくれた。
エクレアも、俺が望めば真実に手を伸ばせるようにしてくれていた。
でも俺は、選ばなかった。
父のことは、もう考えないことにした。
真実を知らなければならない義務なんて、俺にはない。
過去を掘り起こして、自分を傷つける必要もない。
今、俺のそばには、俺を大切にしてくれる人たちがいる。
だから俺は、この幸せを選ぶ。
だけど、たまに。
どうしても、時々思い出してしまうのだ。
父が何を止めようとしていたのか。
それは本当に止まったのか、と。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
俺は、霧島玲から預かった資料の中にあった、一枚の手紙を思い出していた。
父が最後に残した言葉。
息子である俺に向けられた、短い言葉だった。
『側にいてやれなくてすまなかった。ただ、お前の幸せを祈っている』
その文字を見た時、胸が痛んだ。
怒りもあった。
悲しみもあった。
どうして。
なぜ。
そんな言葉が、頭の中をぐるぐる回った。
でも、最後に残ったのは、その一文だった。
『お前の幸せを祈っている』
なら、俺は。
その言葉の通りに、生きてもいいのかもしれない。
父が守ろうとしたものが何だったのか、俺には分からない。
母が何を信じ、何にすがっていたのかも、今はまだ分からない。
だけど、俺は幸せになろうと思う。
誰かに申し訳なく思うのではなく。
失われた過去に縛られるのでもなく。
いま、俺のそばにいる人たちと共に。
「ご主人様」
エクレアの声が、優しく響く。
「ん?」
俺は、目を閉じたまま答えた。
エクレアの指が、俺の髪を撫でる。
「ご主人様が幸せであること。それこそが、わたくしの願いです」
胸の奥が、温かくなった。
早乙女さんの手。
高橋さんの指先。
霧島玲の献身。
そして、エクレアの温もり。
俺は、そこに身を預けた。
「ありがとう」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
父へか。
母へか。
それとも、今そばにいる彼女たちへか。
エクレアの声が、静かに響く。
——ご主人様。
——すべては、ご主人様の意思のままに。
俺は、小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと眠りに落ちていった。
「僕に仕えるメイドは世界最強の英雄です。外伝」おわり。
ありがとうございます。
ここまでお読みいただき感謝です。
「ぼくつか」の外伝として今回のお話を書かせて頂きました。
明日からは、シリーズ本編「僕に仕えるメイドは世界最強の英雄です6」を投稿いたします。
読んでいただけると嬉しいです。




