第3話 ベガの手紙 3
飲み終えたカップは、指先に静かな余韻の感触を残していた。
手のひらで包んだガラスの縁には、わずかに水滴がついていたけれど、それが自分の涙なのか、店内の温度差によるものなのか、私には判別できなかった。
カップの底に残る光は、すでに消えていた。ただの透明なガラス。その中に、つい先ほどまで記憶が封じられていたとは、とても信じがたい。
私はゆっくりと息を吐いた。深く、長く。それは、自分の身体の内側に長らく淀んでいたものを、ほんのすこしだけ外へ送り出すような呼吸だった。
店内には、時計の音さえなかった。誰かが背後にいることを意識しながらも、その存在は決して重く感じられなかった。私の向かいに立つ店主は、まるで空間の一部としてそこにいるようだった。
静けさの中で、私は口を開いた。
「……あの手紙のことは、ずっと、なかったことにしていました」
自分の声が、かすかに震えていた。喉の奥に、いくつもの言葉のかけらが詰まっていた。けれど、それでも、語らずにはいられなかった。なぜなら、そのカップに触れてしまった以上、私はもう、思い出すことから逃れられなかったのだ。
「あれを見つけたのは、中学生の頃でした。祖母が亡くなって、遺品を片づけているとき、机の奥に引き出しがあって。最初は開かないと思ったんです。ずいぶん古びていて、引っかかっていて……でも、少し力を入れたら、ゆっくり開いたんです」
そのときの感触は、今でも手のひらに残っている。固く乾いた木の手触り、擦れた音、埃っぽい空気。そこには、便箋が数枚、重ねて置かれていた。封筒には入っていなかった。ただ、そっと折りたたまれていただけだった。
「最初は誰に宛てたものか、わからなかったんです。でも、読み進めるうちに、あれは母に向けて書かれたものだって、すぐに気づきました。祖母が、言えなかった言葉を、静かに綴っていた──そんな手紙でした」
便箋の紙は、ところどころ黄ばんでいて、インクは少しだけにじんでいた。祖母の筆跡は、小さく、ゆっくりとしたもので、ところどころ震えていた。それが病のせいだったのか、感情の波によるものだったのか、私は知る由もなかった。
ただ、その文字のひとつひとつから、祖母の息づかいが確かに伝わってきた。
「そこに、私のことも書かれていました。“あの子は、夜の風のように繊細で、けれど必ず、光に触れることができる”──そんなふうに。母に向けた手紙の中で、私に触れた部分はたったそれだけだったけど、なぜか、その一文だけが、ずっと記憶に残っていたんです」
私はカップの細い脚を指でなぞりながら、しばらく黙った。
店主は、相変わらず何も言わずに私の言葉を受け止めていた。その沈黙に、私は救われていた。
急かされることも、解釈を強いられることもなかった。ただ、語られたことが語られたまま、空気に漂っていた。
「私は……あの手紙のことを、誰にも話せなかったんです。母にも。まるで、私があれを見つけたことが間違いだったみたいで……。それに、手紙の中で祖母が語っていた“後悔”や“謝罪”は、私が読んでいいものじゃない気がして……」
声が途切れた。胸の奥が、すこしずつ締めつけられていく。
あの手紙を、私はどこかで「罪」だと思っていた。
見つけてしまったこと。
読んでしまったこと。
そこに綴られていた感情に触れてしまったこと。
何も知らなければよかった。そう思った夜もあった。
でも、本当は──知ることができて、よかったのだと、今は思う。
それに気づくまでに、何年もかかってしまったけれど。
「それでも私は、祖母の言葉に応えられませんでした。部屋に閉じこもって、何もできなくて、人と話すこともできなくなって……。あの手紙を読んだ日から、むしろ、私は光から遠ざかっていったような気がします」
私は俯いた。
肩に、静かに何かが触れた気がした。けれど、振り返ると、そこには誰もいなかった。
そのとき、店主が初めて言葉を発した。
「言葉にならなかった想いは、光になります」
その言葉は、まるで静かに降る雪のように、ゆっくりと私の中に染み込んでいった。
私は顔を上げ、店主の瞳を見た。その奥には、夜空のような深さがあった。
何も映さないようでいて、すべてを包み込んでいるような、そんな眼差しだった。
「それは、誰にも届かなかったものではありません」
店主は続けた。
「まだ、届いていないだけなのです。言葉にならないまま、形にならないまま、それでも存在し続けているものは、やがて誰かのもとへ届きます。たとえ、時間がどれだけかかっても」
私はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
言葉にならなかった想い。それは、私が祖母に向けて伝えられなかった感謝でもあり、母に伝えられなかった真実でもあった。
自分でも形にできなかった感情が、たしかにこの世界に残っている。そう思うだけで、胸の奥にわずかな光がともった。
ふと、天井を見上げた。
星たちが瞬いていた。小さな灯りの粒が、深い夜の中で呼吸しているように、静かに揺れていた。
その中で、ひときわ明るい星があった。
──ベガ。
夏の夜、祖母と寝転んで見上げた草むらの空を、私は思い出していた。
虫の音。土の匂い。少しだけ湿った空気。
祖母が指をさして「これが織姫星」と教えてくれたとき、私はその名の響きが好きだと言った。
「名前のきれいな星は、きっと誰かの手紙なのよ」と、祖母は笑った。
あのときの言葉が、いまになってようやく、胸の奥に届いた。
「……私、ほんとうは誰かと話したかったのかもしれません」
その言葉が、自分の口から出たことに驚いた。
でも、もう止められなかった。
「ただ、言葉にできない気持ちばかりが増えていって……。何をどう伝えていいのか分からなくて。話せば壊れてしまいそうで、だから、誰にも会わずにいました。でも、いまなら……」
そこまで言ったとき、私は初めて、泣いていることに気づいた。
涙は音もなく頬をつたっていた。拭おうとも思わなかった。むしろ、そのまま流れていくことを許した。
店主は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は、決して冷たいものではなかった。
あたたかく、ひそやかに寄り添ってくれる静けさだった。
私はその静けさの中で、はじめて、自分が赦されたような気がした。
続きます。次回が第3話最終話になります。
ブックマークが2件になってました!!
ほんとに?!って思ってめっちゃリロードして確かめましたw 本当にありがとうございます!
いつも読んでくださっている皆様に感謝です⸜(ˊᵕˋ)⸝