第二章 『酒の肴』
ナッシュル地区が暗闇なのは朝方と夜だけではない。朝だろうが昼間だろうが、いつでも真っ暗だ。〈勤仕の鐘〉が鳴る頃に少しだけ赤みを帯びるが、そんなものでどうこうなる暗さではない。
太陽の光にインクをぶちまけて、闇が差し込んでいるんじゃないかと思うぐらいに真っ暗だ。
原因は嫌と言うほど分かりきっている。
国をぐるりと囲う――教科書を引用するなら〝抱きかかえている〟――とんでもなく高い塀のせいだ。老朽化が進み、元々はどれだけの高さがあったのかすらハッキリしない、通称〈ベイシュルファの腕〉が、飽きもせず凝りもせず太陽光を遮っているのだ。
教師たちは〈英断〉を語る時、ナッシュル地区を〝不運の産物〟や〝試練の地区〟などと意味ありげに祭り上げるが、要は太陽の軌道と〈腕〉とナッシュル地区の配置が、笑えるほど最悪だっただけだ。
しかも〈腕〉が遮ったのは太陽光だけではない。
ナッシュル地区は帝国で唯一海に面しており、一年を通して極寒の海風とそれに乗って潮が吹き荒ぶ。これこそ〈腕〉が遮ってくれればよかったのに、荒波と暴風と潮で崩れ去ったのか、ナッシュル地区に検問なしで入り込んでくる。
このせいで極寒になった地区の地面は潮まみれになり植物が壊滅した。
それだけならまだ救いがあったが諸悪の根源〈腕〉があるせいで、ナッシュル地区は致命的に水捌けが悪い。
水を吸って生きてくれる植物があればまだ話は違っただろうに、前述通り壊滅しているので、現在のような底なし沼のようなドロ道が生まれたのだ。そして、それらは地区の地盤の強度を大きく損なう原因にもなった。
いつでも暗く、寒く、植物が壊滅し、足元の悪い地区――。そんな地区に好き好んで出入りする人間なんているはずがない。いるとすれば極端なマニアか、後ろ暗い人間だけ。
そんな誰でもわかる事が、人を更に遠ざけた。
人が遠ざかれば交流が無くなる。交流が無くなれば情報の共有が滞る。情報の共有が滞れば、その地区は様々な面で劣る。劣れば優越感と劣等感を生み出す。
そしてその二つの感情の行きつく先は―――差別だ。
ベイファ地区やベイガ地区の住民に当然のようにある技術や知識は、ナッシュル地区には流れてこなかった。二つの地区と比べて余りにも環境が違ったのもあるが、職人や学者が足を踏み入れる事を拒んだのだ。差別を受けたくないから。
それ故に、地盤が緩いナッシュル地区では強化する技術が無く、建てられる家の高さは二階までになり、安全性や耐久性、環境に大きな問題があるとして公の公共の建物が建てられることは無く、ナッシュル地区にある最大の建物と言えば、地区長の家だった。
♢♢♢
『我らが英雄〈ヒート・ヘイズ〉、汚物軍部に鉄槌を下す!』
約十日前にベイガ地区で行われた軍部主導の治安維持を目的とした権威誇示イベント〈巡視〉において、我らが英雄〈ヒート・ヘイズ〉が、イベントに参加していたベイガ貴族の4人に鉄槌を下し、見事その貴族は軍馬にぐちゃぐちゃに踏み散らされ、原形を留めない汚物に変貌した。
この大変喜ばしく、大変名誉で誉れ高い行為を、軍部および帝国中枢は犯罪と認定し、〈ヒート・ヘイズ〉を国家反逆組織と侮辱し、挙句の果てに〝無差別押し出し〟という大変無能な犯罪名を付けたのは記憶に新しいだろう。〈ヒート・ヘイズ〉は神の御使いであり、神の御意思であり、貴族や軍人共が淘汰されるのは自然の摂理だというのに。
名誉に誓ってここに書き記すが、ナッシュル住民が貴族共や軍人共に傷付けられても、軍部も帝国中枢も何もしてこなかった! それなのにあいつ等は、自分が被害者と自覚するや否や怯え切って、権力を振りかざしているのだ。
真の強者が誰なのか、真の力がどういうものなのか、いま一度中央の人間どもに―――
♢♢♢
「ぬがっ」
突然差し込んだ眩しい光と読むのが辛くなる文章に、ラァズは思わず顔を背けて『酒の肴』を閉じた。
地区専用回覧板とも旬報とも呼ぶ『酒の肴』は、現地区長イルバレルが自身の地位と金を確かなものとすべく、考案制作した〝ベイガ・ベイファ地区専門醜聞紙〟だ。
日頃、該当地区の住民に散々差別され侮辱され貶されているナッシュル住民の微かな鬱憤晴らしと、ご近所付き合いのキッカケとなれば、と開発したらしいが、実際はイルバレル自身、捌け口が欲しかったのだろう。
『酒の肴』と呼ばれるように、その挟み込み式冊子には、酒の肴にピッタリのありとあらゆる醜聞、事件が書かれている。
とある貴族の夫婦が離婚した、とある貴族の娘のパンツが公開された、とある子持ちの軍人が不倫していた、とある軍人が集団暴行された、とある貴族の娘はとある貴族の愛人をやっていた、とある貴族が処刑された、とある軍人が強制労働を課された……。
一体どこからこんな情報を仕入れているのか見当も付かないが、イルバレル自身が公言しているように若干の誇張が加えられているので、鬱憤晴らしに最適だと住民達から好評で、イルバレルは思惑通り地位と金を盤石のモノとしている。
しかも最近では国家反逆組織〈ヒート・ヘイズ〉と名乗る集団が事件を起こしまくっているので記事にも困らず、『酒の肴』の分厚さはラァズの親指ほどの厚さになりつつある。
だが、現在ラァズが心の底から憂鬱なのはそれとは関係がない。
(うあー……)
ラァズは『酒の肴』で光を遮りながら、見なくても分かっていたが目を細めながら唸った。
そんなイルバレルが住むのは、真っ暗闇が普通のナッシュル地区内で、太陽光が差し込んでいる場所。つまり同地区内でも裕福層が住む〈一等地〉だ。
〈一等地〉は他のナッシュル地区とは全てが違う。
地面という地面は全て完璧に舗装され、等間隔で街灯と家が建ち、家は三階まで建設でき、ドロが飛び散らないのを良い事に目に毒なほど、原色で塗装された家々が立ち並んでいる。暗闇に目が慣れていていなくても毒だ。
ラァズは目を瞬きながら、老朽化で空いた穴から光が差し込む〈腕〉に背を向けて、家で丁度日陰になっている道を早歩きで進んだ。
〈一等地〉は太陽の光が差し込むから〈一等地〉であり、そんな場所に住む人間は太陽の光を誇り、見せびらかすかのように陽の当たる道を歩く。
それは人との接触を極力避けているラァズには、とても有難い習性だ。このまま「厄介な地区長」とも会わないで済ませたい。
家々のキツイ配色に目が慣れてきた頃、ベイファのお屋敷かと思うほど横に大きな屋敷が見えてきた。
屋根が深緑色、壁が赤色、窓枠が黄色、玄関の扉が紫、館を囲う柵が青という色の暴力の館が。片目しか見えていないラァズにも直視が難しい館が。
(…………敷地に『肴』ぶん投げて逃げようかな)
一瞬とても魅力的なアイデアが飛び出したが、ラァズの理性がそれを却下する前に、避けられない現実がその案を却下した。
「ラァズ君じゃないか!」
「んぎっ!」
アンバンおばさんといい勝負が出来るほどの大声に、ラァズは驚きと怒りで変な声が漏れた。
ここで「げぇ!」なんて言ってしまえば、家庭訪問の機会を与えてしまう。どれだけ嫌でも嫌悪していても声に出すわけにはいかない。
(ど、どこだ……?)
恐る恐る周囲を見回して、ラァズは厄介な地区長の姿を探す。
「ハハハハハッ! 上だよ、上!」
キョロキョロする様を見ていたらしい〝厄介〟の声が、おかしな事に頭上から聞こえてくる。訳も分からずに視線を上にあげ、ラァズはその気持ち悪さにギョッとした。
「ぎッ!」
「しっかりしているようにみえるラァズ君もまだ子供だな!」
イルバレルは、うねる茶色の髪の毛をオールバックにし、ナッシュル地区では自殺行為ともとれるシャツのボタン上段三個解放をした身なりで、直視の難しい館の二階の窓から身を乗り出し手を振っていた。
イルバレルの地位を目的に擦り寄る女性たちの〝ナッシュル地区のハザイス将軍〟という評判を気にしているのが明らかだ。
しかもこの男は、家の影に隠れていたラァズを気持ち悪いほど目敏く、館の二階の窓から見つけ名前を呼んだのだ。〝聞こえなかった〟と言い訳が立たないほどの大声で。
ラァズは奴から見えない角度で思う存分嫌な顔をして、眼帯がしっかり目を隠しているのか確認してから、無表情を取り繕ってイルバレルに返事をした。声を掛けられて驚いた、の声で。
「イルバレル地区長!」
残念ながらナリアほど演技力がないラァズの声は、どことなくドスが効いたものになった。それなのに、そんなこと気にしてないのか心の底から嬉しそうにイルバレルは続ける。
「上がっておいで、ラァズ君。ナリア君と君の近状を聞かせてくれ!」
(嫌だよ!)ラァズは鳥肌を立てながら即座に心の中で叫ぶ。だが、周囲にいた住民たちの答えは違った。
「まぁ、イルバレルさんったらお茶目ね」
「地区の子供の事を気に掛けているなんて出来た人だ」
「私も招かれたいわ」
長時間太陽光を浴びていると頭の中に眠っていた種が芽吹いてお花畑になるのか、周囲の住民の言葉が知らない言語のように聞こえる。
ラァズの中に四十代間近のおっさんに関する「お茶目」と「出来た人」の基準はまだ出来上がっていないが、どう間違ってもイルバレルにその二つの評価は絶対に下さない。控えめに下せて「上昇思考」だ。それ以上に好意的な評価はラァズには出来ない。
こんな朝っぱらから、学校を控えている十四歳の少女を、子持ちの腐っても地区長が、その子の姉のケツを追いかけ回しているのにも関わらず、家に上がる事と近状報告を促す。
どう見ても考えても狂気の沙汰だ。数年前に会ったニーラの十二人目の恋人といい勝負が出来る。
差別まみれの学校が唯一教えた正しい事の「知らない人について行ってはいけません」「知らない人の家にあがってはいけません」「個室で年上の人と二人きりになってはいけません」をイルバレルは習わなかったらしい。
恐らく誰かのケツを追いかけ回していて聞いてなかったのだろう。
「『酒の肴』を届けにきただけです」
ラァズは聞こえるか聞こえないかの声で言い、イルバレルが玄関に来る前に、玄関のポストに『酒の肴』を入れてしまおうと走った。
しかし、ラァズが柵を超えたあたりで玄関の両開きの扉が開いた所で、その思惑は潰された。
玄関から出てきたのは女性だった。
〝標的〟よりもクルクルしたたっぷりの金髪に真っ赤なリボンを付けた、右目を眼帯で覆っているラァズでも目を疑うほど、胸元が強調され露出したピンクのドレスを着た、派手な女性。
「あら、可愛いお客様」
長い睫毛が陽の光を浴びてキラキラ輝き、青色の瞳が笑う。肉厚の唇は何かを塗ったのか、肉を食べた直後なのかプルプルしている。
(まどろっこしい発音!)
その姿と発音にラァズの警戒段階が跳ねあがり、青色の柵の手前で足にブレーキがかかる。
この女性は知らない。イルバレルの妻でも娘でも息子でもない。歴代のイルバレルの愛人にも居なかった。イルバレルが好むタイプでもない。
第一、ナッシュル地区で、フィーク家のそれもラァズに対して『可愛い』なんて言う人は居ない。言うとしたら赤髪目的の変態か、優秀な姉ナリアと比較して嫌味として、だ。
「……英断の〈腕〉が貴女に」
眼帯で右目が隠れているか確認しながら、ラァズはとりあえず挨拶をしながら頭を下げる。これで不自然な停止の言い訳が出来た。
「英断の〈頭脳〉が貴女に。可愛らしいお客様。どうぞ、上がって?」
クスッと笑って、にっこりとその女性は身振りでラァズを招く。その仕草は至って好意的だが、まどろっこしい発音なのは変わらない。
(……ベイガ地区の人間……)
〝他地区の人間の好意は受け取るな。それには必ず裏がある〟
「いえ、学校もありますし、コレを返しにきただけなんです」
ラァズは『酒の肴』を振った。
イルバレルが盤石の地位を乱用して、ナリアと接点を得るためにフィーク家を回覧順の最後に回した『酒の肴』を、と心の中で付け加えておく。
「まぁ! なぁにそれ?」
「リーナ嬢!」
階段をどたどた降りてきたイルバレルの声と、謎の女性の楽しそうな声が被る。
「ねぇ、『酒の肴』ってなぁに?」
甘えるような声でイルバレルの腕をとり尋ねる女性。
そんな女性の胸に目を奪われまいとしているのか、目を泳がせるイルバレル。若干焦っているようにも見える。
(……?)
ラァズはその様子に若干の違和感を覚えた。
イルバレルは女性ならば誰でも良いのかと思わせるほどの好色家だが、実際のところ好みはハッキリしているし、間違っても尻に敷かれるタイプでは無いはずなのだが。
「――あ、と。ただの地区の情報共有の冊子ですよ」
そう答えたイルバレルに、ラァズは〝違和感の正体突き止め〟を止めて、トドメを刺そうと、女性の腕が届かない程度の距離まで近づいて、女性に『酒の肴』を差し出した。
「はい。イルバレル地区長が考案作製した、醜聞紙です」
「あっ!」
心底狼狽し慌てたイルバレルが『酒の肴』を奪おうとするが、予想外の素早さで女性が手を叩き落とし、『酒の肴』を受け取った。
「ありがとう、ラァズちゃん」
『酒の肴』をふくよかな胸が潰れるぐらいしっかり抱きとめ、にっこり笑った女性の目に、ラァズは見下しがあるのを見てとった。ベイガ住民、ベイファ住民、アンバンおばさんの目の中にあったのと全く同じ、見下しの光。
「上がっていかない?」
「そうだ。ラァズ君、上がってお茶でもしよう!」
女性のお誘いに、気持ち悪いほど必死に慌てて加勢するイルバレル。
「……学校があるので遠慮します」
その必死さにひっかがるものを覚えながらも、ラァズは一歩下がってから頭を下げて、二人から小走りで離れた。
「あーあ、残念。かわいい子だったのに」女性の甘ったるい声が聞こえる。
「さぁ、イルバレル。お茶しましょうよ。今日は記念日なんだから」
(記念日?)ラァズはチラリと振り返った。
イルバレルの腰に手を当てて館の中に導く女性。豪華な紫色の玄関が閉じてゆく。
「!」
ラァズはそんなイルバレルの不倫の館の、三階右端の窓辺に立つ人影に気が付いた。
イルバレルと同じ茶髪の間から覗く黒い瞳に、ラァズは映っていない。いつもはラァズを憎々し気に見てくるのに。
(……ルシュエル?)
ふわりと消える人影。バタンと閉ざされた扉。即座に響く鍵の掛ける音。
ラァズは右の手の甲にある傷に触れて、むくむく膨れ上がる嫌な予感を断ち切った。
触らぬ人に祟りなし、だ。




