第3話 ベガの手紙 4
カップはすでに空だった。
けれど、手のひらに残るそのかすかな温度が、私をこの店とつなぎとめていた。
涙の跡が頬に冷たく乾き、指先はいつのまにか、胸の前でそっと組まれていた。
私はただ、静かに椅子に座っていた。
時間が、止まったまま音もなく過ぎていく。
店内は相変わらず静かで、あの星図のような天井には、数粒の星がゆっくりと呼吸していた。
けれど、その光は少しだけ淡く、少しだけ遠くなったようにも感じられた。
まるでこの店が、私を送り出す準備を始めているようだった。
店主は変わらず、向かいの席に佇んでいた。
何も語らず、何も求めず、その静けさのなかで、私の中に残された余韻を見守っているようだった。
やがて彼は、そっと席を立ち、奥の棚の引き出しを開けた。
取り出されたのは、一枚の白い封筒だった。封はされておらず、薄く光沢を帯びた紙が差し込まれていた。
店主はそれを私の前に置いた。まるで、長いあいだ誰かを待っていた宝物を、ようやく相応しい人に手渡すかのように、ゆっくりと。
「これは、あなたの手紙です」
私はその言葉を、最初よく理解できなかった。
けれど、封筒のなかの紙をそっと引き出してみて、それが“無地の便箋”だと気づいた瞬間、何かが胸の奥で震えた。
罫線も印刷も、何もない、ただの白。
けれど、その白さは、何も書かれていないことの無意味さではなく、まだ語られていないことの余白だった。
店主は続けた。
「いま、書かなくても構いません。
言葉には、それぞれ現れる時があります。
無理に引き出せば、ひびが入ることもある。
けれど、必要なときには必ず、言葉は来ます。まるで星が夜空を選ぶように」
私はその白い紙を、そっと封筒に戻した。
それをカバンにしまいながら、胸の奥に、ほんのわずかな明るさを感じていた。
未来に向けて、まだ何も書かれていない便箋をもらったこと。
その意味を、私は手のひらで確かめていた。
立ち上がると、足元が少しだけふらついた。
長く何かを溜め込んでいた身体が、すこしずつ力を抜いていくのを感じた。
店内の床は、やさしい木の色をしていて、歩くたびにわずかにきしんだ。
その音が、どこか懐かしい音楽のように響いた。
ドアの前まで来たとき、私は一度だけ振り返った。
天井の星たちはもう、見えなかった。けれど、それでよかった。
星は、背中を向けても、そこにある。光は、見えなくても、消えたりはしない。
私はドアを押して、外に出た。
夜の空気が、肺の奥までひんやりと満ちた。
あの部屋の、ぬるく沈黙をたたえた空気とはまるで違っていた。
私はほんのすこし、鼻先で夜の匂いを確かめた。
少しだけ雨の気配が混じっていて、それが草のような甘さを運んでいた。
見慣れた道が、見知らぬ世界のように思えた。
角を曲がれば、あの部屋に戻るだけなのに。
けれど今は、その「戻る」ことに、わずかだが違う意味が宿っていた。
逃げるための部屋ではなく、言葉をひとつずつ芽吹かせるための場所へ──。
帰り道、私は何度もポケットの中の便箋を確かめた。
その紙が、折れたり濡れたりしていないか、意味もなく触れていた。
たった一枚の紙が、こんなにも重みを持つことがあるとは、知らなかった。
部屋に戻ると、まず窓の鍵を外した。
引きこもっていたあいだ淀んでいた空気を入れ替えるため、少し大きめに窓を開ける。夜の風が、遠慮がちに部屋の中へ入ってくる。カーテンの裾がかすかに揺れ、長いあいだ閉じきっていた部屋が、やっと呼吸を取り戻すようだった。
私は、窓についている指紋の汚れを布でそっと拭き取った。少しずつ透明さを取り戻していくガラスの向こうに、夜が静かに広がっていた。
チェストの奥から、古びたアルバムを取り出す。
ほとんど開くことのなかったその表紙は、手に吸いつくように冷たかった。
ページをめくると、祖母と過ごした日々が、色褪せた紙の上に静かに並んでいた。
夏の日差しの中、庭の木陰で笑う祖母。縁側で縫い物をしている横顔。遠くを見つめるときの、少しだけ寂しげな瞳。
私はその中の一枚を長く見つめた。祖母が私の手を握っている写真だった。
その温もりは、もう確かめられないけれど、紙の中の手の形は、今もはっきりとそこにあった。
私は深呼吸してから、机の上に白い便箋を置き、横にペンを並べた。
しばらくは何も書かず、ただ写真の余韻を胸に留めていた。
そして、ゆっくりとペンを持ち、たった一行だけ書いた。
──ありがとう。今なら、ちゃんと聞けるよ。
その言葉が、どこからやってきたのかは、わからなかった。
けれど、それがまぎれもなく自分自身の声だと感じられた。
長いあいだ、胸の奥でくぐもっていた音が、ようやく言葉になって現れたのだ。
私は便箋をそっと折り、封筒に戻した。
そして、胸元に引き寄せた。
外はまだ、夜の気配が残っていた。
私は玄関を開けて、ほんの数歩だけ外へ出た。
こうして昼と夜の境目に身を置くのは、引きこもって以来、久しぶりのことだった。
光はやわらかく、まだ目に慣れない。けれど、その不慣れささえ、私を外へ誘うささやきのように感じられた。
空を見上げた。
雲はなかった。
いくつかの星が、滲むようにまたたいていた。
どの星がどの名前なのか、確かめようとは思わなかった。
けれど、そのどれかが私の言葉を受け取ってくれたような気がした。
名前のない光たちが、空の高みに浮かんでいた。
その下で、私は、ゆっくりと目を閉じた。
ひとつの記憶が、胸のなかで呼吸を始めていた。
fin.
第3話「ベガの手紙」におつきあいいただきありがとうございました。
次回から第4話「スピカの声」をお届けします。声を失った少年の物語です。
明日更新予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
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