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【第四章 石を落とし、星を掲げよ】旅立ち

 古代神殿に差し込む光の中で、ふわりと湯気が上がる。

 甘酸っぱさを含んだ心とろかす香りが、部屋いっぱいに広がった。


「野イチゴのクロスタータだよ、召し上がれ」


 と皿を掲げたミケーレの声はいつになく得意げで、キアロにはとても新鮮だった。

 だが、生地は金の麦畑の色に焼けており、そこから覗くジャムはルビーのようにきらきら赤く、自信作にふさわしい出来だ。


 キアロはもちろん、ジジとトトもうれしそうにしているが、スクーロの感動の仕方は格別だった。澄んだ瞳をうるうるさせ、唇を噛んでお行儀よく座っている。

 キアロが「よかったね」と微笑むと、彼は突っ張ることも忘れたようにこくりと頷いた。


「久しぶりに焼いたものだから、結構手こずったよ。昔はよく、バターが足りないってスクーロに怒られたっけ」


 キアロは、ざくっとした生地ととろっと流れてくるジャムを頬張り、「おいひいです!」と口をはふはふさせる。

 双子はちょっとずつ、真剣に生地を舐めている。


 そしてスクーロはというと、ひと口食べるなり目をこすり、


「うん……最っっ高においしい!」


 とまなじりと口角がくっつきそうな笑顔で言った。


 確かにおいしいが、スクーロ作のほうがバターたっぷりで贅沢だったかも、とキアロは思った。

 きっとバターの量の差が、ふたりが育った境遇の差なのだろう。


 窓からはひばりの鳴き声が聞こえ、柔らかな風が吹き込んでくる。

 春のよき日のこのお茶会は、実はキアロとスクーロの壮行会だ。


 ふたりの「常に誰かの目がある宮殿よりも、慣れ親しんだ古代神殿で楽しみたい」という要望により、ここで開かれている。


 お腹も満ちたところで、ジジとトトが「プレゼント~」と手のひらサイズのカードをくれた。

 彼らの顔が描かれており、もちろんスクーロの分もある。

 スクーロはぴんときたようだったが、キアロは「これは?」と首を傾げた。


「聖なる(ホーリー)カードだよ。ジジくんとトトくんが餞別を贈りたいって言うから、旅のお守りになるものはどうかな? と思ってね」


「そういうのがあるんだ。かわいいし、すごくうれしいです! でも、ふたりの絵がホーリーって言われるの、なんだか笑っちゃうな」


 なんでー、と不満を訴える双子に、ミケーレが「私が仕上げをしよう」と微笑む。

 彼はカードに指で、オス・サクラム教のシンボルマークである細長い三角形を描くと、真剣に祈りを捧げてくれた。


「祝福あれ、そして安全に」


 戴冠式以降、ミケーレは外交や内政の舵取りに忙殺される日々を送っていた。

 キアロとスクーロが「春になったら旅に出たい」と切り出したのは、そんなさなかのことだった。


 もちろんミケーレは、子どもが旅に出るなど言語道断といった姿勢だった。

 しかし、ふたりの意志は固かった。


「俺はこの古代神殿しか知らなかったし、ずっとにいにといられるならそれでもいいと思ってた。でもさ、にいには知ってる? 

 夜の海って、光の網をまとってるみたいな揺れ方するんだよ。本当に透明な湧き水って、足突っ込むまで気づけないんだぜ。ごつごつした岩場を歩くってすげー大変で、今までこんなとこ痛くなったことない! ってとこが筋肉痛になるんだ。そういう体験したら、もっといろんなとこ行きたいって思った」


 ミケーレが、クマのできている顔を左右に振る。


「だめだ、スクーロ。確かに冒険は素晴らしかったろう。でも、お前の命を狙う者がいつ現れてもおかしくない。宮殿にいれば安全だ。

 そうだ、スクーロ用の庭をつくり、自由に出歩けるようにしよう。ときには歌劇団を呼んで、キアロくん以外にも遊び相手を──いや、そういうことじゃないな。わかっているんだ……本当にすまない」


 床に膝をつき、両手で青い顔を覆うミケーレの姿に、キアロの胸は痛んだ。

 スクーロはなおさら苦しかっただろう。


 しかし、彼は引かなかった。


「にいに。俺は暇つぶしをしたいんじゃない、世界を見たいんだよ。世界を知って、新しい時代のために、俺にできることを見つけたいんだ」


 ミケーレは祈るようにスクーロを見つめていた。もはや、懇願しているのがどちらかわからない。


「できること? スクーロ、もう発信の力は使わせない。リリスの後継者の座を空席にしないことに意味があるんだ、それだけでいい」


「ほんとに今後、力を使わずに済むと思う? 今の枢機卿団から、ほんとに俺の存在が漏れないと思う? 皇帝だって宮廷で暗殺されたってのに、俺は絶対に大丈夫だって言える?」


「……申し訳ないと何万回謝ったところで、お前を苦しめるばかりだね」


 茎の折れた百合のようにうなだれるミケーレに、スクーロは優しくかぶりを振る。


「にいに、俺はね。発信の力を持ったこと、後悔してないんだよ。ただ、手に入れた力に責任を持ちたいんだ。

 人に言われるがままじゃなく、力に振り回されるんでもなく、ちゃんと考えて力を使いたいんだよ。そのためには、力そのものより強くならなきゃ」


「持てる者は、力に手綱をつけ、決してその主従をたがえてはならない、か」


ミケーレのつぶやきに、キアロたちはびっくりして顔を見合わせた。なぜなら、オウガの島でリリスからも聞いた台詞だったからだ。


 ふたりは、オウガ島に行ったことはミケーレに報告したものの、女神に会ったことは内緒にしていた。人間嫌いのリリスは、その健在が人に伝わるのを嫌がるだろうと思ったからだ。


「オス・サクラム教の古い教えの一つだよ。そんな驚いた顔をしてどうかしたかい?」


 ふたりして、ぶんぶんと首を横に振る。


「や、なんでもない! えっと、にいに。安心して俺たちを送り出してよ。宮殿より、俺の顔を知らないやつらばっかの外のほうが、安全ってことだってありえるんだからさ!」


 ミケーレは立ち上がり、涙ながらにスクーロを抱きしめた。


「自立しなくてはならないのは、私のほうだったね。スクーロ、寂しくなるよ」


「俺はあ! ぜーんぜん寂しくない! ほんとに、ほんのちょっとだけそういうのもあるかもだけど、でもぜんっぜん寂しいとかないから!」


 ミケーレに食い込みそうなほどきつく抱きつきながら、支離滅裂なことを言うスクーロに、キアロも目頭を拭わずにはいられなかった。


 長い抱擁からスクーロを自由にしたミケーレが、今度はキアロに尋ねる。


「キアロくんも、本当に?」


 スクーロが神殿に閉じ込められて育ったように、キアロもオウガ村に縛られ、どんなに外の世界に焦がれようとも旅など望むべくもない身だった。

 けれど、教皇庁に招かれてから学んだこと、体験したことのすべてが、それまで漠然としていた外への憧れに確かな手触りを与えてくれた。


「僕、もっとオウガと人間のことを知りたいんです。オウガに恐ろしいことをやれてしまう人間は、オウガよりよっぽど鬼に近いように思えるけど、そんな人間ばかりなのかも僕にはまだわからない。

 悲劇を繰り返させないために人間というものを見つめて、そして、ツノのあるジジとないトトが、笑って暮らせる世界をつくる方法を考えたいんです」


 じわじわと新たな涙を浮かべるミケーレに、キアロが続ける。


「それに、ジジとトトに旅に出たいって話をしたら、『ミケーレがいるから平気~』なんて言われちゃって! いや~、とうとうお兄ちゃん役取られちゃったなって」


 軽口のつもりだったが、彼はまっすぐな瞳で言った。


「わかっていると思うけど、ふたりとも、誰よりも君を愛しているよ」


 そのとおり、キアロは知っている。

 隠れて泣くトトを、ジジが「にーちゃんは俺たちのこと忘れないから大丈夫。行かせてあげよ」と、今にも泣きそうな声で慰めていたのを。


 ミケーレは「あの子たちのお兄ちゃんへの最大の愛情表現を、私が邪魔するわけにはいかないね」と悲しげに笑って、キアロのことも強く抱きしめてくれた。

「私も君を好きだよ」と、ささやくように添えて。


 回想を終え、キアロは改めてお茶会の景色を見回した。

 ミケーレは教皇になってからは常にどこか張り詰めた雰囲気をまとっていたが、今日は溶けてしまいそうに緩んだ顔をしている。


 ジジもトトも上機嫌にはしゃいでいて、丸いほっぺは食べ頃のトマトみたいだ。

 初めて会ったときには、石膏像のようにつんと澄ましていたスクーロが、今は親友としてキアロの肩を叩いて笑っている。


 大好きな人たちと甘いお菓子を楽しみ、香りのよいコーヒーを飲んでいる。半年前には想像もしなかった今がまるで夢のように思えて、ふいに視界が滲んできた。


 それに気づいたらしいミケーレが何か言いかけたが、スクーロが「にいに! 明日はさくらんぼのクロスタータを持たせてよ、あとピスタチオのやつも!」と元気よく遮った。


「やれやれ、今夜は徹夜かな」というミケーレのぼやきに皆で笑う。涙を拭うキアロの背中を、スクーロがそっとさすってくれた。


 柔らかな風が髪をすいていく。

 ぴちくぴちくとせわしいひばりのさえずりは、銀の水面がちらちらと光る様を思わせる。

 優しい景色の何もかもがきらめいて見えて、キアロは幸せの涙を止められなくなってしまった。


***


 旅立ちの朝は、薄水色の空が広がる穏やかな天気だった。

 古代神殿を取り囲む茂みには、この国でマルゲリータと呼ばれるヒナギクの花々が揺れている。


 スクーロと共に神殿屋上にやってきたキアロは、地上の愛らしい風景を破るように大声を上げた。


「ええっ? 『寂しくなんかないから』ってミケーレさんに抱きついてたあれ、演技だったの!?」


 スクーロが、しーっと人差し指を自身の唇に当てる。まったく悪びれていない表情だ。


「演技じゃねーよ、演出! 俺みたいなツンデレキャラはさ~、あんなふうに言ってることとやってることが裏腹なときが、一番輝くんだよね。やっぱにいにの前では、断然かわいくいたいからさ!」


「僕、今……引いてるよ。なんでそんなこと笑顔でネタバラシできるの!?」


 感動の涙を返せ、とスクーロを揺さぶっているところに、ミケーレが双子を連れてやってきた。


「おやおや、ふたりとも本当に仲がいいね」


「ミケーレさん……実はスクーロが寂」


「わーっ、わーっ! にいに、クロスタータ焼いてきてくれた!?」


 ミケーレは頷くと、大きな油紙の包みを差し出した。ふたりでわあっと歓声を上げる。


「やった、ありがとにいに!」


「まだほかほかだ。スクーロがつまみ食いしないように、僕が見ておかなくちゃ」


 スクーロが「んなことしねーよ」と唇を尖らせながら、クロスタータでぱんぱんになった背負い袋をぽんと叩く。


「キアロくん、どうかスクーロをよろしく。そして君も、スクーロのことを頼ってね」


「はい! 僕、気づいたんです。僕はスクーロの前でなら、わがままでいられるみたいだなって」


 教皇庁に来たばかりの頃、キアロはミケーレに「もう少しわがままになったほうがいいね」と言われた。

 そのときには真意を測りかねたが、今はわかる。


「自分のまんまでいられるって、最高ですね」


 ミケーレは瞳を見開くと、「よかった、君は本当にたくましくなったよ」とくしゃっと笑った。


「ふたりが見聞を広めている間、私も学び、人々の幸せに尽くすつもりだ。けれど、椅子に座っているばかりでは見えづらくなることもある。

 帰ってきたら、ぜひ旅で見たことを、そこで生活している人の姿を、その悩みや望みを教えておくれ」


 本当にいい教皇様だなあという気持ちで、「はい!」と返事をする。


「でも、無茶だけはしないで。毎日祝福を送るよ。愛しているからね」


「昨日一億回聞いたから、もー大丈夫! 俺も愛してるよ、にいに」


 双子が「ジジのことは~?」「トトは~?」と聞くので、スクーロが「愛してるに決まってんだろ~まったく甘えんぼさんだな」とふたりに頬ずりをする。


 そんな中、ミケーレがキアロに向かって微苦笑を浮かべた。


「今更だけど、キアロくんのことも、もっと甘やかしてあげられたらよかったな」


「じゃあ、今! 今甘やかしてください」とキアロが両腕を広げる。彼は少し照れたようだったが、大きな体でキアロを包み込んでくれた。


「早く帰ってきてくれたら、もっと強く抱きしめるよ」


「だったら、明日には帰ってきちゃおうかな」


 冗談に冗談で返すキアロを、スクーロがぐいっと引き剥がす。

 てっきり、ミケーレを取られてやきもちを焼いたのだろうと思ったが、なんとスクーロはキアロに向かって両腕を広げると、


「ん!」


 と口を尖らせた。


「え? ど、どういうこと? 僕にハグしろっていうの?」


 スクーロは再び「ん!」と声を上げる。


「意味わかんないよ! 僕とミケーレさんがしているのは、お別れのハグなんだよ? 僕とスクーロは今日からずっと一緒なんだよ?」


「なんだよ! 俺とはそんなに嫌なのかよ! ん!!」


 トトがぼそっと「やきもちだ……」とつぶやくと、ジジも「やきもちだよね~」と頷く。


「そうかあ、子育ての終わりを感じて複雑だなあ」


「ええ? 感慨深そうにしてないで、どうにかしてくださいよ! あっ、スクーロはこっち来ないで」


 ふたりの間で追いかけっこが始まりそうになったそのとき、火のついたような泣き声が上がった。

 トト? とキアロがしゃがむが、肩を震わせての大泣きがやむ気配はない。


「あ~あ、トトったらいけないんだ~。約束したでしょ。泣かないでお見送りしよって」


 そう言うジジも、すでにウサギの目をしている。


「いいよ、ジジもトトも我慢しなくて。兄ちゃんのために泣いてくれてありがとう。ふたりとも愛してるからね……なんか兄ちゃんも泣けてきちゃった~」


 キアロにつられたのか、とうとうジジも泣きじゃくり始める。

 ふたりの背中を優しくトントンしていると、スクーロに双子ごと抱きしめられた。さらには、ミケーレが上から覆いかぶさるようにして、四人を包み込んだから大変だ。


 双子が「ぺらぺらになっちゃう~」「息できない~」と大げさに喚く。スクーロが「おえ、あ、朝ご飯が出る!」と言うので、皆で肩を叩き合って笑った。


 やがてヒッポグリフのぴーちゃんが、森の香りを連れて屋上に舞い降りてきた。

 キアロとスクーロは旅路に空路を選んだのだ。


 最初の目的地は、海を超えた先にある。


 夏毛に生え変わりかけているぴーちゃんの背にまたがり、ふたりはジジとトト、そしてミケーレに手を振った。


「にいに、お仕事無理しないでね! チビたちも、お土産期待してろよ~」


「ミケーレさん、ジジとトトをよろしくお願いします。皆、幸せにね」


 トトが不安げに眉を下げ、ジジはぷうっと膨れる。


「幸せにとか変~。にーちゃ、夏には帰ってくるでしょ?」


「あはは、そうだね。すぐ帰るよ!」


 皆、幸せに。

 自然に口をついた言葉だが、母も、そして父もそう遺してくれたことを思い出すと、胸がじんわりした。


 自分が願う立場になったことで、あのとき父母がどれだけ愛しいと思ってくれていたかが、願わずにはいられなかった切実さが、手に取るようにわかる。

 そしてその祝福は、途切れることなくこれからも注がれていくのだ。


 追い風が吹いた。

 ぴーちゃんが、ごきげんに喉を鳴らし舞い上がる。


 まずは孤独な女神にクロスタータを届けよう。

 昨晩、スクーロと一緒に煮詰めたさくらんぼのジャムは、気に入ってもらえるだろうか。ミケーレと一緒にこねた生地が、歯ざわりよく仕上がっているといいのだが。


 笑顔になってほしい人とおいしいものを食べる喜びを分かち合ったら、次はどこに行こう。

 いくつもの朝と夜を越えた先には、まだ見ぬ世界が待っている。(了)

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