石の呪い(1)
父の指輪の赤い石の角。その形を、オルティーネは今でも左の頬で覚えている。
四角く削った石が金の台から少しだけ出っ張っているのだ。弟が生まれるまでの四年のあいだに、その角は何度も頬に当たった。痛みはもう覚えていない。角の形だけが頬の上に残っている。
十四になったオルティーネは、大広間の玉座の右手、一段下に立ってその指輪を見ていた。指輪はひじ掛けに置かれた父の太い指にはまっていた。
大広間の床石は、晩秋の昼でも足の裏から冷えてきた。王女の正装は重い。深い緑の絹を何枚も重ね、胸元から裾まで金糸の縫い取りが走っている。金の髪は女官が朝から一刻かけて編み上げ、真珠の留め具で頭の後ろにまとめてあった。広間に並んだ重臣たちの何人かが、入ってきたオルティーネを見て目を丸くし、隣の者の袖を引いた。ふだん離れにこもって鍋ばかりかき回している王女が、こういう日だけは別人のようになる。
オルティーネはその視線のどれにも応えず、父の手だけを見ていた。
「帝国は我が国を侮っている」
国王ゼングウィン二世の声が高い天井に当たって返ってきた。
「南の山道の関所で、帝国の商人が王家の荷を後回しにした。王家の荷を、だ。一度ならず二度もだ。あの国は我らが黙っていると思っている」
重臣たちが顔を見合わせた。関所の荷の順番の話がどこへ向かうのか、まだ誰にも分からないようだった。
「兵を出す。春を待たず、雪の前に東の山を越える」
広間の空気が一度に重くなった。
最前列の年老いた侯爵が口を開きかけ、閉じた。その後ろで、黄の師団の儀仗のかぶとが小さく揺れた。誰かが息をのむ音がした。紫の師団の席の端では、小柄な老女が両手を前で重ねたまま、表情ひとつ変えずに立っている。紫の師団長、エルヴィラ・ローゼンだった。三代の王に仕えたこの人だけは、今日も何を思っているのか、顔からはまるで読めない。
玉座の左手では、弟のエーベルベインが父の椅子の脇に立っていた。十歳の小さな肩が重い礼服の中で縮こまっている。弟は何度も首を回して、玉座ごしにオルティーネのほうを見た。青い顔だった。
オルティーネは弟にだけ目元をゆるめてみせた。大丈夫、と唇だけで言う。弟の顔色が少しだけ戻った。
「異を唱える者はあるか」
父がそう言って、広間を見回した。見回す目が、オルティーネのいる右手の一段下だけをすっと飛ばした。
十年前からずっとそうだった。弟が生まれてから、父はオルティーネを打たなくなった。代わりに、見なくなった。
「お父様」
オルティーネが口を開くと、広間の何人かが肩を固くした。
ふだんの王女の声を知っている者は、王宮にも多い。離れの台所から聞こえる、少し高くてよく通って、早口な声だ。けれど今、大広間に響いた声はそれより一段低かった。ゆっくりで、語尾まで冷えている。
「帝国と事を構えるのでしたら、兵糧の勘定はお済みですの? 雪の前に山を越えるなら、もう十日もございませんわね」
父はオルティーネのほうを向かなかった。
「女の口出しは要らん」
それだけだった。
オルティーネは裾をつまんで一礼し、それきり口をつぐんだ。正装の袖の中で、指先が冷たくなっていた。
広間を出るとき、エルヴィラ師団長とすれ違った。老女は足を止めずに、ほんのわずかだけ頭を下げた。その目が一度だけオルティーネの顔に留まって、すぐに床へ戻った。
回廊の角を曲がったところで、後ろから小さな足音が追いかけてきた。
「姉上」
エーベルベインだった。礼服の裾を両手でたくし上げて、息を切らしている。付き人の侍従がずっと後ろで困った顔をしていた。
弟はオルティーネの袖をつかんだ。
「戦になったら、ぼくも行くの?」
十歳の手はまだ小さかった。袖の生地ごしに、指の冷たさが伝わってきた。
オルティーネは重い正装の裾を床に広げて、弟の前にしゃがんだ。金糸の縫い取りが石の床にこすれて、しゃりしゃりと鳴った。礼服の襟が片方だけ折れていたので、指で直してやった。
「行かないわ」
弟の目を見て言った。
「行かせない」
弟はしばらく姉の顔を見ていた。それから、こくんとうなずいた。袖をつかんだ指がゆっくりほどけた。
侍従に手を引かれて戻っていく弟の背中を見送りながら、オルティーネは自分が今、何の当てもないことを言ったのだと思った。
それでも、言ったことは取り消さなかった。
◇
離れの台所は玉ねぎの匂いでいっぱいだった。
正装を脱ぎ捨てたオルティーネは、ひだ飾りのついた前掛けをして、かまどの前で大きな木のさじを回していた。髪はほどいて、首の後ろで青い飾り紐を一本結んだだけだ。鍋の中では、刻んだ玉ねぎが油の中でゆっくり色を変えていく。焦がさないように、底から返す。返すたびに、甘い匂いが立った。
「姫さま、姫さま、たいへんです」
戸口から、女官のマグダが転がるように入ってきた。
二十二になるマグダは、オルティーネが四つのころから付いている。丸い顔にそばかすが散って、栗色の髪を紫の頭布の下にきっちりまとめていた。走ってきたらしく、頭布が少しずれている。
「伝令が三人も走っていきました。鋼の砦へ使いが出たそうです。厨房では、もう兵糧の話を始めてて、干し肉が足りないとか、麦を何俵とか、料理番頭が真っ青で。それから黄の師団の工廠にも――」
「マグダ、息」
「は、はい」
マグダは胸に手を当てて、大きく吸って、吐いた。
「みんな、本気なのね」
オルティーネは鍋をのぞいたまま言った。
「本気、なんでしょうか」
「お父様は本気よ。いつだって本気。本気で思い込むの」
玉ねぎがあめ色になった。オルティーネはさじを置いて、刻んであった干しきのこを放り込んだ。じゅっと音がして、湯気が上がる。
昔からそうだった。父は何かを思い込むと、まわりの声が耳に入らなくなる。王宮の誰もがそれを知っている。知っていて、誰も止められない。
夕方になって、取次の侍従が届け物を持ってきた。布の包みがいくつかと、手紙が数通。マグダが受け取って台の上に並べていき、最後の一通で手が止まった。
「ひ、姫さま」
マグダはその手紙を親指と人差し指の先だけでつまんで持ってきた。腕をいっぱいに伸ばして、自分の顔からできるだけ遠ざけている。
黒いろうで封じてあった。ろうに押された印は、細い糸を何重にも巻いた糸巻きの形をしている。
「黒の師団の印です。北の郭の」
マグダの声が上ずった。
「さわらないほうがよくありませんか。うつるって、みんな言いますし」
「手紙はうつらないわよ」
オルティーネは前掛けで手を拭いて、手紙を受け取った。ろうを親指で割る。中から出てきた紙は思っていたよりも上等な、厚い紙だった。
王女殿下
突然の便りをお許しいただきたい。
国王陛下の今日のお言葉について、殿下にお話ししたいことがある。北の郭までお越し願えないだろうか。私は郭を出られぬ身ゆえ、こちらからお伺いできないことを重ねておわびする。
黒の師団長 セラフ・ノクト
短い手紙だった。字は細く、どの字も同じ大きさで、まっすぐに並んでいる。
「行くわ」
「えっ」
「明日の朝。馬車を一台出してもらって」
「ば、馬車で、ですか。こっそりではなく」
「こっそり行くほうが、見つかったときに困るでしょう。黒の師団長に呼ばれたので行ってきます、って言えばいいのよ。今日の王宮にそれを気にする人はいないわ」
マグダは口を開けて、閉じて、また開けた。
「……わたしも行くんですよね」
「マグダが来てくれないと、わたし一人で馬車に乗ることになるわ」
マグダは頭布の上から両手で頭を押さえて、しばらく動かなかった。それから、小さな声で「香り袋を持っていきます」と言った。
その夜、オルティーネは寝台の上で、手紙をもう一度ろうそくの火にかざした。
割れた黒いろうのかけらが、手紙の端にまだくっついていた。糸巻きの形の印が半分だけ残っている。爪の先でなぞると、細い溝が何本もぐるぐると同じところを回っていた。
北の郭のことは、子どものころから何度も聞かされてきた。悪い子は北の郭へやってしまうよ、と、古い女官たちはよく言った。夜になると住人が消える。地下に呪いが眠っている。黒衣の者は、金しだいで人を呪ってくれる。
金しだいで、と言った女官の顔をオルティーネは今でも覚えている。言いながら、ちらりと玉座の間のほうを見たのだ。
オルティーネは手紙をたたんで、枕の下に入れた。それから、ろうそくを吹き消した。




