第1話 アンタレスの影 4
4 星の名を持たない記憶
店内には、あいかわらず時間の気配がなかった。
星々は静かに天井を巡り、うつくしい無音の宇宙を描いていた。カップの中の熱はすっかり冷めて、香りだけがかすかに残っている。
カウンターの奥で、店主は黙々とグラスを磨いていた。
その姿はまるで、遠い銀河の片隅でただひとつの恒星を見守る守人のようだった。
僕はポケットの中で、黒い石をそっと指先で撫でた。
角のとれた滑らかさ、しかしどこか鋭さを秘めた感触。
それは、かつてのモリオンとは違っていた。けれど確かに、同じ記憶の鉱脈に属していた。
あの夏の川辺で、僕はアンタレスを見なかった。
そしてそれが、僕にとっての見えない記憶になった。
名づけられず、説明もできず、ただ心のどこかに沈殿していた何か。
それが今、ようやく形を持って、ここに現れたのだ。
「……これは、僕のものですか?」
思わず、そう口にしていた。
誰に尋ねたのか、自分でもわからない。
けれど、カウンターの向こうから店主が目を上げて、短く頷いた。
「記憶とは、取り戻すものではなく、受け入れるものです」
その言葉は、深く、静かに僕の胸に沈んでいった。
記憶は失われたのではない。忘れられたふりをして、ずっとそこにあったのだ。
手放すこともできず、言葉にもできず、けれど確かに心の一部として。
僕は立ち上がり、椅子を静かに戻した。
店内の照明が少しだけ暗くなった気がしたのは、たぶん僕の気のせいだった。
プラネタリウムの星々がゆっくりと、位置をずらしていく。
まるで、次の来訪者の記憶に合わせるように。
ドアに手をかけると、あの「OPEN」の札がかすかに揺れた。
風はないのに、時間だけがゆっくりと流れていく音がした。
外に出ると、夜の街は驚くほど静かだった。
空を見上げる。
夏の夜空に輝くアンタレスの位置を、僕は正確には知らない。
けれど、どこかで名前のない小さな星が寄り添っていることを、僕は確かに知っていた。
それだけで、今夜は充分だった。
「アンタレスの影」は、これにて幕を下ろします。
また別の夜、別の記憶で、お会いしましょう。
次回:「ポラリスの嘘」動かないはずの星が灯す老紳士の小さな嘘と亡き妻との記憶の物語。




