【第四章 石を落とし、星を掲げよ】Un nuovo tempo!(新時代を)
形ばかりの教皇選挙を経て、ついに聖誕祭の日がやってきた。
初代教皇の聖誕祭と新教皇の戴冠式が重なるのは、教国の長い歴史において初めてのことだ。
神に仕える者にふさわしく真銀な衣装をまとったミケーレは、スクーロとキアロをきつく抱きしめると、「行ってくるよ」と微笑んで大聖堂へ向かった。
白亜の大聖堂、その長い身廊の先にある半円の後陣は、目が覚めるような青と金に彩られている。
天井まで伸びる壁画には、天使に見守られながら天と地、そして朝と夜を統べる初代教皇の姿があった。
アプスの高窓からは、霞のように淡く白い光が注いでいる。
大勢の聖職者、そして各国の王やその名代が見守る中、祭壇に向かってミケーレが跪いた。
その美しい横顔に、神の祝福のごとき一条の光が射すと、列席者たちがどよめいた。
人前で感情のほころびを見せてはならぬと教育されてきた王族たちでさえ、ミケーレという若き教皇が醸す神聖さに、驚きを隠せなかったのだ。
好々爺然とした新・首席枢機卿が長い祝祷を捧げ、新教皇に黄金の聖冠を贈る。
跪いたまま長い間瞳を閉じていたミケーレは、頭上の重みを恭しく噛みしめているようだった。
キアロとスクーロはこの聖なる儀式を、誰にも知られることなく、特等席で見守っていた。
実は、ひと際豪華に飾られた主祭壇には、人がふたりほど隠れられる空間があり、そこに忍び込むことをミケーレが提案したのだった。
ミケーレからすれば、安全面からスクーロを各国要人の目に晒すわけにはいかない中で、「にいにの晴れ舞台をどうしても見たい」とせがまれての苦肉の策ではあった。
が、ふたりと共に深夜の大聖堂に忍び込み、祭壇の中に入っている聖遺物を取り出す彼の瞳は、いたずらに夢中になる少年のようにきらきらしていた。
ミケーレが老枢機卿の目を盗んで主祭壇にウインクすると、キアロたちは音を出さずに喝采した。
が、ミケーレが立ち上がり、列席者たちが万雷の拍手を送ったので、ふたりも思う存分手を叩く。
おじいちゃん枢機卿が、ん? という顔で祭壇を振り返ったけれど、なんとか笑いを噛み殺して耐えた。
一行が祝賀パレードに向かうために退出し始めると、キアロたちは急いで主祭壇の床から地下へと潜った。
そして、突き当りに見えてくる、長いはしごを上っていく。
途中からは狭い階段を使って、「押すなよ、危ねーな」「押してないってば!」と小競り合いをしながら上を目指す。
最後に天井に設置された扉を持ち上げると、光に目がくらんで辺りが白くなった。
ゆっくりと目を開けると、青空と青銅の鐘が視界に飛び込んでくる。ここは大聖堂の鐘楼、しかも大鐘の真下だった。
「はーっ、空気うめー」
「ちょっと、早く出てよ。僕も青空吸い込みたい!」
理由もなしに、主祭壇に秘密の空間や床ハッチが設けられることはない。
中は緊急用の脱出路につながっており、そのうちの一つがこの鐘楼へのルートなのだ。ふたりは、埃を払いながら大鐘の下に出た。
見晴らしは抜群で、大通りを挟んで人、人、人の群れが遥か遠くまで続いている。
城壁の外、優美な石の建造物が続く街並みの果てには、碧くけぶる森が広がっていた。
「ここでごはん食べたらおいしいだろうなあ」
とキアロがつぶやくと、スクーロが「お前、いいこと言うじゃん!」と目を輝かせる。
サラミや燻製チーズの前菜はもちろん、主菜は絶対に肉と魚の二種欲しい、と贅沢を言い出すので、「誰がここまで運ぶのさ。お手伝いさんたちをこき使っちゃだめだよ」と戒めておいた。
たわいない話に花が咲くが、鐘楼守がすでに下の踊り場で、大鐘のロープを手に待機している頃だ。
ふたりとも丸めた綿を耳に詰め、その時を待った。
鐘が打たれると、大聖堂に留まっていた鳩が一斉に飛び立っていった。
地上では、純白の頭巾を被ったジジとトトが、ミケーレを挟んで金色の馬車に乗り込んでいる。
キアロは弟たちの晴れ姿に、堂々としていて偉いぞ、とエールを送らずにいられない。
軍楽隊がラッパを吹き鳴らし、盛装の枢機卿団、近衛兵二千名からなるパレードが始まった。
馬車から、慈愛に満ちた笑顔のミケーレが人々に手を振っている。
彼を迎える歓声は、鐘の音を打ち消すほどに盛大なものだった。
世間でのミケーレ人気は相当なものだが、それは彼が美貌の若者だから、というだけではない。
実はオペラ「ヴァルモラナの決起」には、ミケーレらしき人物も出てくるのだ。
劇中の教皇は、若き枢機卿のあまりに清廉な人柄に恐れをなして、皇帝暗殺計画を持ちかけることができなかった。
そのため、彼は凶行について何も知らず、ヴァルモラナが攻め入ってきたときには、彼女の誤解であるとして教皇を庇う。
しかし、ヴァルモラナから暗殺の証拠が突きつけられるや、自分の命で贖うから教皇を赦してやってほしい、と涙ながらに乞い願うのだ。
結局、その願いは聞き入れられずに教皇は討たれ、枢機卿は「それでも私は、神と、人を信じることをやめない」と悲痛の胸の内を歌う。
聡明な主に恵まれたヴァルモラナと、愚かな上役に仕えねばならなかった若き枢機卿、その鮮やかな対比が浮かび上がるクライマックスだ。
オペラの裏主人公とも言うべき青年枢機卿はもちろん人気を博し、それがこうして新教皇・ミケーレの歓迎へとつながっている。
華々しい光景の裏にあるものを思いながら、ぼんやりしていたキアロの隣でスクーロがつぶやいた。
「にいに、本当に教皇になったんだなあ」
その声には、祝福と綯い交ぜの寂しさが滲んでいる。
キアロは「光ってるみたいだね」と目を細めた。
ジジとトトというふたりの天使を従えたミケーレは、教皇というよりはもはや救世主のようだった。
頑健な体つきは若さと未来を感じさせ、甘い苔色の瞳は慈愛に満ちた聖人を思わせる。
加えて、ゆっくりとした所作が高貴な者特有の鷹揚さを印象づけた。
パレードは時間をかけて大通りを進み、街の中央に位置する円形広場に出ることになっている。
キアロとスクーロは、急いで外階段を降りていった。
ふたりして外套の頭巾を目深に被り、顔を見られないよう気をつけながら群衆に紛れ込む。
そして、押し合いへし合いの人混みから馬車に向けて手を振った。
幸運にもミケーレと目が合うと、彼は「あ」という顔をして、両脇のジジとトトの肩を叩いた。
無邪気に笑うジジとは違って、トトは半べそをかいていたが、キアロの姿を認めると歯を食いしばり勇ましい顔で手を振った。
これにはむしろキアロのほうが、泣き出しそうになってしまった。
終点の円形広場には豪華な演説台がこしらえられていた。
ミケーレは双子を伴い、大勢の近衛兵に守られながら壇上に上がっていく。
一段と熱狂が吹き荒れ、人々の期待が最高潮に高まったのを見て、ミケーレが声を張り上げる。
「神に望まれし子らよ! 今日、我々は新たな時代の扉を開こうとしています」
喝采が起こったが、次の瞬間、広場は不穏などよめきに包まれた。
ミケーレの合図に合わせて、双子が白頭巾を脱いだのだ。
同じ背格好、同じ顔なのだから、双子であることは見紛いようもない。
しかし、一方には忌まわしきオウガの証、ツノが生えているではないか!
そう思って絶句しているだろう民衆に、ミケーレが力強く続ける。
「かつての教えが腐敗し、善なる人々の心を痛ませたことを、私はこの胸に刻みます。しかしまた、我らを見守る神の愛も、同じく胸に刻まねばなりません。反省と前進。真の信仰に立ち返る鍵は、そこにあります」
ミケーレが両手を広げて、双子を呼び寄せた。
「私には、かつての権力者たちが隠してしまったオウガの真実を、白日の下に晒す責任があります。長い話になるでしょう。すべてを理解していただくには、より長い時間がかかるでしょう。
そして、あなたがたの意識が変わるには、もっと長い時間が必要でしょう。もしかしたらそれは、あなたの子が親となり、孫がさらに親となるほどの時間かもしれません」
誰もがこの衝撃的な演説に固唾を呑み、ミケーレを見守っている。
「しかし、真実の下、我らは一つです。誰もが、神の愛に包まれていることを感じられる国をつくらねばなりません。そのために、私は神に仕えるこの身で、あなたがた一人ひとりに仕えましょう!
あなたがたすべての忠実なしもべとなりましょう! 皆で、新しい時代を迎えようではありませんか!」
地割れのような歓声が上がった。石畳に、亀裂が入るのではないかと思うほどの盛り上がりようだった。
オス・サクラム教の教義では、神は堕落してしまった人間たちをまだ赦しておらず、教皇だけが神と人をつなぐことのできる存在だ。
それゆえ教皇は聖人と仰がれる一方、その特権意識がちらつくたびに、民衆の反発を招いてもきた。
しかし、この光り輝く新教皇は、自らを国民のしもべとのたまったのだ。
これに感激しない者がいないことは、空前絶後の声援が物語っている。
急にキアロのツノが震えた。あっと声を上げ、隣にいるスクーロに目をやる。
彼がしてやったりという顔で空を見上げると、案の定、光に縁取られた雲からはらりはらりと風花──雪が降ってきた。
祝福の花弁に、群衆の興奮はさらに勢いを増していく。
「粋なことするな~。ええっと、僕だって……」
キアロは考え込むと、よし、と胸いっぱいに息を吸い込んだ。「おい、目立つことすんなよ」というスクーロの忠告をよそに、両手を口の回りに当てる。
「Un nuovo tempo! 新しい時代を!」
キアロの絶叫に拍手が湧き起こった。
そして手を叩く者、拳を突き上げる者、歓喜に踊り狂う者、その誰もが「Un nuovo tempo! Un nuovo tempo!」と叫び始めたのだった。
新しい時代への叫びはやまない。
キアロもスクーロと手を取り合って、声が枯れるほど叫び続けた。
壇上のミケーレまでもが拳を突き上げて、新時代を約束している。
困難は続くだろう。
民衆が真の創世神話を受け入れるまでには、気が遠くなるような時間がかかるだろう。
それでも今日ここから、人とオウガが共に生きる新しい時代が始まるのだ。
新時代への祝福は、雪の舞う空にいつまでもいつまでも響き渡っていた。




