第4話 スピカの声 1
その紙片は、ほんとうに偶然、私の前に現れた。
図書館の二階奥、あまり人が近づかない古い天文学の棚の前で、私は分厚い専門書を手に取っていた。表紙の布地は色褪せ、角がすり切れている。ページをめくると、紙は乾いた葉のようにぱりぱりと音を立てた。その音が静かな図書館に微かに響き、自分の指先がやけに大きく感じられる。
最後のページを閉じ、棚に戻そうとしたとき——するり、と何かが足元に落ちた。薄く、軽いもの。屈んで拾い上げると、それは古いメモ用紙のようだった。
紙は指先にざらりとした感触を残した。長く仕舞われていた紙が持つ、ほこりとインクと時間の匂い。片面には子どもの落書きのような星の絵。黒い線でぎこちなく描かれ、ところどころに色鉛筆の青と黄がはみ出している。裏返すと、滲んだインクで描かれた地図のような線と、細い鉛筆の文字があった。
——「記憶をひとつ、飲むことができます。」
意味はよくわからない。けれど、その文字を見た瞬間、弟の顔が思い浮かんだ。
弟は十歳。二年前の初夏、交通事故で声を失った。
あの日から、彼の口から言葉はひとつも出ない。泣き声も笑い声も、喉の奥で閉じ込められたまま。
事故前の弟は、よくしゃべる子だった。
テレビのセリフを真似しては母を笑わせ、意味のない歌をでたらめに作っては私の部屋に乱入してきた。笑い声も、話し声も、泣き声も、怒った声でさえ、どこか旋律を持っていて、まるで歌うようだった。
けれど、あの日の事故以来、その声は閉じられてしまった。
病院で目を覚ました弟は、声を出すことも、笑うこともなくなった。医師の説明は簡潔で、取り返しのつかないことの響きだけが残った。
声を失ってからは、まるで音楽のない映画のように、彼の世界は静まり返ってしまっている。
母は今も看病を続けている。けれど、彼の心の奥深くに届くのは難しかった。
私は学校から帰ると、できるだけ弟のそばに座った。本を読み聞かせ、絵を描く手元を見守り、ときには筆談もした。
文字で会話を紡ぐことはできるようになったが、それでも沈黙は消えなかった。その沈黙の輪郭に触れるたび、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
だからこの紙片が本の間に挟まっていたことを、ただの偶然と片付けられなかった。
私は紙をポケットにしまい、図書館を出た。
外は、夕暮れの始まりだった。
夏の終わり特有の、熱の残った風が頬を撫でる。街路樹の葉が薄い影を地面に落とし、人々の足音が商店街へと吸い込まれていく。紙片の地図は、曖昧な線と点でしか道筋を示していない。それでも私は、これがどこかへ導いているのだと信じた。
歩きながら、ふと公園の脇を通った。ブランコの前に老紳士が立っていた。背筋がまっすぐで、上質な帽子を被り、手には古びた手帳を持っている。私のポケットから紙片の角が覗いていたのだろう、老紳士はそれに視線を落とし、微笑んだ。
「その紙を、あなたは見つけたのですね。」
驚いて立ち止まると、老紳士は私の手元を見つめた。
「その店なら、私もかつて訪れたことがある。静かに耳を澄ませる場所。大切な想いが、星の光と一緒に戻ってくるかもしれない」
それだけを言い残し、老紳士はゆっくりと歩き去った。
足音は芝生の上で柔らかく消え、すぐに姿が見えなくなった。
家に戻ると、弟は机の上でスケッチブックを広げていた。紙いっぱいに星の絵。小さな点や線でつながったもの、大きく滲む丸い星、ページの端に隠れるような小さな星——声がなくなってから、彼はよく星を描くようになった。
私は弟に「散歩に行こう」と声をかけた。弟は一瞬、私の顔をじっと見たあと、小さく頷いた。
紙片の地図に導かれ、住宅街を抜け、古い石畳の路地に入る。街の喧騒が背後に遠ざかり、聞こえるのは自分たちの足音と、どこかで鳴く小鳥の声だけになった。
やがて、その店が現れた。
《カフェ・プラネタリウム》
木の扉は濃い藍色に塗られ、金色の取っ手が星の形をしている。
私は深呼吸をし、弟の手を握って扉を押した。
中に入ると、外よりも広い空間が広がっていた。天井は高く、薄暗がりの中に柔らかな星の光が浮かんでいる。星々は静かに瞬き、その光がテーブルや壁に淡い影をつくる。空気は涼しく、ほのかに焙煎した豆の香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ。」
水の底から響くような静かな声。カウンターの奥には、黒いシャツにエプロンをかけた店主が立っていた。整った顔立ちと、人ならぬような透明感をもった瞳。初めて会うのに、どこか懐かしい気配があった。
私は弟の背を軽く押して席へと向かった。弟はカバンからノートとペンを取り出し、さらさらと書いた。
《ここ、音がきれい。》
確かに、星の光が揺れるたび、小さな音が響いている。それは楽器の音でも機械の音でもなく、水面に小石を落としたときに広がる波紋のような、形のない響きだった。
「ご注文はいかがいたしましょうか?」と店主が近づく。
弟はノートを開いたまま、しばらく鉛筆の先を宙に漂わせていた。紙の白さをじっと見つめ、何かを胸の奥で確かめるように息をひとつ吐く。
そして、小さく一文字ずつ、――ス ピ カ――と書いた。その文字の横に、星のような点をひとつ打つ。
私はそのノートを店主に見せ、「弟は……スピカが、見たいみたいです。……それって、注文できますか?」と尋ねた。
店主は少しだけ目を細めた。
「スピカ。はい、ご用意できます。少々お時間をいただきますが、お待ちいただけますか?」
私は頷いた。弟も、そっとペンを動かした。
《スピカって、どんな音?》
その言葉を見て、店主は静かに微笑んだ。
「音を持たない声かもしれません。でも、きっと、届きます。」
弟はその言葉を聞いて、ほんのわずかにうなずいた。その表情は、不思議なほど私の記憶の中にある「声を持っていた頃」の彼と、確かに重なっていた。
店主がカウンターの奥に戻ってから、しばらく時間が流れた。
その間、弟は静かに天井を見つめていた。星々は、絶え間なくきらめいていた。音を持たない小さな粒たちが、店内の空気に微細な振動を与え、空間そのものが薄い呼吸をしているようだった。
やがて、店主が戻ってきた。
彼の手には、銀色の小さなトレイが載っていた。その上には、奇妙なグラスがひとつ。角の取れた六角形のようなフォルムをしていて、まるで氷の結晶を溶かして形にしたような、透明な器だった。
「スピカの記憶です。」
グラスの中には、透明な液体が満たされていた。けれど、よく見ると、その液体の底には、ひとつの小さな光点が揺れていた。白でも青でもない、光の源そのもののような色。ほんのわずかに、鼓動のようなリズムで明滅を繰り返していた。
弟はグラスを見つめていた。
店主が頷くと、弟はそっと両手でそれを受け取った。驚いたように、指先がぴくりと震えた。まるで、静電気が走ったようだった。
「少し、冷たいかもしれません。でも、すぐに慣れます。」
弟は頷くだけだった。彼の視線は、グラスの中の光から離れなかった。
そしてそのまま弟はグラスを傾け、ゆっくりとその液体を口に含んだ。
次の瞬間、弟の瞳がふっと揺れた。
まるで光に包まれるように、彼の意識が、すうっと深いところへ引き込まれていく。
そして、彼のまぶたがゆっくりと閉じられた。
店内の空気が変わった。時間が止まったように、すべての音がひとつ後ろへ退いた。
私は息をのんだ。
弟の頬に、ほんのり赤みが差している。彼は微かに笑っているようにも見えた。けれど、その笑みは、どこか遠い場所にある誰かに向けられているようだった。
グラスの底に、わずかな光が、呼吸のように明滅していた。
弟は、記憶の中にいるように見えた。
まだ声を持っていた頃の、失われた記憶のなかに——。
続きます。次節からは弟視点のお話になります。
引き続きよろしくお願いいたします✨




