第一話【使命】
——それは希望だった。
ろうそくに火を灯し、闇が灯る部屋の中を照らす。橙の暖かい光が、彼らの足元を照らしていた。そこにあるのは、円に沿って書かれた文字列。大理石の地面に、赤い液体が黒く鈍い光を浴びていた。
「準備は整ったのね」
「……ああ。これで、私たちの使命も果たされる」
白いローブを纏った男女の首元には、太陽を模った首飾りがあった。女はそれを強く握りしめると、円状に書かれた文字列の中央に立った。その腕には、何かが抱えられていた。
「怖いかい?」
「……どうなのかしら。ただ、本来生まれてくるはずだったこの子の運命を捻じ曲げてしまう……それがとても、恐ろしくて、悲しいの。この子にはもっと、輝かしい未来があったはずなのに」
女は腕に抱いた赤子の頭を撫でた。すやすやと寝息を立てて眠る赤子はみじんも起きる気配がない。まるで催眠でもかけられたかのように。
本来なら心の底から喜ぶことができる。だが真の意味でそれはできないのだと——命が誕生した数秒後、彼女は理解してしまった。
「わかってる、わかっているのよ。これが私たちの使命であることくらい。曽祖母がそうであったように、私たちも希望を紡がなければならない」
「……すまない。君には辛い思いをさせる。大丈夫とは言わない——だが、この街の司祭である誇りに懸け、いずれ来るその日まではその子を全身全霊で愛すると誓おう」
「ええ、そうね。私たちがこの子にできる唯一の贖罪だもの」
女はゆるく微笑んだ。そして目の縁に溜まった雫は、文字列の輝きとともに消えていった。
✤✤
喪失感、悲しみ——そんなものは感じず、自分の胸にあったのは許容だけだった。それと同時に、一つの決意が芽生えたに過ぎなかった。
「あと、1年か……ここまでくると、3年って意外と短いもんなんだな」
白い天井を見上げることにもほとほと飽きて、今度は窓の外の景色へと体と共に視線を移す。そよ風が吹くと、桜の花弁が鮮やかに散っていく。自分も、あんな風に散るのだろうか。それとももっとひっそりとした、ささやかなものなのだろうか。
「全然想像つかねえや。残りの人生で何したいかなんて急に言われても分かんねえし……つっても、こんな状態じゃ行きたいとこがあっても行けねえっての」
自身から伸びる数本の管の先には、電子モニターと点滴が繋がっている。ピッ、ピッ……と規則的な機械音が静かな病室に響く。
14の時に発病したこの病と闘うこと1年。とうとう俺は余命宣告をされた。
『……持って、あと3年ほどでしょう』
重々しく告げた医者とは反対に、俺の脳は冷静だった。ショックで言葉も出ない両親とは違い、なぜか俺の脳はそれをすんなりと受け入れていた。数秒後に泣き崩れた母の背をさすっていた父も、その時に限っては珍しく苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
それから約2年。残りの寿命は約1年となったわけだが、俺はこうして今日もゴロゴロとベッドの上でのたうち回っている。
余命宣告をされた場合、よくあるのは残りを愛しの我が家で過ごす人もいると言われたが、俺は首を縦に振らなかった。どうしてかと聞かれれば、そりゃあ——。
「——夏威、起きてる?」
聞き慣れた声だった。ノックするのとほぼ同時、もはやノックがその役割を果たしていないのはお約束なので、バレないように小さく笑うだけに留めた。
「あっ、やっぱり起きてた。もう、だったら返事くらいしなさいよね」
「返事する前に入ってきたのはどこのどいつだっけ?」
腰まで伸びたまっすぐな黒髪を揺らしながら近づいて来たのは、灰色の制服を纏った一人の少女——秋奈。
「今日は早いな。部活は?」
「休んできた」
「え、なんで。1年の勧誘とかしなくていいのかよ? 年々新入部員が減ってるって、顧問が愚痴ってたってこの前言ってたじゃねえか」
「部員は私だけじゃないもの、いつもサボってる奴らに働かせればいいのよ。それに……」
突然口を閉じてしまった秋奈を見上げる。そっぽを向いて項垂れてしまったため表情を見ることは叶わなかったが、もしかしたら俺がいない間に部活で何かあったのだろうか——と、原因を考えた。だが数秒考えても思い当たることはない。言いたくないことを無理に聞き出したくはないのだが、伺うように「それに……なんだよ?」と声をかけると、ハッとしたかのような表情で秋奈は振り返った。
「……っ、それに! 私が一人増えたところでどうにかなる問題じゃないでしょ」
「そうか? お前が勧誘してたら入る奴も増えるんじゃねえのか。『美人な先輩がいる』っつってさ」
「……そんなお世辞言っても、出るのはりんごくらいですー」
世辞ではない、と言いきれればどれほどいいか。とはいえ、毎度のことながら律儀に見舞いの品を持って来てくれるのはありがたい。検査入院がある日は暇で暇で仕方がない。放課後にこうして秋奈が来てくれるだけで、その日の退屈も紛れるというものだ。
「はい、剥けたよ」
「お、さんきゅ……って、ウサギじゃん。凝る必要ないんだぜ? 結局食っちまうんだからさ」
「いつも同じだと味気ないじゃない。それに、私がやりたくてやってるんだからいいのー」
シャクリと音が立つほどに新鮮なりんごは、やっぱり美味しかった。いや、こいつが剥いてくれたものなら、たとえ渋柿だろうと俺は美味いと感じるんだろう。
そんな思いが間違っても喉元から這い出ないように、りんごと共に飲み込む。そして一言「うまい」と言えば、太陽のように「よかった!」と言う秋奈の笑顔が返ってきた。
その笑顔が絶えない限り、俺はきっとこの思いを隠し通せる。いや、隠し通さなくてはいけないのだ。満足に隣を歩けない奴のことなど、さっさと忘れて幸せになってほしい——俺の願いは、ただそれだけだった。
その日は、とても天気がいいからと、わざわざ休日の朝早くから病室を訪れていた秋奈が俺を病院の屋上まで連れ出した。
「ほんっと、いい天気ねー! この前の寒さが嘘みたい」
「つっても、冬であることに変わりはねえけどな。ちゃんと防寒してきたか?」
「当たり前でしょ。っていうか、あんたが私を気にかけてどうすんのよ。何度も言うけど、他人のことよりまず自分のことを優先しなさいよ……あんたは、わがままなくらいがちょうどいいんだから」
だんだんと言葉尻が萎んでいく。車椅子に座っている俺は、それを押してくれている秋奈の顔は見えなかった。だが、見えずともどんな顔をしているのかは手に取るように分かった。
季節は巡り、猶予はもう数ヶ月といったところだ。ひとつの季節を越えられるかどうか……というのが、お医者様の見解だ。おかげですっかり、ベッドと車椅子が手放せなくなってしまった。
「来年は秋奈も受験生かー。どこの大学行くか、もう決めたのか?」
「……え。ええ、決めた。決めたわよ」
「へえ、どこ行くんだ?」
「……南興和大学」
「え、まじか!? めっちゃ頭いいとこだろ? すっげえな……いや、でもそっか。うん。秋奈は頭いいもんな、ぜってーいけると思うぜ。応援してるよ」
「……」
「秋奈?」
なぜか、応答はない。急にどうしたのかと振り返ろうとした時——消え入りそうな声が頭上から聞こえた。
「……応援してるって、なによ。一緒に頑張ろうって、言ってよ。どうしてそんな、笑っていられるの……」
長い黒髪が、俺の肩にかかる。そのまま髪がスルスルと落ちてきて、しまいには右肩に温かい重みが乗った。
「ほんっと、人のことばっかり……あんたに比べたら、あたしの将来なんて小さなことなのに。そうやっていっつも笑顔向けてばっかり。自分の事、もっと優先しなさいって私ずっと言ってたのに」
耳元から聞こえる声は、まるで独白でもしているかのようだ。冷たい風が、顔の横を吹き抜けた。
「……小さくなんてない、大事なことだ。秋奈はこれからも生きていくんだからさ」
「いやよ、もう。あんたがいない教室も、あんたがいない部活も、夏威が隣にいない生活も……もう、うんざりよ。どうして、ずっと病院で過ごそうと思ったの。大変だろうけど、学校来ればよかったじゃない。家にだって……」
「母さんも父さんも、みんながそれを望んでたのは知ってる。けど俺が嫌だったんだ。誰かのためじゃなく、自分のためなんて。誰の役にも立てない俺が、誰かの手を煩わせてまで自分のために生きるのは……振り返った時に、俺はきっと罪悪感で死にたくなる。いっつもそうだ。自分を優先した後、喜びとか幸福よりも後悔が湧いてくる」
いつからそうなってしまったのかは、俺にも分からない。ここまで色々なことを尽くしてもらっておきながら、と言われるような生き方だが……俺にはどうしても、絶えられなかった。
俺の治療費のために、両親が遅くまで働いているのを知っている。
俺が暇にならないようにと、秋奈があんなに楽しそうにしていた部活を休んでまで病室に来てくれる。
「……ごめんな、こんなやつで。でも嬉しかったのは本当だ。母さんや父さん、なにより秋奈が俺を見捨てないでくれたから、俺はここまで生きられた。ありがとな。ごめん」
「分かってる、分かってたの。あんたがそういう奴だってこと。だってずっと見てきたんだもん。だからせめてあんたが望むことを……例えそれがどんなに小さくたって見落とさないように、叶えられるようにって、隣にいたんだから」
分かっていた。気づかないふりをしていただけだった。それは俺だけじゃなく、お互いに。
「——好きよ、夏威。ずっとずっと、私はあんたが好きだった」
ああ、どうして俺はこれからを生きられないんだろう。その言葉に頷いて、今まで俺に隠れてひっそりと泣いていた涙さえも抱きしめてあげられたなら、どれほど良かったか。
俺は最後の瞬間まで、そう言ってくれた彼女の幸せを願う他なかった。
✤✤
目が覚めた——それは、聞き覚えのない赤ん坊の泣き声が耳元でうるさく聞こえていたから。そんなに泣いてどうしたんだと聞こうとして開いた口からは、俺の耳元で聞こえていた赤ん坊の泣き声が出てきた。そして、その声の主が俺自身だと気づくのに、そう時間は要らなかった。
「おー、よしよし。どうしたソル? 大丈夫だぞー」
パチリと目を開けると、猫撫で声で頬を緩ませる見知らぬ男がいた。
(だ、誰だ……?)
困惑するのも束の間、今度はその声に微笑む女の声がした。
「あなたってば……そんな顔を他の助祭に見られたら驚かれるわよ?」
「いいじゃないか。それに何のために仕事を終わらせたと思ってる。俺の楽しみを邪魔しようだなんて野暮なやつ、いやしないさ」
なんだ、なにを言っているんだこいつらは——そう思わずにはいられないかった。俺の脳は冷静なまでに困惑していた一方で、反して俺の体は未だ言うことを聞かず泣き続けている。
(ってか、なんで俺はこんな姿になってんだ!? 赤ん坊……に、なってんだよな?)
かろうじて手足を動かすが、その動きはとても拙い。握って、閉じて……そんな簡単な動きがこんなにも遅く、難しい。
自分の勘は正しかった。やはり俺は赤ん坊になっている。
(じゃあ今の俺の意識って、言うところの前世の記憶……ってやつか)
昔、病院のテレビで前世の記憶を持っているという子供に密着したバラエティを見た覚えがある。やらせかどうかは別にしても、それと酷似している自身の現状から推察するに、前世の記憶を持って生まれてしまった——という推察が今の所の最優だ。とするなら、気になるのはその理由だ。そのテレビ番組でも、未練のあった者がそれを果たすために前世の記憶を引き継いだ……とされていた。
(短い人生だったけど、あれはあれで円満な最後を迎えられたと思ってたんだけどなあ……)
好きな人に告白することは叶わなかったが、それは彼女の幸せを思えばのことだし、俺自身もそれがいいと納得して望んだこと。なにより、秋奈からの一言を聞けただけで俺は満足だった。それに、頷くことさえできなかった俺なんかの最後さえも、家族と共に看取ってくれた。これ以上の大団円を望めばバチが当たってしまう。
(未練……なんてものが俺の中にあるとは思えないし、それを探す気にもなれない。ならせめて、この人たちを悲しまることだけはしないようにしねえと)
未練はないと言いながらも、瞼を閉じたときに浮かぶのは最後に溢れ出してしまった両親の涙。
この生まれて間もない命を心の底から祝福し、慈しみ、愛おしむ——目の前に広がる彼らのそんな笑顔を曇らせることはあってはならない。きっといたであろう本来の魂に誓い、俺はこの記憶を打ち明けないことを決めた。
それから数年——俺はあの日の誓いを忘れることなく、順調に育っていった。
「ご子息様! どこにいらっしゃいますか!?」
今日もまた、陽の光が照らす街に一つの声が響く。もうそんな時間かと、聞きなれた声に振り返った。
「ここだよ、ファーバス」
「はあ、はあ……ソル様! また授業を抜け出しましたね!? 司祭様に言いつけてしまいますよ!」
息を切らしやってきたのは、スカートの裾を持ち上げて走ってきた侍女だった。いつもいつも似たような時間に抜け出しては、こうしてファーバスに見つかってしまう。毎度のことなのだから対策のしようもあるだろうに、それをしないのは厳しくも甘い彼女らしい。
「悪かったってファーバス。でも俺はああやって何時間も缶詰にされるより、こうやって自分の足でいろんなところを巡ってみたいんだ。その方が、身にもつく」
「そのお考えは立派ですが、授業を抜け出すことを正当化する言い訳にはなりません。第一、街を見て回るなら休憩の時間でもよろしいではありませんか」
「じゃあ、休憩の前借りってことで」
「ダメです。休憩まで、あと三十二分ございます。それにソル様の理論でいきますと、前借りした分あとの授業時間が長くなりますよ」
「……それは、困るな」
「ですから戻りますよ。立派な司祭様になられるための勉強なのです、それに司祭様——お母様もソル様が立派に勉強なさっている姿を期待しておられることでしょう」
期待——その言葉を持ち出されては、どうしようもない。ファーバスもきっとこの数年の付き合いでそれを理解しているのだろう、申し訳なさを滲ませた瞳で俺を見ていた。
その後、俺はファーバスの言う通り黙々と授業を受けた。いつも通りの日常が悪いとは言わない、その大切さを俺は何よりも知っているのだから。だがそれでも、同じ日々を送るだけの日々が退屈だと感じてしまうのは——許されるのだろうか。
「――ご子息様! どうしたんですか、こんなところで」
頭上からの声に驚くと共に顔を上げると、そこには大きな木箱を担いだ男がいた。
「ジルバトおじさん……」
「よう! ソルの坊ちゃん。元気にしてたか?」
コーヒー豆のような茶髪に、無精髭を生やした彼は俺の頭を乱暴に撫でる。いつもならその手を跳ね除けていたのだろうが、今だけはどうしてもその手の温もりが嬉しかった。
何も言わずに数秒が経つと、彼の手がそっと離れた。冷えていく温もりに若干の寂しさを感じつつも、小さく息を吸い込んで顔を上げた。
「おじさん、いったい何してるんだ? その木箱は?」
「今、食料やら何やらの支給物資が来たところでな。その荷運びをしてんだ。ちなみにこれは生活雑貨だな」
彼は木箱を両手に持ち替えると、側面に貼ってある用紙をまじまじと見つめる。
「こりゃあいい! 【水の街】からの仕入れ物だ。きっといいもんが入ってんだろうなぁ」
「盗むなよ?」
「ばっ、馬鹿野郎! んなことするか! 滅多なこと言うんじゃねぇ。支給物資にゃ、この街の命がかかってんだからな」
周囲を見渡した彼は、この街に住むいろいろな人々が行き交っている光景を、大切そうに見つめている。
彼は俺の叔父であり、ここ——【地の街】の門兵をしている。門兵の仕事は街への入国者の管理や、こうした支給物資の荷運びだ。
「ところでソル。お前こんなところで何してんだ? ファーバスは一緒じゃねぇのか」
「ああ。さっき、授業が終わって……街を見て回ってるんだ」
「それはそれはありがたいこったな! さすが、司祭様のご子息だ。立派じゃねえか」
「からかうなって。ぜんぜん立派なんかじゃない……今の俺じゃ、母さんたちの期待に応えられない」
期待に応えたいと思う反面で、この体は勝手に動き回るばかり。今日だって懲りもせずに授業を抜け出してしまった。ファーバスはあれでも俺に甘い。きっと母さんと父さんには言わずにいてくれているんだろうが……きっと、二人は薄々勘付いている。どころか知っているんだろう。
「ちゃんとやらなきゃいけないことくらい分かってる。それでも気づいたら、空を自由に飛ぶ鳥が羨ましく思えるんだ。俺は……」
「——立派だよ、おまえさんは」
グッと握った拳が、突然の言葉によって緩んでしまった。見上げると、真っ直ぐに俺を見るジルバトおじさんの姿があった。
「たった12の子供が、親の期待に応えたいって思うだけじゃなく自分を律しようと必死なんだ。誰も文句なんか言えやしねえさ」
「律せてなんてない。現に、今日も俺は授業を抜け出した」
「ガキなんてそんなもんさ。お前は聞き分けが良すぎるんだ。今からそんなふうに自分を縛ってちゃ、そのうち憧れも忘れちまう。そんなのもったいねえだろ? なんせお前は何にだってなれるんだ。今はただ、その選択肢を増やしてる最中。選ぶのはこれからでいい」
「……これから、でいいのか?」
「ああ。いいんだ」
自身の将来なんて考えたこともなかった。あの時は、ただ決まっている結末に向かって日々を淡々と過ごしていただけだったから。いざ、これから先に膨大な時間が待っていると言われても実感が湧かない。あの結末を望んでいるわけじゃないが——決められていない結末はこうも難しいものなのか。
——その日の夜。俺は両親に連れられ、祭殿へと来ていた。
昼間のことに折り合いをつけられていないまま訪れたその地は、普段司祭たる母さんが神へ祈りを捧げている場所。俺には全くの馴染みがない。入口の壁画には、かつていた十の神々について描かれている。
「母さん、父さん。祭壇に何の用なんだ?」
「いえ、少しね……」
壁画の横を素通りした俺は、歩みを止めることなく歩く両親の後へ続く。何か含みのある母の言い方に父は何か知っているのだろうかと視線を向けるが、気づいていないのか俺と目を合わせることはなかった。
暗い祭殿の中は、ろうそくの灯りが等間隔にあるだけ。
『かつて、この世界には十の神がいた。彼らは各々が収める国を興し、住う人々へ【星神】という加護を与えた。その恩恵は世界を発展させ、人々に恵みをもたらした』
神々が起こした国は、今となっては十の街へと姿を変え——それぞれの街がそれぞれの神々を讃えている。どの街の経典にも記されているこの文は、この世界の常識の一つだった。
(神様なんて信じちゃいないが……こうも盲目的だとな。それに、この街の発展が星神力のおかげなのは確かだ)
俺自身も、司祭の息子だからと星神力を操るための授業は行ってきた。
「——ソル、こっちだ。付いてきなさい」
突然に父の足が止まったかと思うと、今度はしっかりと俺を見て手招きをしていた。何があるのだろう——と、好奇心よりも不安が勝る。
「……階段?」
一歩踏み出して見えたのは、暗闇へと口を開けるように存在する地下への階段だった。
(地下に行くってことか? いや、それにしても祭壇に地下があったなんて俺は知らないぞ……)
というより、この様子からして階段のことを知っているのは二人だけなのだろう。司祭と助祭長たる二人——俺はなぜかその背が怖くなって、思わず息をのんだ。
俺を気に掛ける父とは違って、母は振り返ることなく階段を下りていく。コツコツという足音だけがあの人の存在を知らしめてくれている。
「……ここは」
長い階段を抜けると、一つの部屋へとたどり着いた。四方の隅にろうそくの灯りだけが灯り——その中心には、赤黒い文字で書かれた魔法陣のようなものがあった。
微動だにしない母と父の背を抜かし近寄った文字列は、チョークのようなもので描かれたというには違和感があった。まるで地面に浸み込んでしまっているかのような。
(……これ、よくみると血じゃないか?)
それを自覚すると、途端にぞわりとしたものが走る。何も言わず後ろにいる二人が得体のしれないもののように思え、一気に体が強張った。
「この場所は、あなたが私たちのもとへ来てくれた場所」
けたたましく鳴る心音とともに聞こえてくる母の声。ゆっくりと振り返ると、二人は入り口から一歩も動いてはいなかった。
「あの日からもう12年……長いようで、短い日々だったわ」
「なに、言って……」
母が告げる言葉のひとつひとつが、まるでこの世の言語ではないかのようだ。
(あの日ってなんだ? 言い方からして特別な日なんだろうが……俺の誕生日はまだ先だし。それに”来てくれた”って……俺はこの場所で生まれたのか?)
分からないことが多すぎる。父も母も何一つ説明をしてくれない。俺はその意味を理解しなくていいとでも言うように。
「愛しているわ、ソル。あなたが生まれた日から——たとえ、あなたがあなたではなくとも」
彼女の涙を、俺はその時初めて見た。透明な雫が、影となって地面に落ちる。どうして——という言葉は、目の前の光景とともに俺の耳に届いた言葉に対して浮かんだ疑問だった。
(いま、なんて言ったんだ……まさか、バレてたのか!? 一体いつ? どうして? いや、それよりも——俺はいったい、ここで何をされるんだ)
ゆっくりと立ち上がる。いつ何が起こっても対処できるように、口を引き結んで彼らの一挙一動に注意を払う。
だが、その警戒に反して母はいつも通り道端を歩くかのように、まっすぐと向かってきた。
「怖いわよね、混乱するのも無理はないわ。でも安心して、あなたはきっとすぐにこの意味を理解できるから。今のあなたは忘れているだけ。本来の知識も記憶も……掟に則り、私たちが封じたの」
ますます訳が分からない。本来の知識? 記憶? そりゃ、日々の一つ一つを事細かに覚えているわけではないが——懸命に生きた17年を忘れるわけがない。
だがそれでも、母は祈り願うように——そっと俺を抱きしめた。
「……っ!」
「ああ、私の愛しい子……こんな愚かな母を許してね。たとえあなたが人ではなくなったとしても、私たちはあなたを愛しているわ」
その言葉に、俺の体は硬直した。そしてそれを解く暇もなく——俺の体は陣の中心へ押し込まれた。
「何を……っ!?」
赤黒い文字列が一斉に光りだす。抵抗する暇さえなく、その眩い光が視界を覆った。
「——星神を賜えし祖の魂よ、獅子の血脈に来たれ。十の名、十の柱。世界を創生し創星されし恒明の地。星なる者、海馬に刻まれし星々の叡智よ。今、十二の時を持って開放す」
父の抑揚もない冷たい声が聞こえた。言葉の意味さえ理解できないが——それが、自身の行く末を示しているであろうことは、容易に理解できた。
全身が沸騰するように熱い。内から温度を上げられているかのように——臓腑から脳へ、四肢の先に至るまでも残さずに熱せられる。
「ぐッ……ぅ、ああああ!!」
薄れゆく意識の中で、かつて一度だけ母が話してくれた言葉が脳裏を過ぎっていた。
『この世界にはね、ずっと昔、神様がいたの。私たちに色々な贈り物をしてくれた神様へ、私たちは日々お祈りをしなくちゃならないの。ありがとう、お願いしますってね』
それはこの世界の理だった。幼い俺にも分かりやすく話してくれた母の言葉は、簡略化されすぎていてどう反応すればいいのか、俺は苦笑いを浮かべていた。
『母さんたち司祭はね。街のみんなが祈る願いを、集めて集めて——やがて訪れる大きな闇が、この世界を覆ってしまう前に、神様をお迎えできるようにしなくちゃいけないの。その時は……その時は、ソルにも頑張ってもらわないとね』
なぜ、今になって思い出すのか。最後くらいは今とは違った、心の底から幸せそうな笑みをした母を見せてくれても良かったじゃないか。幼心に刻まれた、今にも泣きそうな母の笑顔を俺は見ていた。
光が止んだ。ゆっくりと体内の熱が下がっていく。じわりと汗が頬に滲み、衝動的に空気を吸い込んだ。
「……っ、は」
肺に行き渡った空気は、思いの外体に滲んだようだった。目を開くと、目の前には誰も——いや。足元に見知った顔が転がっていた。
「母さん……っ!! 母さん!」
反射的に動いた体は、そのまま地面に横たわる母を抱き上げた。いくら呼びかけ、肩を揺すろうとも動かない。かろうじて息はあるようだが、その吐息さえか細い。
「一体どうなってるんだ!? 俺を生贄に神とやらを呼び出す儀式じゃなかったのか……!?」
母の一歩後ろで倒れる父も、微動だにしない。なぜ儀式を受ける側の俺が無事で、主催側の二人が倒れているのか。分からないばかりが増える現状に、俺は奥歯を食いしばった。その時、腕の中で小さく何かが聞こえた。
「……ぁ、ああ……お待ち、して、おりました……」
腕の中の母さんは、とても嬉しそうに——だがどこか悲しそうな笑みを作っていた。
他人へ話しかけるような言葉遣いに、違和感が募っていく。
「こんな、お見苦しい姿で……申し訳、ありません」
「……なに、いっ——」
「——神よ。あなたが創りし【地の街】の司祭たる私と、その民の命をあなたに捧げました。どうか、その糧を持って……この世界に訪れる暗黒を、打ち消しください」
息も絶え絶えに何を言うのか——そう思った俺の言葉を遮り、聞こえた言葉。
聞きたくなかった。知りたくなかった。この光景を目にした瞬間から湧いた違和感。その正体を。
「12年、あなたの記憶を封じていたことをお許しください。あなた様の魂が宿った体は、私たちの実の息子のもの……せめて、この子の星神力が安定する時期までは一人の息子との思い出を作っておきたかったのです」
頬に手が触れた。思わず掴んだその手は、冷たく震えていた。何より、俺が支えていないと今すぐに落ちてしまいそうなほど、か弱かった。
(待て。さっき、”命を”って……)
この青白い肌も、か細い吐息や声も。俺の中に未だ疼く、温かい何かも。全て、全て——。
「私たち【地の街】の司祭には、他の街の司祭には無い使命がありました。それが、百年に一度、この世にあなた様の魂を顕現させることです。前回の儀式からちょうど百年……それが、今なのです」
問うてもいないことを話す母は、まるで熱に浮かされた子供のようで。あまりに無垢なその笑みが、じわじわと俺を締め上げる。
(12年……俺が生まれた——いや。この世界に”転生”した時)
一度死ねば変わるはずの性根が変わることなく、二度目の生を受けた。だから——言われることもなく、頼られることよりも前にこの手を伸ばした。その度に、この街の人々は俺に温かい笑みを向けてくれた。それが途方もなく嬉しくて、あんな最後を迎えたかつての俺も、間違ってはいないのだと思えた。
(誓った。誓ったんだ……なのに)
もし、彼女たちがその事実を知ったら——どんな顔をするのだろう。
考えるまでもない。それは容易に想像できる未来だ。
ゆっくりと、かすかに残っていた温もりが冷えていく。その熱を奪うように熱くなる目頭を堪え、その手を強く握った。
「神よ……愚かな私共の願いを、どうか……聞き届けて、いただけ……ない、でしょうか……」
失われていく光を、失われていく温もりを、留める術を——俺は、知らない。
訳が分からないと思った。
何を勝手な、と混乱もした。
だけれども——思う。
(もしここで俺が俺であることを知ったら……この人たちは、どう思う?)
最後の最後、死の間際にする後悔ほど尾を引くものはない。
知っている絶望を——後悔を、この人たちにも与えるのか?
結果はどうあれ、俺をここまで育ててくれた。
前世、返せなかった恩を今世こそは返せると思っていた。
だが、このままじゃまた同じだ。
何も返せないまま、悲しみだけを与えることになる。
そんなの、ごめんだ。
「——ああ、いいだろう。この命を持って、その願いを……叶えよう」
この名に価値などない。
だが、この命には価値がある。
だから最後の最後——この人たちの瞳に映る俺を、偽った。
それが正しいかなど、分からないけれど。
光を失った瞳に幕を下ろし、俺は立ち上がった。
冷たい階段を上がる。成さなくてはならない。
彼女が最後、言いかけた言葉のためにも。
(彼女の使命が、この儀式だというのなら——俺の使命は)
腹の奥に燻る温かい何かは、俺への希望であり呪いだ。これがある限り、俺は永劫この命をその使命のために尽くし続ける。
(これでいい。これが、いいんだ……本来なら生まれて来てはいけなかった存在への、罰として)
彼女が最後に見せた笑みを、偽りにしないため。
——風が吹いていた。人の気配はひとつも無く。そこにはただ、無数の影が伸びているだけ。そんな人の気配のなさが荒野にも似た光景を生みだした街を、俺は歩いた。
見知った顔が、幾度となく地面に伏している。数時間前まで、俺の頭に手を置いてくれた茶髪の門兵までも。
その光景を目にするたびに、俺は自身の手のひらを見つめては、自身の存在意義を認識した。




