表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カフェ・プラネタリウムでは、記憶をひとつ飲むことができます。  作者: テトラコード
カフェ・プラネタリウムでは、記憶をひとつ飲むことができます。
PR
3/16

第1話 アンタレスの影 3

3 見えなかった星


「アンタレスを見たこと、あるかい?」


彼が僕にそう尋ねたのは、夏の終わり、川辺の土手に三人で座っていたときだった。

僕と姉と、彼。

持参したレジャーシートを敷いて、花火も屋台もない夜の空を、ただじっと待っていた。


川の流れは低く、ごう、とも、すう、ともつかない音を立てていた。

風が吹くたび、草のにおいが鼻先をかすめ、

僕は缶ジュースを握りしめながら、空が暗くなっていくのを見上げていた。


「アンタレスはね、さそり座の心臓にある星なんだ。とても赤くて、夜空の中でも目立つ星。でもね、その隣に、小さな、小さな星があるんだ。ほとんど誰も気づかないくらいに近くて、影みたいに寄り添ってる」


そう言いながら、彼は望遠鏡のレンズを調整していた。

組み立て式の小型のもので、ピント合わせが難しいと何度か呟いていた。


「名前はあるの?」と僕が訊いた。


「ないんだ。いや、たぶん専門的にはあるのかもしれない。でも、僕は“アンタレスの影”って呼んでる。名前がついていないものって、記憶の中で自由になれるんだよ。誰にも決められず、誰のものにもならないままで」


僕はそのとき、彼の横顔を見ていた。

輪郭は影のようにぼやけていて、目の奥に何か深く沈んだものがあった。

姉は隣で静かに笑っていたけれど、その笑いもどこか遠くにあるように感じられた。


「見てみる?」


そう言って、彼は望遠鏡をこちらに向けた。

僕は立ち上がり、レンズを覗き込んだ。


——でも、何も見えなかった。


黒い空の中に、赤い点を探したけれど、焦点は合わず、レンズの曇りのせいか、僕の目のせいか、それともそもそも星がそこになかったのか。わからない。

記憶の中には、その視界の像がまるで残っていない。


見えなかったことだけが、なぜか鮮明に残っている。


「どうだった?」と彼が訊いた。


「うん、……ちょっと、よくわかんなかった」と僕は答えた。


彼は、それでも嬉しそうに頷いた。


「それでいい。見えなかった記憶のほうが、案外ずっと残るんだよ」


その言葉が、不思議に胸に残った。

見えないものが、ずっと記憶に残る——それは、名前のない星と、モリオンの黒さと、彼の存在そのものを言い当てているような気がした。


数日後、彼は忽然と姿を消した。

ただ、ひとつの缶と、ひとつの石だけを残して。




そして今、カフェ・プラネタリウムのテーブルの上で、湯気の消えたカップの底には、黒い鉱石がひと粒沈んでいた。

その小さな影は、まるで言葉にならなかった何かが結晶したかのように、静かにそこに佇んでいるようだった。


僕はそっと指先でそれをつまみ上げた。


光を吸い込むようなその黒さに、見覚えがあった。

けれど、それは今も机の引き出しに眠るモリオンとは、形も質感も違っていた。

それでもなぜか、似た重みが胸の奥に生まれた。


——あの夜。

彼と姉と三人で川辺に座り、星を待っていた夜。

望遠鏡を覗いても、何も見えなかった。

僕の目には映らなかった星のかわりに、彼が語ってくれた“アンタレスの影”の話だけが、ずっと残っていた。


きっとこの石は、あのとき目にすることのできなかった記憶の、形にならなかった証のようなものだ。

見えなかった星のかわりに、いま——ようやく触れることができたもの。


彼が、僕の時間の中に置いていったものだった。


僕はその石をポケットにしまった。

小さな重さが、布越しに心臓の鼓動と静かに重なった。


そう、これは、あの夜の名前のない星のかけらだ。

誰にも見えないけれど、確かにそこにあるもの。

そういう記憶のかたちを、僕はずっと探していたのかもしれない。

次回、第1話第最終節「星の名を持たない記憶」へ続きます。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ