第1話 アンタレスの影 3
3 見えなかった星
「アンタレスを見たこと、あるかい?」
彼が僕にそう尋ねたのは、夏の終わり、川辺の土手に三人で座っていたときだった。
僕と姉と、彼。
持参したレジャーシートを敷いて、花火も屋台もない夜の空を、ただじっと待っていた。
川の流れは低く、ごう、とも、すう、ともつかない音を立てていた。
風が吹くたび、草のにおいが鼻先をかすめ、
僕は缶ジュースを握りしめながら、空が暗くなっていくのを見上げていた。
「アンタレスはね、さそり座の心臓にある星なんだ。とても赤くて、夜空の中でも目立つ星。でもね、その隣に、小さな、小さな星があるんだ。ほとんど誰も気づかないくらいに近くて、影みたいに寄り添ってる」
そう言いながら、彼は望遠鏡のレンズを調整していた。
組み立て式の小型のもので、ピント合わせが難しいと何度か呟いていた。
「名前はあるの?」と僕が訊いた。
「ないんだ。いや、たぶん専門的にはあるのかもしれない。でも、僕は“アンタレスの影”って呼んでる。名前がついていないものって、記憶の中で自由になれるんだよ。誰にも決められず、誰のものにもならないままで」
僕はそのとき、彼の横顔を見ていた。
輪郭は影のようにぼやけていて、目の奥に何か深く沈んだものがあった。
姉は隣で静かに笑っていたけれど、その笑いもどこか遠くにあるように感じられた。
「見てみる?」
そう言って、彼は望遠鏡をこちらに向けた。
僕は立ち上がり、レンズを覗き込んだ。
——でも、何も見えなかった。
黒い空の中に、赤い点を探したけれど、焦点は合わず、レンズの曇りのせいか、僕の目のせいか、それともそもそも星がそこになかったのか。わからない。
記憶の中には、その視界の像がまるで残っていない。
見えなかったことだけが、なぜか鮮明に残っている。
「どうだった?」と彼が訊いた。
「うん、……ちょっと、よくわかんなかった」と僕は答えた。
彼は、それでも嬉しそうに頷いた。
「それでいい。見えなかった記憶のほうが、案外ずっと残るんだよ」
その言葉が、不思議に胸に残った。
見えないものが、ずっと記憶に残る——それは、名前のない星と、モリオンの黒さと、彼の存在そのものを言い当てているような気がした。
数日後、彼は忽然と姿を消した。
ただ、ひとつの缶と、ひとつの石だけを残して。
そして今、カフェ・プラネタリウムのテーブルの上で、湯気の消えたカップの底には、黒い鉱石がひと粒沈んでいた。
その小さな影は、まるで言葉にならなかった何かが結晶したかのように、静かにそこに佇んでいるようだった。
僕はそっと指先でそれをつまみ上げた。
光を吸い込むようなその黒さに、見覚えがあった。
けれど、それは今も机の引き出しに眠るモリオンとは、形も質感も違っていた。
それでもなぜか、似た重みが胸の奥に生まれた。
——あの夜。
彼と姉と三人で川辺に座り、星を待っていた夜。
望遠鏡を覗いても、何も見えなかった。
僕の目には映らなかった星のかわりに、彼が語ってくれた“アンタレスの影”の話だけが、ずっと残っていた。
きっとこの石は、あのとき目にすることのできなかった記憶の、形にならなかった証のようなものだ。
見えなかった星のかわりに、いま——ようやく触れることができたもの。
彼が、僕の時間の中に置いていったものだった。
僕はその石をポケットにしまった。
小さな重さが、布越しに心臓の鼓動と静かに重なった。
そう、これは、あの夜の名前のない星のかけらだ。
誰にも見えないけれど、確かにそこにあるもの。
そういう記憶のかたちを、僕はずっと探していたのかもしれない。
次回、第1話第最終節「星の名を持たない記憶」へ続きます。




