第1話:社会人の絶望と、神様からのセコい初期特典
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世界が変わる瞬間というのは、もっと劇的で、ドラマチックなものだと思っていた。
たとえば空から真っ赤な隕石が降ってくるとか、見知らぬ異世界の姫君が部屋の畳に出現して「お願いです勇者様!」と叫ぶとか、最低でも雷が直撃して前世の記憶が蘇るくらいのイベントはあって然るべきだ。
けれど、現実はあまりにも呆気なかった。
「……ねえ、宥子」
「なに、容子。今いいところなんだから話しかけないで。あと三十分で明日になっちゃうのよ、この資料の締め切りが」
都内の古びた賃貸アパート。
日付が変わる寸前、散らかった資料とパソコンの光に囲まれながら、私——琴陵宥子はキーボードを叩き続けていた。日中はブラック気味な貿易会社でルーティンと折衝に追われ、帰宅してからも残業の続きをこなす、文字通りの社畜生活である。
その横で、双子の妹である容子が、愛用のスケッチブックを抱えたままパジャマ姿で突っ立っていた。
容子は自分の右手を見つめ、ぼんやりとした目をしている。
「私さ、たった今、行ったことのある場所に一瞬で移動できるようになった」
「へー。すごーい。じゃあちょっとコンビニ行ってファミチキ買ってきてよ。ついでに私の分のエナジードリンクもお願い。あ、お金はそこにあるから」
「違うの。そういう『気合いを入れたら行ける』とかじゃなくて。空間がぐにゃってなって、一瞬で『飛べる』の」
「……はあ? なにバカなこと言って……」
私はパチパチと音を立てていた手を止め、呆れ果てて妹の顔を見上げようとした。
その時だった。
私の中に、猛烈な「違和感」が湧き上がった。
頭の奥底、脳のひだの隙間あたりに、今まで存在しなかった「未知の臓器」が急に生えてきたような感覚。それはまるで、自分の背中に新しく三本目の腕が生えて、それをどう動かせばいいのか直感的に理解できてしまうような、奇妙で恐ろしい感覚だった。
「……なに、これ」
私はマウスから手を離し、思わず自分の胸元を押さえた。
頭の中に、明確なイメージが浮かんでくる。
言葉にするなら、『漆黒の巨大な空間』。
高さも、奥行きも、幅すらも測れない、無限に広がる真空の部屋のようなものが、私という存在のすぐ裏側に「設置」された感覚。
「お姉ちゃんも、何か生えた?」
「……生えた。なんか、すっごい広い倉庫みたいなのが、脳内に直接接続されたんだけど……」
私たちは顔を見合わせた。
双子特有のシンパシーというやつだろうか。お互いの顔を見た瞬間、冗談でも幻覚でもなく、「自分たちの身にファンタジーでおなじみの『スキル』とやらが芽生えた」という絶対的な事実を理解してしまった。
言葉を失った六畳間に、古い冷蔵庫の「ブーン」という低いモータ音だけが響いていた。
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しかし、私たちに訪れた異変は、それだけでは終わらなかった。
「……待って。頭の中に変な声が響いてない?」
突然、容子がこめかみを押さえてうずくまった。
『——フッ。よくぞ選ばれし者よ』
脳内に直接響く、やけにエコーの効いた、胡散臭い神父のような声。
それは私たちの意識に向かって、一方的に語りかけてきた。
『突如として世界改変の波に巻き込まれ、理不尽な社畜労働や過酷なアパレル業界の底辺で消耗している23歳の双子よ。貴方たちに、世界を揺るがす「空間の理」を授けよう。そしてこれは、手違いで現代日本に転生させてしまったお詫び兼、ささやかな初期特典だ』
「初期特典……?」
私が声に出して呟くと、脳内の声はどこか得意げに響いた。
『そうだ。どんな大冒険者も最初は金欠で苦しむ。ゆえに、神罰代わりのセーフティネットとしてこれをやろう。——本日より、貴方たちの【心拍1回につき、10円】が現金として自動で支給される』
「は?」
『心拍数が上がれば上がるほど稼げるぞ! 命を削って稼ぎまくれ! では健闘を祈る!』
その声を最後に、頭の中の意識はプツリと途切れた。
「……今の、聞こえた?」
「聞こえた……。心拍1回につき10円……?」
私たちは慌てて自分の手首に指を当て、脈を測ってみた。
トクトク、と一定のテンポで脈打っている。
「ちょっと待って。今の私の脈拍、だいたい1分間に70回くらい……ということは、1分で700円。1時間で……ええと、4万2千円……!?」
「待ってお姉ちゃん、計算がバグってる。じゃあ寝てる間もずっと入るってこと? それとも心臓が止まったら終わりってこと?」
「どっちにしろ鬼畜仕様だけど、文字通り『生きているだけで金が湧く』システムじゃん……!」
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「よし、まず状況の整理と検証だ」
私たちはデスクの周りに散らかった資料を脇に追いやり、床に胡坐をかいて向き合った。
「私のスキルは、どうやら【転移魔法】みたい。一度行ったことがある場所で、景色を鮮明にイメージできる場所なら、一瞬でその場所に移動できる」
容子は自分の右手を見つめながら言った。
「マジで? じゃあハワイとか行けるの?」
「行ったことないから無理。……とりあえず、さっき試したんだけど、この部屋から徒歩3分のコンビニの裏手までは一瞬だった」
「ファストファッションの激務で鍛えたフットワークが、まさか魔法の前提条件になるとはね……」
私は感心しながら、自分の頭を指さした。
「私のはたぶん【アイテムボックス】。手に持ったものを、頭の中の空間に出し入れできるみたい」
私はデスクの上に置いてあったホッチキスを手に取り、頭の中の『漆黒の空間』に念じた。
(入れ!)
*シュン*
音もなく、ホッチキスが私の手から消えた。
「うわ、消えた!」
「で、こうやって念じると……」
(出ろ!)
*ポトン*
私の手の上に、寸分違わずさっきのホッチキスが戻ってきた。
「おおーっ! すっごい! まんまファンタジー小説のチートじゃん!」
容子は目を輝かせて拍手した。
しかし。
私たちは知っている。世の中そんなに甘くないということを。
そして、23歳という「社会の現実を味わった大人」の冷めた頭脳で、そのスキルの実用性を冷静に分析した。
「……ねえ、容子」
「なに、お姉ちゃん」
「これさ……単体だと**めちゃくちゃ使い勝手悪くね?**」
私の冷めた一言に、容子はピクッと肩を揺らした。
「……やっぱり、お姉ちゃんもそう思う?」
「思うよ! だってさ、私の【アイテムボックス】だけどさ。確かに入るよ? 容量は無限にありそうだし、入れたものの時間も止まるみたいだけどさ。——**入れるためには私がその場所まで行って、手で触らなきゃいけない**んだよ?」
「まあ、そうだね。貿易会社で日々、海外からのコンテナ手配やインボイスの数字と格闘している私から言わせれば、ただの『物理移動が伴う超小型倉庫』でしかない」
「私の【転移】も似たようなものだよ。行ったことある場所にしか飛べないし、持っていけるのは『私が自力で持ち上げられる重さのもの』だけ。生地のロール反物を抱えて飛ぼうとしたら、ぎっくり腰になるのがオチ」
そう。
神様だか存在Xだかが気まぐれで与えてくれたこの力。
一見すると無敵のチート能力に見えるが、その実態は「一人だと絶妙に使い道のない、ポンコツな片手落ちスキル」だったのだ。
一人で世界を牛耳ることもできなければ、スーパーヒーローになれるわけでもない。
少しばかり便利な手品ができるだけの、どこにでもいる社畜とパタンナーの姉妹のままだ。
「ハァ……期待して損した。明日の朝も早いし、仕事の続きやろ……」
私が諦めてパソコン画面に向き直ろうとした、その時だった。
カチリ、と。
容子の動きが完全に止まった。
その洗練されたファッションデザイナーとしての美意識を感じさせるシャープな目が、信じられないものを見るように見開かれていく。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんの【アイテムボックス】って、容量は?」
「たぶん無限。重さも感じない。貿易事務の私が持ったら、世界中の在庫を一人で抱え込めるレベルで無制限よ」
「私の【転移】は、距離制限はないの。日本国内なら、行ったことある場所ならどこでも一瞬」
容子はゆっくりと顔を上げ、私を凝視した。
その瞳には、日々の低賃金労働への鬱屈を吹き飛ばす、狂気的なまでの光が宿っていた。
「……お姉ちゃんが、海外のハイブランドの新作サンプルや、世界中のレアな特産品を、お姉ちゃんの【アイテムボックス】に限界まで詰め込むでしょ?」
「うん」
「で、私が『お姉ちゃんの手を握って』、日本の裏側の隠しアトリエや、特定のバイヤーの目の前に一瞬で転移するでしょ?」
「……うん?」
「それってさ……『質量無制限の高級物資や極秘商品を、輸送コストゼロ、タイムラグゼロ、関税や中間マージンを完全にスルーして、世界のどこへでも密輸できる』ってことじゃない……?」
「………………」
私の頭の中で、カチリと音がした。
脳内のパーツが、完璧に噛み合った音だ。
そして、あの存在Xが言っていた言葉が脳裏によみがえる。
——*心拍数が上がれば上がるほど稼げるぞ! 命を削って稼ぎまくれ!*
貿易会社で日夜、非効率な物流網や高額な関税、現地のサプライチェーンの遅延に頭を悩ませてきた私と、トレンドの波に乗り遅れて買い叩かれるアパレル業界の底辺で泥水をすすってきた容子。
姉の『無限の貿易倉庫』。
妹の『瞬間の空間跳躍』。
そして、生きているだけで心臓の鼓動ごとにチャリンチャリンと稼げる、狂気の初期特典。
一人じゃただのポンコツ。
けれど、ふたりが手をつないだ瞬間——それは現代社会の物流システムと経済のルールを根本から破壊し、文字通り「億万長者への特急券」へと変貌するのだ。
「……容子」
「なに、お姉ちゃん」
「会社、明日二人揃って有給(という名のバックレ)取ろっか」
「賛成。私、今めちゃくちゃ心拍数上がってるから、すでに数万円稼いじゃってるわよ」
薄暗い六畳間のアパートで、23歳の社畜姉とファッションデザイナーの妹は、最高に悪びれた笑みを交わし合った。
世界はまだ知らない。
この日、現代社会の裏側で、史上最強にして最もコスパの良い「現代魔法ビジネス」が産声を上げたことを。




